平成11年 北海道文学賞・佳作受賞    

   天使の棲む街で      梶浦康一

 

 

 「アジアは多様である」

 これは一九九四年ジャカルタで催されたアジア太平洋会議(APEC)終了後参加国の高官が洩らした言葉である。

 「こんなに価値観の違う国家が集まって会議をしても、何も決まらない」

 こんな様な意味だと私は解釈した。

 概ねアジアとは、黒海からエーゲ海へ抜けるトルコのボスポラス海峡以東を言う。世界の先進地域であった欧州はこのアジアを欧州に近い方から、近東、西アジア、南アジア、東南アジア、東アジアそして極東アジアと呼んだ。

 ヨーロッパ人は、バスコダ、ガマやマルコポーロを筆頭として豊かなアジアを発見し、その富を本国へ運び込もうと企て、十字架を首からぶら下げたキリストの子供達は、その懐に短銃を隠し他の兄弟に遅れを取ることなく、一気にアジア諸国へ雪崩れ込んだ。

 新興国家であるアメリカも送ればせ乍ら太平洋を乗り越え、日本近海へと出没し始めた。

 彼等は、ランプ用の油を鯨から採るためそれを追って居る内に日本へ到達したのである。遠洋漁業である、水や薪が要る。彼等は鎖国の日本へ捕鯨の中継地としての開港を求めた。

 余談ではあるが、彼等は鯨の脂肪から油を採ると、肉や骨は棄てた。従って伝統的に捕鯨をする日本やイヌイット(エスキモー)とは鯨の利用目的が違い、自ずからその捕獲量も莫大であった。

 現在捕鯨禁止の旗振り役をアメリカが努めているが、この歴史を知れば彼等の説得力には限界があると思わざるを得ない。

 国家の主義主張、論理は人類の正義や真理を求めているのではなく、当該国家のある時点に於ける繁栄の為の理論である事が多い。

 旦て、「日本の総理大臣はトランジスターのセールスマンである」と言った欧米国家があったが、この時期のペリー提督は捕鯨組合の理事長と何ら違うところはない。

尚、この時代のアメリカ人漁師の多くが小笠原諸島に棲み着いて、その末裔達が日本に帰化し現在に至っている。

一方ヨーロッパ諸国はアジアの富を得る為に安い労働者を調達しなくてはならなかった。アフリカ人をアメリカ大陸へ送り込んだ様に、インド人、パキスタン人、中国人をアジア諸国へ植民した。

アジア諸国の多くは陸続きである、古来より漢民族、タイ族、ビルマ族、マレー人等数多くが年月を経るにつれて少し乍ら混ざりつつある状況であったが、ヨーロッパのアジアからの簒奪が露骨になるに連れて、このアジアの諸民族は更に強く掻き混ぜられた。

アジアの多様性の原因のひとつはこの植民政策にあり、もうひとつはトルコ以東を全てアジアと呼んだところにある。

アジアは少なくとも四地域に分類すべき広さを持っている。即ち、アラブ圏、イランから旧ソ連のイスラム国家迄のペルシャ圏、インド圏、中国文明の洗礼を受けた日本を含めた中華圏である。現在の日本人である私共が言うアジアとは、この中華圏と精々インド圏迄であるような気がする。

古来より中国はこの地域の先進国であり、この地域の文化の発信地であった。 周辺地域の国家は朝貢として様々な貢ぎ物を持ち中国皇帝に拝褐し、その見返りとして持ち込んだ貢ぎ物の数十倍に匹敵する土産物を拝領し、更に中国の新しい文明や技術を自国へと持ち帰った。

中国歴代皇帝は中国が世界の中心であると考え、それを「華」即ち中心の華、中華と呼んだ。海を越え、砂漠を越え僻地から国の体を成さない部族の酋長が何某かの貢ぎ物を持って従属の証しとして挨拶しに来る。

「可愛い奴め、何か奴らが見た事も無い物でも持たしてやれ」

右の国のひとつである日本を「倭」と呼んだ様に、「華」に属さない人々は人間ではなく蛮人であると考え、凡そ人間には用いないであろう漢字を周辺国家に宛てた。鮮卑、夷、戎 、蕃、狄、共に中華文明に浴さない野蛮な外国人(えびす)と言う意味である。

現代の韓国でも戦争体験のある年配者には日本人の事を「倭奴(ウエノム)」と、蔑んで呼ぶ事がある。

 日本は千数百年来「日本」であったが、中国と言う国家は無く「秦」であり「漢」であり「唐」であった。現在の中国の版図に成ったのはやはり中原の王朝に朝貢と掠奪を交互に行っていた満州人に依って統一王朝が樹立されて以来の事である。

中国最後のこの王朝は漢民族ではなく、満州族によって建てられた「清」である。やがて清王朝が滅び、孫文、蒋介石、毛沢東が順次その版図を受け継いだが、この版図内に住んでいる人々は、漢民族としての自覚はあったであろうが、決して中国人民としての自覚は少なくとも清王朝以前は無かったと思われる。

日本人が「大和民族」を共通項にするように、彼等の共通項は「漢民族」であり「中華思想」である。漢字を使い、華文明に属している人々が同族なのである。何処からともなく現れて、勝手に造られた王朝、国家に対する忠誠心は無く、関心事は国家の繁栄ではなく同民族の繁栄であって、更に誤解を承知で言えば家族と個人の繁栄が彼等の人生の主眼である。

 新しい王朝が樹立される度に多くの漢民族が、家族、個人の、生活を守る為に、この国家を棄てて海外へ出ていった。

 清王朝から毛沢東の共産主義国家へと革命が成された時の夥(おびただ)しい移民は、現在のカリフォルニア、横浜、神戸、バンコク等に数多くの中華街の礎を築いた。この状況は幕末の日本にひたひたと押し寄せた欧米列強に対抗し、明治維新を成し遂げた日本人が、国家意識は少ないと雖も、その国を棄てる事は無かったのとは対称的である。志士と呼ばれる彼等の多くは国家の行く末に身命を賭して一生を捧げたのであり、太平洋戦争も然りであった。

 しかも中国と云う地域に住む人々の判断は日本人のそれとは違い、文化大革命の時も大量の教養人や経営者等の中流階級の移民を生んだ。

 繰り返し述べるが、この漢字を使う民族は中国と云う国家に支えられているのではなく、個人の利益を追求するところに価値観を見出している人々なのである。

 

第一章 旅立ちの夜

タイの首都クルンテプ、天使の都と云う意味があり、通称はバンコクである。 古代タイ族は現在の中国雲南省に源を発し、九世紀末頃より西へ南へと民族移動をし始め、一二世紀にはインドシナ半島の中央部へと進出していた。

タイの別名に「シャム」があるが、これはカンボジアの先住民族のクメール族によると「野蛮人」を意味するとの事である。

右の事が意味する様に古代タイ人はクメール人のアンコール王朝の支配下にあり、その民族は多方面に分散しひっそりと生きていた。現在も中国南部やカンボジア、ベトナム領内に少数民族として残っているのはこの時代や後のカンボジアとの版図争奪時代の名残である。

 アンコール王朝の衰退と共にタイ族は念願のタイ族による統一王朝をスコータイに建て、やがて山田長政で日本人にとっても馴染みの深いアユタヤへと王朝は変遷し、このアユタヤ朝はクメール文化や、この地域の先住民族モン族の優れた文化を取り入れその勢力を増し一八世紀までの長期政権を誇ったのであるが、しかし前述のビルマやカンボジアとの戦いに疲弊したこのアユタヤ朝も一七六七年ビルマに征服され、その永い歴史に幕を降ろす。

この時アユタヤ朝の武将に依りバンコクの対岸にトンブリ王朝が開かれるが、この王朝は一代限りであり、その将軍、後に有名なラマ一世が一七八二年バンコク王朝を建て、現在に至っている。

人口六〇〇万人のこの街には有名なチャオプラヤ河を中心として、大小様々な河川網が東西南北に走っている。

経済発展に伴ってバンコクは爆発的に膨張し、一九七五年には人口四〇〇万人余りの街であったのが、今や前述の人口に迄増え、それに従って種々の弊害が生み出されている。

高度成長期の日本にも東京へ人口が流入し定着する現象が見られたが、現在発展し続けるアジアの首都の全てにこの現象が見られると言っても過言ではない。

それに対応すべき交通網の整備等の行政は例外なく遅滞し、後手後手に廻るのは現実に即応出来ない官僚機構を例に曳く迄もなく、行政の宿命とも言えるべきものであり、バンコクも例外ではなく、主要道路は車で溢れ、世界で最も悪名高き交通渋滞を見せている。

地盤の軟弱さに加え、役人の賄賂の取り分の決定に時間が掛かると云う東南アジア的意志決定の過程で、地下鉄の建設も儘ならず、庶民の足としてこれら大小の河川群が利用されている。

そんな水上バスが行き交う大河チャオプラヤ河の畔には、仏教の都らしく黄金

煌(きら)めく寺院が聳え立ち、この王都に黄昏が訪れようとする頃人々は帰路を急ぎ、ラッシュが始まりだす。

この夕陽に映える寺院群の中の水上レストランに宋薫華(ソンクンホア)が居た。

一九七八年のこの日彼はタイの名門タマサーク大学を卒業し、同じく幼な馴染みで、同大学卒業の莫龍華(モーロンホア)を待っていた。

名前からわかるように二人とも華僑である。

中国の男性の姓ではなく名前に「華(ホア)」の一文字が付くのは珍しく、通常は女性の名前に用いられる漢字である。

薫華と龍華は「華」という珍しい漢字を共有し、バンコクの中華街で生まれ育った。

バンコクの中華街は、中心より西方に位置しサンペンと呼ばれる雑貨街を取り囲む様に繁栄し、この一帯の土地の所有者はタイ国王であって彼等は間借り人に過ぎないが、この間借り人達がタイの経済を動かしているのも紛れもない事実である。

このチャオプラヤ河に面している水上レストランは中華街から比較的近い所にあった。

レストランの座席が次々と埋まってゆく頃もうひとりの「華」龍華(ロンホア)が現れた。

「クン、大分待たせた様だな」

慎重一八〇センチ近くの偉丈夫である。精悍な顔つきは両親が「龍」の一字を「華」に加えた事が自然に見える。

「いや、今来たばかりさ」

「クン、そこがお前の優しいところだよ。そこの灰皿の中にもう吸殻が一〇本はあるよ」

「何か興奮しちゃってさ、早い内に着いたのさ。それよりロン、早く注文しようぜ、俺は腹ペコなんだ」

「何だ注文まで、俺を待っててくれたのか。相変わらず人に気を使う奴だな」

ロンはボーイを呼ぶとテキパキと注文し、タイでは一般的なビール、シンハを頼んだ。

「流石にレストランのオーナーの息子だ。注文が早いね」

「知っているかもしれないが、このレストランは親父の店なんだ。今日の勘定は親父からの卒業祝いと云うことさ」

「最後の臑(すね)かじりか」

「そうさ、明日から俺は親父の世話には一切ならずに一人で生きていくつもりだ」

「やっぱり就職はしないで商売をするのか」

「まぁな。取り敢えず屋台でも曳こうかと思っている」

「タマサーク大学経営学部卒で屋台引きか、思い切った決断だね」

「知っての通り、俺は勉強はあまり好きじゃなかったし、出来もしなかった。この大学だって親父のコネで入ったも同然だし、特にプライドに傷が付くと云うわけじゃない」

中華街の幼な馴染みである二人は小学校より仲が良く、名前の通り大人しい クンは勉強はよく出来たが、よく近所の悪ガキに泣かされていた。そんな時決まって助けに来たのが大柄で喧嘩の強かったロンであった。

然し、勉強の面ではクンがロンを助け、静と動、智と力二人のコンビは他の友人からも二人は将来結婚するのではないかとからかわれる程の間柄であった。

ロンの父は、一九四〇年に中国共産党の力が大陸全土に及ぶに従って陸路ラオス、カンボジアを経てバンコクへ流れ着き、中華街へと身を潜めた。

苦力として、ありとあらゆる労働をしてやがて麺売りの屋台を借り独立した。

朝早くから夜中遅くまで身を粉にして働く彼に金銭が貯まらない方が不思議であった。一九五六年、ロンが生まれる頃には中華街の裏町で小さな飲食店を開業するに迄至っていた。文字通りの家業で、ロンも店内で寝食を専 らにし、小学校へ通う頃には店へも出て一端(いっぱし)の料理見習い人程度の技は持っていた。

長男や次男は高等華人学校迄しか行かせて貰えなかったが、相次ぐ彼等の暖簾分けによって莫家の経済状態は日増しに良くなっていき、三男であるロンは、兄の援助も受け大学に迄行かせて貰った次第である。

右の事は移民一世の華人家庭によく見受けられる状況である。又、異国で成功を収めた華僑は、創業者の父を長男が継ぎ、経済的に豊かに成るに連れて次男、三男を医者や弁護士にするケースが多い。

彼等は異国人である。如何に子弟が有能でも官僚や政治家、又大企業の幹部への道は閉ざされていて、社会的にも尊敬され経済的にも恵まれる職業として前述の医者や弁護士を選んだのは至極当然であった。

然し、ロンの父には誤算があった。

ロンは既述の職業に就くには余りにも器が大きすぎた。更に、野心も常人では計りしれない物があった。

「親父も屋台引きからここ迄成り上がったのだから、俺もやってみようと思う。親父と違って基礎はあるのだから、そんなに苦労は無いとおもっているよ」

「ロンの発展家振りには頭が下がるよ」

「クンは成績も良かったから就職も楽だろう」

「成績は別にして、折角貿易の勉強をしたのだから貿易会社へ入ることにしたよ。お前みたいに出世は望まないが、大学で勉強した事をタイ国の為に役立たせたいんだ。それが我々華僑を温かく迎えてくれたタイ国民やプミポン国王に対する恩返しだと思ってね。それに俺の父は高校の教師だ、金も無い。独立するなんて夢の又夢さ」

タイの華僑の出身地は潮州(タッチュー) が主である。

潮州は台湾の対岸にある福州(フーチュー) や廈門(アモイ)のやや南方に有り、レース編みで有名な 仙頭(スワト)の真北に位置する。

台湾の対岸の福建 省(ホッケンとも云う)は古来より海の民で海外移住者が多い。因みにシンガポールやマレーシアの華僑はこの福建省の出身者で占められている。

福建省の南部が、香港の位置する広東 州であり、各々に個別の言葉が存在するが福建、潮州 、広東語はお互いに全く通じない言葉ではない。

薫華(クン)も龍華(ロン)も漢字は殆ど読み書き共に出来ないが、華僑の子弟として潮州語はどうにか話せる。

つまり広東人や福建人と会話がなんとか出来ると云うことになる。

余談であるが、東南アジアに棲む華僑同士は英語又は北京語で会話をすることが多いが、談論進むに連れて、自分の得意とする福建語や広東語が混ざってくるが結構それでも会話は繋がっている場合が多い。

漢字は表意文字であって、アルファベットの様に表音文字ではない。

従って彼等は正確に発音することには頓着していない。

韓国人名を日本語的読み方で発音し、物議を醸し出す様な問題は日中間で起きないのも右の理由に依る。

筆者も広州の銀行で両替をした時、漢字で姓名を記す欄しか無いので緊張して自分の名前を呼ばれるのを待った。果たして、窓口の銀行員が呼んだのは「レンポーカンイー」であった。梶浦康一である。事前にある程度推測はついていたので狼狽する事は無く無事に両替を終えた。

執拗にもう一例を挙げる。

中国の最高指導者を我々はトウショウヘイと呼ぶ。

華人と英語で話している時、彼の名前を出さざるを得ない状況になって困って「トウショウヘイ」と発音した。相手はそれには全く違和感示さず、「ティエンシャオピン」と続けた。つまり、私が「トウショウヘイ」と発音した時、彼の頭の中にはトウショウヘイの漢字が浮かび、彼の発音で「テェンシャオピン」と云う肉声に変わったのである。

既述したように、彼等は漢字で話しているのであって、アルファベットのように正確な発音を気にはしていない。

蛇足であるがトウ 小平は「デンシャオピン」とも「トンシアオピン」とも発音される。韓国の抗議に依って、最近はマスコミも韓国語の発音で人名や地名を発表するため、我々も日本語以外でこの人名や地名を喋る事が出来るようになり非常に助かっているが、依然として中国名については不便を感じている。

蛇足を続けると、韓国人は「大阪」をデハン、中国人は東京をトンチンと発音し、彼等も我々と同様の漢字の民のハンディキャップを抱えていると思うとマスコミや教育界による早期解決を願わざるを得ない。

然し、最新の研究に依ると、仮名やアルファベットのような表音文字を脳が認識する場合、画像パターン、音声化、意味認識の三段階を経るのに対し、漢字の様な表意文字のそれは音声化段階無しの二段階で処理を行うとの事である。

よって、トウショウヘイを脳が音声化する事無しに会話は繋がって行くと云う事である。

「クンの親父はバンコク生まれだったな」

「ああ、ウチは曾祖父が潮州生まれで、ベトナム、カンボジアが永くて、晩年祖父を引き連れてタイへ移住して来たらしい」

「宋家としては、十分にタイ国民に成りきっていると言う訳だ」

「俺の体には華人の血が流れてはいるが、自分は忠実な国王の臣下、タイ国民だと思っている」

「俺だって華人のプライドはあるし、人一倍タイ国民としての自覚もあるし、タイ国を愛している」

「ロンの愛国主義は学校でも有名だった。お互いに華人の誇りを持ってタイ国の為に頑張ろうぜ」

シンハビールがクンに急激な酔いを与え続けている。

「ロン遅くなって済まない。女の子の調達に時間が掛かってね」

虚ろな視線でクンが振り向くと同級生の嘉誠(カーシン)が三人の若い女の子を従えて立っていた。

「シン遅かったな。クンも出来上がっちゃてるんだ。早く座って、其方のお嬢さん方を紹介しろよ」

「先ず俺にも一杯飲ませて呉れよ」

嘉誠はビールを一気に飲み干すと、勿体をつけて話し出した。

「よく聞けよ。此方は名門チェラルコン大学に在籍中の深窓のご令嬢の面々だ」

三人は明らかに照れくさそうな素振りを見せたが、純粋なタイ人に見えた。

「固まって座っていないで、我々の間に入って下さいよ」

ロンは酔いも手伝ってか大胆だった。そして、クンの隣に座った女の子はランと名乗った。

三人の中で彼女だけが他の二人より色白で、深窓の令嬢にしては闊達である。

夜風に乗って運ばれてくるタイ料理は独特の香辛料と、ナムプラーと呼ばれる魚から作られる醤油の香りを放ち、若い六人の食欲を次々と満たしてくれる。

帰宅する人々も減り、水上バスが見えなくなった川面には食料品や果物や土産物を積んだ船が行き交い、観光客を見つけると巧みに小舟を操りレストラン間際迄近寄って来る・

クンは好物の鯣(するめ)を見つけると五枚ほど買いテーブルの上に載せた。

「クン、大丈夫か、酔っているんじゃないのか」

「大丈夫(マイペンライ)、心配ないよ(マイペンライ)」

「マイペンライはクンの口癖だな。これからは毎日聞くと言うことも無くなるな」

「何をしんみりしているんだ。景気付けにディスコでも行こう。最近オープンしたばかりのブルーハワイにアメリカの最新ヒット曲が沢山入っているらしいから」

「らしいわ。アメリカ軍からの横流しだって噂よ」

ランはその色白の顔に赤味を帯びているが、他の二人はコーラを飲んでいるだけでシンハーのグラスには口を付けていない。

経済発展が目覚ましい現代とは違い、七〇年代の後半のタイで衆人の中でアルコールを飲んだり、煙草を吸う女の子は皆目いないと言い切っても間違いは無い。

「よし、行こう」

若者らしく六人は勢いよく立ち上がった。

「一本頂戴ね」

ランはクンの胸のポケットからマールボロを取ると火を点けさせた。

六人は二台のサムロー呼ばれる三輪のタクシーに分乗した。三輪(サムロー)の座席は狭く通常は二人乗りである。クンにぴったりと体を寄せて来るランの熱い血潮の流れが、彼女の太股を通じて押し寄せて来るのがわかる

 南国の夜風ともランの体温とも区別の付き難い生温かい空気がクンの周りを包んでいる。

サムローは水上レストランから東へ向かい、シャム広場に隣接するショッピングセンターの角から南下すると、眼前にはバンコク最大の歓楽街パッポン通りが拡がっている。

「そこよ、そこを左へ入って」

ランは叫んだ。

「ランってパッポンに詳しいの。女の子はあまりここには来たがらないのに」

クンは訝しげに訊いた。

「まぁ、ちょっとね。あっ着いたわ」

ランは自ら先導して入っていく。

「シン、ランってここのディスコへはよく着てるのかい。ヤケに慣れている感じがするんだけれど」

「金持ちのお嬢さんなら来てるんじゃないの。いいから踊ってこいよ」

シンも多分に酔いが回っている。クンも強かに酔った。

 

夜半、喉が渇いて眼を醒ますと、ランが隣のベッドで軽い寝息を発てていた。

「クン、起きちゃったの」

「どうして君がここに居るんだ。ロンやシンはどうした」

「覚えていないの。皆酔っぱらってバラバラに帰ったみたいよ、ディスコを出て屋台でバーミーを食べたでしょ」

「覚えてないな」

クンは頭を強く左右に振った。

「あなた一人でフラフラしてるから、私が手を引いてこのホテルへ連れて来たのよ」

「そうか、それは済まなかった。

・・・・・・ひょっとして、俺、君に失礼な事をしなかったか」

「いいえ、失礼な事はしていないは、でも、楽しい事はこれからよ」

ランは束ねていた髪を一気にほぐすと、クンのシーツの中へ滑り込んできた。

22歳のクンには彼女を拒否する程の自制心が芽生えているはずもなくランの体を弄(まさぐ)り乍ら「マイペンライ、マイペンライ」と呟 いていた。

翌朝宿酔い気味の頭を指で押さえ階下のレストランで朝食を摂っていると、ランが意外な事を言い出した。

「私の本名は蘇暁蘭(スーシャオラン) 。中国人の父親が居るの、でも母親はタイ人よ」

「道理で、色が白いと思ったよ」

「妾腹の子よ。驚いた」

「そんな事はないけど」

「でも、チェラルコン大学在籍中と言うのは本当よ。私は父に買って貰ったマンションで一人で暮らして居るの。父は私の所へも月に一度はやって来るわ。

勿論、授業料も父が払っているし、生活費位は貰っているわ」

「・・・・・何と言うか、・・・・・」

「わかるわ。でもクンも知っての通り、金持ちのタイの男って妾の二人や三人は持っているでしょ。タイの女ってそれを知ってて我慢し夫の為に働いているのよ」

「俺はしないよ」

「クンは真面目そうだけど男ってわからないよ。妾になる女の子の方もその方が楽なのよ、絶対に生活は安定するし、故郷にも仕送りが出来るしね。

でも私は母の様な道は選ばない。だから大学まで行ったのよ」

「人生、考えてんだ」

午近くになったレストランには多くの外国人男性とタイ人女性のカップルが入って来ている。

クンは次第にはっきりしてきた頭の隅でここが連れ込みホテルだとわかってきた。

「ゴメンネ。こんなホテルへ連れて来ちゃって」

 

頭の回転の速いランは、クンが気が付いた事を察している様であった。

「蘇暁蘭(シャオラン)か。それでランなんだ」

 

ランは頷(うなづ)くと続けた。

「でもさ、私は中国人とは結婚できないよ」

「今は、中国人、タイ人の区別なんてないさ。現に君の様な混血も世の中いっぱいいるしさ」

「そうじゃないの。クンならわかってるじゃない。華人の家族って花嫁には処女しか認めないって」

「そういう家族も残っているらしいけどね」

「大半よ。クンだって親の勧める出自正しい家柄のお嬢さんを貰うんだから」

「俺は自分の女房は自分で決める。俺の家は金持ちでもないし、出自正しい家柄と言うわけでもないしね」

クンはマールボロを彼女にも一本差し出して火を点けてやった。

「まぁ、がんばってよ。それより折角の出会ったんだから、時々は会ってくれる。何だか、私クンが気に入っちゃたわ。

純だし、私の持ってない育ちの良さみたいな物にも惹かれるの」

「会うのはいいよ」

「でも結婚はしないって」

「そんな事は言ってない」

「駄目、顔に書いてあるわ、純だから」

ランは悪戯っぽく笑うと自分の食べた分だけテーブルに勘定を置き、返そうとするクンに「出世したら奢(おご)ってよ」と、言い、勢よいよく街へ出ていった。

バンコクは今日も気温が三五度には騰っているに違いない。クンは先程までのランとの会話は忘れたかの様に、強い陽射しを身に浴びて精一杯背伸びをした。

「旅立ちの夜にして幸先がいいのか、躓(つまづ) いたのか。マイペンライ、マイペンライと云うところかな」

 

そしてマールボロの最後の一本に火を点けると、その空になった箱を天に向かってポーンと放り上げた。

 

第二章 老大(ラオター)

 

クンは大盤谷貿易有限公司(グレート、バンコク、トレーディング)、通称GBTの繊維輸出課へ配属された。

「紹介しよう。宋薫華(ソンクンホア)だ。潮州語と広東語が少し出来るそうだから、香港を担当して貰う。」

直属上司のナロング課長が課員にクンを紹介した。

「クンと呼んで下さい。皆さんの仕事の邪魔をしないよう、一日も早く仕事を覚えようと思っています。いろいろ教えて下さい」

「クン、そんな消極的な事でどうする。我が社はチャロン、ポカパン、CPグループの貿易部門を担当する将来性大の会社なんだ。日本のソーゴーショウシャを目指して躍進に継ぐ躍進をしているところなんだ」

 

CPグループの総帥であるタニン、チャラワノンは華人であり、クンと同じく潮州 の出身であって、タイの財閥系商社として発展の一途を辿っている。

「わかりました。頑張ります」

「チャムロン君、クンを預かってくれ」

ナロングは先輩格にあたるチャムロンを紹介した。

「君は広東語が出来るんだって、それはいい。私はタイでは少数派の福建出身系だから福建語はできるのだけど、香港担当に廻されて困っていたんだ」

「出来ると云っても日常会話程度ですし、漢字は書けません」

「私の福建語だって同じ様なもんさ。香港人としようと思うと接待が重要なんだ、そんな時君の広東語が役に立つという訳さ。早速、今夜接待があるからついて従いて来てよ」

 

 夜の七時を廻った頃のバンコクのレストランはどこも満席に近い。

バンコクのレストランは24時間オープンに近く、日本のように昼食時、夕食時と云うピーク時間はなく、いつ何時でも客で混雑している。

香港人は二人で来た。

「チャムロンさん、お招き頂いてありがとうございます。今日はお若い方もご一緒ですか」

「クンと言います。最近入社したばかりですが、香港担当に配属されましたので連れて参りました。潮州 系の華人です」

「未熟者ですが、精一杯やりますから、宜敷お願い致します」

「まぁ、固い挨拶は華人同士だ省きましょうや。こちらも若い人を連れてきましたので、紹介しましょう」

郭(クァ)と名乗った初老のバイヤーはその左隣に座っている若者の方を向いた。

「彼は江本渡海(わたる)。日本人なんですよ」

香港人の彼は広東語ではなく、普通語(プートンワ)でリューベンと言った。江本と紹介されたその日本人は英語で自己紹介をした。

「私は日本のアパレルメーカーを二年程前に退職致しまして、現在フィリピンで洋服を作らせて日本のメーカーや問屋へ納めているんですよ。フィリピンだといろいろ付属品が不足していまして、日本の高品質の要求へ応える事が出来ない状況が多々ありまして、そんな時郭さんから輸入してフィリピンで使用していると云う状態なんです」

「日本人にしてはかなり巧い英語でしょ」

日本人はカタカナで話している事は既に述べた。

古代日本語が朝鮮古語から独立し一人歩きを始めた頃、日本文字と言える物はなく租税の記録や役所の取り決めを残しておくには無理があった。

これも朝鮮に倣って漢字を大和言葉に宛てた。やがて、それが簡略化され片仮名から平仮名へと変化していったのは衆知の事である。

従ってカタカナは表音文字であるが、アルファベットの様な柔軟性は全くなく、その時代の日本語には十分であったがかもしれないが新しい特異な発音の言葉には対応できないという欠点がある。

例えば、『V』『F』や『TH』等の発音には『ブ』『フ』『ス』と表記するが、これを元のアルファベットに戻すと『BU』『FU』『SU』となり、全く別音となる。

又、日本人には『L』『R』の発音が区別出来ないと言われるのも右の事に原因があるとすれば納得がいく。

典型的な例にフリーマーケットがある。フリーは『自由』であり、そのまま訳せば自由な市場と、なるが、欧米の広場で盛んに見られるフリーマーケットは蚤の市であって、FREEではなくFLEA(=蚤)である。

同じく、LOVER(恋人)ROBBER(泥棒)RUBBER(マッサージ師、消しゴム)の発音の差異も日本人にとって苦痛な例である。

言うまでも無く、右の文字はカタカナで『フリー』『ラバー』と、何ら区別なく表記される。

カタカナが日本語の表音文字として採用された時、日本人の語学下手は宿命的なものとなり今日まで続いている。

「私はフィリピンで英語をマスターしましたので、多分訛(なまり)がありますが」

「フィリピンなら英語は公用語だ。殆どの人が公式的には英語で話しているからね。だが、香港の英国式英語 と比べると乱暴と言うか、やや品位で劣るがね」

郭は香港の英語に誇りを持っている様であった。

「我々タイ人の英語も語尾が曖昧で、初対面の人には聞き取りにくいとよく言われます」

「世界中には国の数だけ英語の種類があると思っていいのじゃないかな。シンガポールの人はシングリッシュを話すと堂々と自分達で言っているのだし」

「流石に郭先生 は国際人ですね」

チャムロンは「ミスタークァ」から「郭先生(クァ、シェンソン)」へと敬称を代えた。

この敬称は中国では一般的に使われ、特に偉大なる人物に付けるものではないが、日本の「様」よりやや呼ぶ側の軽い尊敬の念が込められている。

私の中国に於ける経験であるが、日中国交回復前に広州に滞在した時宿舎に数人の人民解放軍の兵士が入ってきた事があり、通訳によると、彼等は外国人の宿舎に現れては海外情報の収集をしているのだと言う。

私の所へ来た兵士は日本の自動車の免許制度に付いて質問を浴びせかけた。私はくどくどと運転テクニックの事を説明するのではなく、そんな技術的なものは練習すれば誰でも一定水準へは到達する。寧ろ運転者の心構えの方が大切であり、其れによって妨げる事故は計り知れないと述べた。

今から思うと若気の至りで当たり前の事を大上段に構えて言ったものだが、その若い兵士はいたく感心し以後私の事を「先生(シェンソン) 」と呼ぶようになった。

この事からもわかるように、自分より年上で多少は物事を知っている人に「先生」という敬称を付ける。

郭は少し恥ずかしそうに続けた。

「私は既に老朽(ラオシュ)だ。これからは君たちの様な若い華人がリーダーとなって、アジアの国々を日本や欧米先進国に負けない位のレベルに持ち上げて欲しい」

老朽と云うところだけは英語に訳せない様子であった。

『老いぼれ』と云うくらいの意味である・

「今までの華人は同国内や外国に住む華人同士でネットワークを作り事業を成功させてきた。それは先祖が同郷であったり、言葉が通じるという理由からだった。

しかしこれからの君達は狭い華人社会だけではなく、欧米や日本の資本や技術と組んでいかなければならない。

華人だけのムラ社会では発展の度合いは限られているからね」

「郭先生、同時に我々華人は華人社会の発展だけでなく、我々に生活の基盤を与えてくれた国家、いやその国民の生活向上にも力を貸さなくてはならないと思っています」

クンが珍しく持論を述べた。

「そうなんだ。君達のタイ国の中で華人は何割いると思う、1割弱だ。然し華人系四大銀行が商業銀行総資産の6割以上をにぎっている。インドネシアなどでは3%の華人が大企業上位百社中60社を占めている」

「フィリピンでもタバコ会社、航空会社、食品、紡績、不動産と、あらゆる産業がタン氏を始めとする華人達に依って運営されていますよ」

江本もフィリピンに於ける華人パワーの凄まじさには眼を見張る物があると言う。

70年代後半の華人パワーは未だ地域ナンバーワンの域を出ていなかったが、やがて後述する90年代には日本のバブル崩壊も手伝って、世界的なパワー連合として大飛躍する事になる。

しかし同時に各国民族の中にも華人資本に対する不満が燻り始め、インドネシア等では中国共産党に対する不安感も重なってしばしば華人社会を襲う暴動が起きていた。

「クン氏の言う通り、我々華人も最早華人社会の繁栄だけを考えている時代ではないと云う事だね。更に言えば、世界の人民の繁栄と幸福の為にその蓄積しつつある富を使うと云う事さ」

クンは黙しては居たが、何か自分の求めている物に突き当たった気がした。

「話が堅くなってしまったね。旨そうな料理が並んでいるじゃないか」

「郭先生、江本さんもどんどんやって下さいよ。タイ国は見た目貧しい国ですが、食料に関しては決して先進諸国に負けません」

チャムロンも上機嫌であった。

「これは旨いですね。何ですか」

「ミスター江本、それはオースンといって牡蠣と葱を炒めて卵と片栗粉で綴じたタイ風のオムレツですよ」

クンが我に返ったらしく説明した。

「そうなんですよ。不思議なことに日本の方は皆この料理を好むんですよ。江本さんもやはりそうですか」

「チャムロンさん、クンさん、私の事はワタルと呼んで下さいよ。これからも親しくさせて頂けそうだし」

「オーケー、ところでワタルは何歳ですか。私は22歳なんですが」

「私は1952年生まれの22歳ですよ」

「じゃあ私と同じ年だ」

チャムロンは同年代の友人を見つけて嬉しそうだった。

「若い時はいい。ワタルもフィリピンで成功したらバンコクにも手を伸ばすがいい。この国の将来は東南アジアの中でも抜群だ。何しろ欧米列強の時代に植民地にならなかったのはアジアでは日本とタイだけなんだから。まぁ台湾と韓国は欧米にではなく日本に植民地化されたんだけど」

郭はちらりと江本の方を向いたが、江本は気に留めていない容子であった。

「それも我が国王の聡明さのお陰です」

クンは間髪入れずに返答した。

「じゃあ、エリザベス女王とプミポン国王に乾杯だ」

郭はもう一度江本の方へ振り向いたが、江本に「天皇陛下万歳」と言う発想は無かった。

「私は老人だから、そろそろ帰らして貰うよ。大丈夫、帰り道はわかっている」

「晩安(おやすみ)」と郭は言うと、しっかりとした足取りで去っていった。

「老朽(ラオシュ)なんてとんでもない。郭先生は老大(ラオター)と呼ぶに相応しい華人の誇りの様な人ですね」

クンはやや感動気味に呟いた。

 

数週間後クンはロンの安アパートを訪ねた。

「どうだい、屋台引きの商売は巧く行っているかい」

「順調さ。仲間の多くは小金が貯まると女房に屋台を任せて自分は博打三昧だから、競争相手なんて無いに等しいよ。それよりお前の方はどうなんだ。CPグループの社員ともなると大変だろう」

「先輩や仲間にも恵まれているし、香港貿易を担当しているんだがお客様も尊敬できる人が多いし、今は勉強に明け暮れている時かな」

「香港か、広東人には気を付けろよ」

「大丈夫。先日も立派な老大人とも言える人に会って感銘を受けたばかりさ」

「クンは人を疑る事をしない奴だから心配なんだ」

「それよりロン、真逆このまま屋台を引いて一生を終えるわけじゃないだろう」

ロンの住むアパートは人が歩く度に家鳴りがしている。クンも彼の部屋を見回してはこの様な質問をせざるを得ない心境になっていた。

「ここは仮の住居さ。今に大儲けをして親父以上の豪邸に住むつもりさ」

「先程話した香港の老大人も言ってたけれど、これからはアジアの時代だ。其れには我々の様な教育を受けた若者が国家の為、国民の為に働かなければならないんだ。自分の金儲けの事ばかり考えていてはいけないんじゃないのかな」

「クンはいやにその香港人に執心したんだな。俺だってわかっているよ。俺の商売が大きくなれば、それだけタイ人の職場が増えると言うことさ。小金を貯めて博打を打っていてもタイ経済は発展しない。各々の産業を大きくして、日本や欧米に追いつかないと、バンコク以外の地方には喰えない農民がゴロゴロいるんだから。

俺はそんな連中が娘を売らなくても喰っていけるタイにしたいんだ」

「ロンがそんな大きな事を考えているなんて知らなかったよ」

クンは気恥ずかしそうにマールボロを吸い込んだ。

「この商売を始めて一ヶ月近く経つが、一台の屋台では効率が悪いって事がよくわかった。俺は予め金があったから自分の屋台だが、他の連中は親分から借りているんだ。

売上の半分弱が屋台の借り賃さ。その上屋台を借りる時に麺やら肉、野菜全ての材料もそこで買わされるんだ。一日が終わって幾ら手元に残ると思う」

「ひどい話だ」

「親分と言われる奴等のほとんどが華人さ、俺の親父も一時はやっていたみたいだけど」

「それじゃあ必死に働いてもその親分だけが儲かる仕組みなんだな。博打に走る感情もわかるよ」

「そうなんだ。商売を大きくする資本を増やす仕組みを作らなくてはやっていけない」

「それが経営学部卒の仕事だと云う事か」

「まぁね。俺が今考えているのは、信販系の会社と組んで屋台引きを独立させてやろうという事なんだ。独立したい奴等に自分が買う屋台を担保にして融資する。それ以外に担保は無いだろうから利息は銀行に比べると高いのは止むをえない。が、しかし売上の半分を納める事に比べるとバカ安さ。そして俺は食材の共同仕入センターを作る。支払いは現金だが、親分の所で仕入れるよりは格段に安い。大量仕入だからね」

「屋台の総合コンサルタントか、凄いね、お前って奴は」

「クン、俺と組まないか、お前の頭脳が要るんだ俺には」

「俺は無理さ。商売に向いていない事は自分が一番知っている」

「やっぱりそうか」

ロンは一瞬落胆の色を見せはしたが、商売のドロドロした世界へクンを引っ張り込んだりしてはいけないと自分に言い聞かせた。

「俺自身も屋台を増やして、独立する勇気は無いが一儲けしたい連中に歩合制でやらそうと思っている」

「歩合制」

「そうさ、売ったら売った分だけ給料がふえる方法だ。ヤル気もでるだろう」

「売上の管理が難しいよ」

「わかっているよ。売上を誤魔化すと言いたいのだろう。そこは考えた。バーミーナム(ラーメン)1杯に1個だけ入れる具を決めるんだ。

そしてそれをこのバーミーの売り物にするんだ。その具が入っていないと客は文句を言う、販売員は必ず1個それを入れなければならない。

具の無くなった数がバーミーの売れた数と云うことさ」

「考えたね。それは、しかし麺の数を数えればいいことじゃないか」

「甘いよ、クンは。10人前のバーミーを作るとき9個の麺玉で作られたらどうするんだ。客の評判は落ちるし、1人前の代金は販売員のポケットへ入ってしまう勘定じゃないか」

 クンは小学校時代から大学時代を通じて、この様なロンの輝いている姿と理路整然とした話し振りを見た事がなかった。

「その1個しか入れなくて、プロモーシヨンにもなる具と云うのは」

「せれは悪いけれどクンにも秘密さ。秘密と言うより、未だ確定する程自信が無いと言った方が正確かな」

「期待しているよ」

「それより、あの夜クンとどっかへ行っちゃたランとか行ったけ、彼女とはどうなっているんだ」

「知ってたのか」

「皆知ってるさ。ランは皆バラバラに消えて、俺達だけが残ったと言ってたけれど」

「ディスコで踊っている内にお前達が消えたと言う方が真実に近いな」

「そうだったのか、何しろ俺は相当酔っていたからな。じゃあランが・・・」

クンは何故ランが嘘を付いたのかわからなかった。

「まぁ、それはいい。で、どうなんだ」

クンはあれ以来ランとは屡々会っていた。彼女のペースと言っていい程、ランは積極的だった。

気儘な独身暮らしのクンに彼女の接近を拒む理由はひとつもない。誘われるがままに会い、持て余す22歳のエネルギーを消費する対象とした。

「会ってるんだな。シンに聞いたんだが、あの時3人の女の子が居ただろう。他の二人はランとは初対面だったらしい。偶々校内で話をしている時、シンが数合わせに誘ったらしい」

「シンも3人捜すのに苦労したんだ」

「ところが、シンが最近ランを見たと言うんだが。何処だと思う、外国人相手のカラオケバーなんだ」

「カラオケバー・・・・・・・・」

「そうさ。気に入った客とはホテル迄従いて行く、あれさ。街の何処にでもあるマッサージハウスの様に客に指名されれば誰の相手でもするのとはわけが違うけれど」

「まさか」

「シンが外国のお客さんを連れていったら彼女が居たと云うことさ。尤 も、彼女は別の席に坐って居たからシンには気付いていなかったらしいが。

クン、それを知っていて彼女とつき合ってるんじゃないだろうな」

「俺は知らなかった。他の2人に比べて彼女は遊ぶ所をよく知っていたし、ビールもタバコも飲るのには驚いたけどね」

「結婚するつもりは無いだろうけど、彼女には深入りしない方がいいと思うね」

「ああ」

クンは曖昧な返事をするより術はなかった。

「どうだい、俺はこれから酔客相手に屋台を引きに出掛けるが従いて来ないか」

「お前の仕事ぶりも見たいけど、今日はやめておこう。明日香港人を送って空港まで行くのが早いんだ」

「老大か、クンの尊敬する人と言う訳か」

「大事なお客様でもある」

本当の理由は今夜もランに会う約束をしていたからである。

「そうか、じゃ又会おう。今度は屋台のチェーン王になっている俺を見てくれよ」

「頑張れよ。俺も早く一人前になるから」

自分は仕事も半人前なのにランとの情交に毎夜の如く耽っている、反面その間ロンは日毎大きく成長してゆくような気がする。今度ロンと会うとき自分は真面に彼を見つめる事が出来るのだろうか。

このまま貿易会社の一社員として日々を徒に過ごしていて、あの老大の様な国際ビジネスマンに成れるのだろうか。

クンは滅入ってゆく感情を殺し、精一杯の元気を装って別れを告げた。

 

第三章    巫山(ふざん)の夢

 

クンがG・B・Tに入社して一年近くが過ぎた。

既に老大を始めとして幾人かの香港人バイヤーを任されている。

或る朝いつもの様に席に着くと1枚のFAXが机の上に置かれていた。

この香港の会社は香港裕華時装有限公司(ホンコン・ユーファ・ファッションハウス)と云い・中国やタイで作ったファション関連グッズをアメリカへ輸出している会社であった。G・B・Tとのつき合いは永くはない。

問題もなく、取引額も大きくないという事でチャムロンの担当とされてはいたが、実務はクンが仕切っていた。

「チャムロンさん、裕華(ユーファ)からですが先日注文を出した分のL/Cが遅れそうだけど、生産は遅らせないでくれと言ってますがどうしましょう」

「何故L/ Cが遅れるんだ」

「理由は書いてないのですが、銀行との交渉が長引いているのと違いますか」

「総額は幾らだった」

「90セントのTシャツ10万枚ですから9万ドルです」

「ちょっと大きいな。ナロング課長に相談してみてくれ」

「私がですか」

「そう、君の担当だろう。私は別件で忙しいのでね」

「わかりました」

ナロングはシンガポールへ出張中だったのでクンは仕方なくその日に結論を出すことは諦めた。

数日後血相を変えたチャムロンにクンはよばれた。

「例の裕華の件はどうなってるんだ。先方から私を名指しでFAXが入っている。返事を早くしないのならこの注文はキャンセルすると行って来てるんだ」

「しかし、あの時は・・・・・」

「しかしじゃ無いよ。生地の手当は済んでるんだろう。今更キャンセルされたらどうするんだ。早く課長に相談して来いよ」

ナロングは2,3の質問をしたが結論は出さない。

「裕華なら大丈夫だと思うけど、一応念の為調べてみよう。裕華にも何時ならL/Cがオープン出来るのか訊いてみてくれ」

L/ Cとは銀行の支払いを保証するシステムである。L/Cも届いていないのに生産に入ってしまっては、確実な支払いの保証も無いまま商品が宙に浮く可能性がある。

通常国際貿易では、船積みはL/C到着後OO日後とする契約が多い。

「チャムロンさんどうしましょう。工場からは裁断 を始めていいかと連日問い合わせが来ていますが」

「船積みが遅れても困るし、カッティングはいいだろう。工場へはオーケーを出してくれ」

クンは香港へ幾度となくFAXを流し、L/Cのオープン時を尋ねたが「もう少し待ってくれ」の、一点張りであった。

「チャムロンさんどうしましょう。裁断も終わってしまいそうですし」

クンはチャムロンの許可を得ているとはいえどこか気掛かりである。

「課長は何て言ってるの」

「調査中だからもう少し待てと言うだけなんですよ。シンガポールのお客さんとトラぶっていて、裕華どころじゃないみたいですね。あっちの方が取引額が多いから」

「課長が担当してるんだからビッグビジネスだろう。裕華の件も課長の承諾もなく生産を始める訳にはいかんだろう」

「ですがカッティングが・・・・」

「わかっているよ、布なら原価で売れるが製品となるとバッタ値段にしかならない」

「そうなんですが、そろそろ縫製に入らないと船積みには間に合いませんよ」

「わかっているよ」

チャムロンも苛立っているようで、つい大きな声を出した。

「済まない。もう少し待ってみよう」

更に2週間が過ぎたがナロングは相変わらず沈黙を守っている。

そんな時だった。銀行からの電話で裕華からのL/Cが届いたという連絡が入った。

「クン、オーケー大至急縫製に入ってくれ」

クンは工場へ縫製開始の指示を出すと、銀行へL/Cの書類を取りに行った。

L/Cの条件を見たクンは少し不安になった。船積みの日が約束の日より一週間早くなり3月30日となっている。帰社すると香港へFAXを流したが、その返事は冷たい反応でしかなかった。

「今回は日本向けのTシャツなので、日本のゴールデンウィーク迄に納品しなくてはならない。何とか間に合わせてくれ」

余談であるがゴールデンウィークは和製英語であって世界には通用すべくもないが、不思議な事に東南アジアでは通じる事がある。日本人が長期の休暇を取ることが珍しく人々の口の端に乗り流通しているのかも知れない。

「日本向けか、世界で最も納期にうるさい国だ」

チャムロンのその言葉にクンの不安は一層深まり、多少の延長を頼むつもりで裕華へ電話を入れた。

「私達も出来るだけ3月30日に船積みをするよう努力するが、何とかL/C上の船積み日を4月10日にしては貰えませんか」

裁断は終わっているとは言え、今日は既に3月10日である。

「後は縫製だけなんだろう。2週間もあれば十分だと思うけど」

「縫製はいいのですが、検品、袋詰め、それに問題は輸出検査です。ご存じの通り我が国の役人がすんなりと許可を出す事は皆無に近いんですよ」

タイが如何に近代化されてきたとは言え、未だ役人が幾許かの金銭を要求せずに民間の業務を許可する事は少ない時代である。

こんな話がある。

バンコクの街中で火事が起きている時、消防車は既に到着しているのだが消火活動に入っていない。不思議に思った或る外国人がタイ人に尋ねた。

「消防隊は何故火を消そうとしないんだ。水が無いのかね」

「ご覧なさい。火事の前で消防隊の隊長とその家の持ち主が話し合っているでしょう。あれは消火の報酬額について交渉してるんですよ」

これは伝説的な笑い話であるが、一事が万事右の様な役人の対応振りであるという好例である。

「輸出のライセンスを取るのも君の仕事だろう。我々は四月の朔日(ついたち)に荷物を受け取ってからプリント作業に入るんだ。相手は日本人だ。一日の遅れも許さない完璧主義の連中なんだよ。その上日本の流通機構は複雑だから、早目に納品しないとゴールデンウィークには間に合わないと言う事さ」

「わかりました。やってみます」

クンは受話器を置いたが自信は無かった。

仕事に追われ、疲れを癒す為にランを抱いた。

抱いていても納期の問題は間断なく彼の脳裏を襲ってはそれを占領した。

「クン、何か心配事があるんじゃない」

ランはいつもの様に長い髪を掻き上げ乍ら尋ねたがクンの返事は何時も同じであった。

「何もない。心配ない。マイペンライ」

が、しかし本心クンは仕事も忘れ、このままランの中に入ったままで世に出る事も無く、忘我の内を彷徨(さまよ)っていたい心境であった。

無情にも3月30日は足早にやってきた。

久し振りの雨の朝である。雨は沛然として降っている。

CPグループの保有するビルの窓外を漫然と見ているクンの肩を叩く者が居た。ナロング課長であった。

「クン、どうした心配そうだな」

「実は裕華の船積みが今日なんですよ」

「そうか、それで上手くいったのか」

「梱包までは全て終わっていますが、税関の輸出許可が降りません」

「降りないって、それでどうするんだ」

「たぶん今日許可されるだろうと言われているので」

「だろうって、許可されなかったらどうするんだ。船積み期限に間に合わなければL/Cに依る支払いは受けられないぞ」

「わかっています」

「どうしてもっと早く生産にかからなかったんだ。今まで何をしてたんだ」

「課長に事情は説明してある筈ですが、お忙しそうで相談に乗って頂けなかったので・・・・・」

ナロングは一瞬気まずい表情を見せたが狼狽(うろた)えることなく言い放った。

「俺のせいにするな。俺だって忙しい。こんなちっぽけな商談程度は君とチャムロンで出来る筈だ」

「しかし」

「しかしじゃない。まぁいい。税関には手を打ってあるのだろうな」

「手と言いますと」

「そんなこともわからないのか。こんな時の為に、普段奴等に飲み食いさせてあるんじゃないのか。ちょっと金を握らせばいいんだ、してあるんだろうな」

「いえ、そんな事は」

「何を考えているんだ。早く税関へ行って許可を貰って来い」

クンはチャムロンと雨の中をサムローを飛ばして税関へと急いだ。

「クン、今日の許可は無理だと思う。知り合いの輸出代理業者に頼んで、飛行機のスペースを確保するだけでなく、B/Lの発行を急いで貰おう」

「船積みも確定していないのにB/Lですか、それは無理ですよ」

「B/Lの日付が3月30日ならL/Cの条件は満たしている。銀行も金を払ってくれる」

B/L、正しくは航空機に依る輸出であるからAIR・WAY・BILLと言う。

船便のB/Lは有価証券であるが、AWBは単に荷物の送り状程度に考えてもよい代物である。しかしL/Cに依る支払いを受けるには、このB/Lの発行日がL/Cの条件である船積み日以前でなければならず、 後進地域の輸出業者の中には実際の船積み以前にB/Lを発行させ、L/C条件を満たす輩が多い。

「クン、お前はエージェントへ行け。俺は税関に行く。俺だってこんな時の為に飲み食いをさせている連中を持っているからね」

クンは大きく頷いた。

三輪の両サイドにドアはなく、二人の身体を目掛けて容赦なく雨が打ち続けていた。

 

G・B・Tへ戻ったクンは香港裕華時装有限公司へFAXを流した。

『船積み3月30日,B/LナンバーOOOOOO、便名キャセイOOO便,ALL DOCUMENTS AS FOLLOWS』

キャセイ航空は4月3日にバンコクを飛び立った。

その飛行機が香港へ到着した頃、クンとチャムロンはドンムアン国際空港近くの屋台に居た。

二人の間にはメコンと呼ばれるタイ特産の安いウィスキーの小瓶が置かれていた。タイのレストランはアルコール類の持ち込みは許されている。

氷 と水を注文した二人は一様に安堵の表情を見せていた。

「しかし3月30日に出航とFAXを流しておいて、着荷が4月3日では相手も怒るんじゃないですか」

チャムロンはメコンを一気に煽って言い放った。

「エージェントは3月30日のB/Lを発行した。我々は3月30日に荷物は飛行機に乗ると思わざるを得んだろう。だったら当然相手方には3月30日と連絡もする」

「しかし」

クンの手はメコンのグラスを持ったまま止まっている。

「しかしですよ」

「クン、飛行機が混んでいて、そいつが4月3日に飛び立っても俺達の関与すべき事じゃない。そうだろう、俺達には飛行機を飛ばす権限なんてないのだから」

「何か道義的な責任を感じますね」

「若いからな。そう思うのも仕方がないが、一々そんな事で考え込んでいては貿易屋にはなれないぜ。これも貿易のテクニックのひとつと割り切らないと」

クンは無言でグラスを口元へ運んだ。

「仕方ないさ。始めからボタンの掛け違いがあったんだ。

それにしてもナロング課長も冷たかったよな。もう少し親身な対応があっても良かったと思っているんだが」

「私には何とも言えませんが」

「課長、今回のシンガポールとのビジネスで会社へ大儲けをさせたらし

く、タニン会長から直々の表彰を受けるらしいぜ」

「凄いですね」

「凄いもんか。あの件だって突破口は課員のステープが作ったんだ。ビッグビジネスになると睨んだナロングがそいつを横取りしたのさ」

安酒のメコンの廻りは早い。その上チャムロンはストレートで飲っている。

知らず知らずにナロングと呼び捨てにしている自分に気が付いていないようであった。

「チャムロンさん、何か食べたほうがいいですよ。メコンばかり飲んでいると体をやられてしまう」

「クン」

チャムロンはクンの制止も聴かずに、相変わらずメコンだけを煽っている。

「俺はG・B・Tをやめようかと思っているんだ。今回の件だけじゃない。ナロングとは反りが合わないと言うか、従いて行けないというか、兎に角彼の下風には立ちたくない」

チャムロンが料理を注文しないので、所在なくクンはピーナッツだけを啄(ついば)んでいた。

華やかな空港と高速道路一本隔てただけのこの界隈の汚さには天と地の違いがある。空港での仕事を終えた連中達の溜まり場でもある安酒場が多くあり、又ひっきりなしに聞こえてくる飛行機の離着陸の音も耳を劈 くが、それ以上に付近の溝から発する悪臭と何処からともなくやって来る蚊の襲撃にクンは往生していた。

チャムロンはそんな劣悪な環境にも意を留めずに話し続けている。

「やめてさ、独立しようかと思うんだ」

「独立って何をやるんですか」

クンは腕に停まっている蚊を叩き乍ら訊いた。

「貿易さ。輸出だよ。何年かG・B・Tに居る間に海外バイヤーや工場側の人脈も出来た。その仲介をするのが貿易屋じゃないか」

会社に勤めた事に依って得た経験や人脈を使って独立する事は彼等にとって至極当然であり、寧ろ日本人の様に自分を育てて呉れた会社に弓引く事は出来ないと思う方が国際的に見ても不自然な考え方だと思われている。彼等にとって会社とは労働を売って対価を得ただけの相手であって、何ら恩義を感ずる対象ではない。

「上手くいきますかね」

「わからないが、今よりはいい。そこでクンにも手伝ってほしいのさ」

「私にですか」

クンにとって将に寝耳に水の話である。

「あの香港の老大も言っていただろう。俺達若者が世界を相手に勇躍しなくて誰がやる」

クンの脳裏に老大とロンの顔が交互にフラッシュバックした。

『老大(ラオター)の様な人物に成りたい。ロンの様に自分の夢を実現させたい』

「今がチャンスだ。俺達は若い、失う物も無い。貿易会社なんて事務所と机と電話にFAXがあれば出来る。要は語学力と人脈で成り立っている商売だ。クンが一緒にやってくれるのなら、俺も勇気百倍さ」

二人の卓子の周りには次々とチューインガムや宝クジを売る少年達がやって来るが、チャムロンの気迫に押され何も言わずに帰ってしまう。

「どうだ景気付けにマッサージルームでも行くか。いつもの所にチェンマイから新しい女の子が大分入ったらしいぜ。12歳から15歳の娘が大半らしい」

「いや、今日は止めましょう。チャムロンさんから大変な宿題を貰っちゃったから」

「宿題、何だ今返事出来ないのか、度胸のない奴だな」

「無理ですよ。一生の事ですよ、少し考えさせてください」

クンはマールボロに火を点けると眼を中空に向けた。

「わかったよ。俺はマッサージに行くからお前はもう少し考えてみたらいい。ここの勘定は払っておくよ」

チャムロンは持ってきたメコンの小瓶をポケットへねじ込むと一人屋台を出て行った。

一人残されたクンは辛子の効いたスープとライスを頼むと、ライスを丸ごとスープの中へ放り込み、一気に口の中へ流し込んだ。

「ランに会いたい」

クンの呟きは小さな声ではなかったが喧噪の中に忽ち消えていった。

 

ランのマンションに辿り着いたのは夜も12時を廻っていたが、彼女は覚きていた。

「何故かクンが来る予感がしたの。それで寝ないで待ってたの」

クンはそれには答えずがむしゃらにランをベッドへ押し倒した。

「クン、待ってよ。今日のクン変じゃない。最近ずっと怪かしかったけどどうしたのよ一体」

相変わらず黙ったままのクンは彼女の髪を止めているバレッタを外すと一気に着衣を脱がし始めた。

「待ってよ」

ランの悲鳴にも似た懇願には耳も貸さず、全裸になった彼女の中へクンは躊躇なく入っていき、 息も絶え絶えになったランを横目にクンは果てた。

「強姦じゃない」

半ば眼を閉じたまま叫ぶランの髪を優しく撫で、クンは自分の唇を彼女の唇へと合わせにいった。

「ラン、君を愛している。やっとわかったんだ。結婚して欲しい」

「結婚」

「そうさ、俺は独立する事にした。G・B・Tは退職する。君の力が必要なんだ」

「待ってよ」

ランは自分でも何か可笑しくなって、

「今日の私って『待ってよ』ばかり言ってるみたい」

クンも少し笑ったが、直ぐに真顔に戻るとランの手を強く握った。

「待ってよ。順番に言ってよ。独立するから結婚したいってどう云う事」

「結婚したいんだ」

「私の事よく知っているの」

「知ってるさ、ほとんど毎日会ってるし」

「私って大学生だけど、違う世界にも足を踏み込んでるのよ」

「朧気(おぼろげ)には聞いている」

「知ってて結婚しようなんて言ってるの。クン、酔って言ってるんじゃないでしょうね。

それに私って妾腹の子よ。あなたの両親が許す筈はないわ」

「俺と君が結婚するんだ。君の両親と俺の両親がするんじゃない」

「あなた世間しらずの坊ちゃんなのよ、結婚なんてそんな簡単な物じゃないわ。 ご免なさい。そんなつもりで言ったんじゃないの」

「わかっているさ。俺も自分が世間知らずだ思っている。しかし挑戦したいんだ。変えたいんだよ人生を」

「あなたの人生を変えるために私を利用するわけ。

又、私 悪いことを言ってしまったわ」

「いいよ、気にするな」

バンコクの歓楽街パッポンに近いランのマンション近辺は、夜の2時を廻ったとは雖(いえど)も車の鳴らす警笛の音が途切れなく続いている。

以前クンは、何故彼女がパッポンの近く住んでいるのかと疑問に思った事があったが、今夜はそんな事はどうでもいいと思っていた。

「取り敢えず待ってよ。又、言ってしまったわ」

ランはクスリと笑い、クンもつられて笑いだした。

「近く親父の誕生パーティがある。親戚も集まるしその時に君をお披露目したい。

ランもランなりに心術を算段しておいてくれ」

クンには珍しく有無を言わせぬ台詞であった。

「わかったわ。私もクンとの出会いを巫山の夢で終わらせたくないわ」

ランの言った『巫山の夢』とは中国古代の楚の懐王が夢の中で巫山の美女と交わった時の話である。

その美女は王との別れ際、

「これからは朝には朝雲、夕には降る雨となってお目にかかりましょう」と、言った。夢から醒めた王は彼女が神女であった事を知り朝雲廟を建て、毎日彼女に会いにそこを訪れたと云う故事である。

この話からもわかる様に、ランもクンとの事は一時の遊びとは考えていなかった。

翌朝、クンはチャムロンに返事をした。

「宜敷くお願いします。私も自分の夢の実現の為一所懸命努力致します」

「決心してくれたか」

「はい。いろいろと」

チャムロンは深く詮索する事もなくクンの返事を了とした。

 

第四章 客家(はっか)の壁

 

二人が独立をして3ヶ月が過ぎた。

この3ヶ月間二人は仕事に忙殺されていた、という事はなかった。

時として注文が入るが、精々サンダル100足送れとか、帽子を200個作ってくれという類の注文であり、何とか日々の生計を凌いでいる状況であった。

バンコクの繁華街のひとつであるパトナムマーケットから東へ延びるラマ二世通りを中心から5キロ程行った所に二人の事務所はあった。

中心よりはやや離れるが、空港へ荷物を運ぶ時等渋滞するダウンタウンを迂回する事が出来るので便利ではあった。

社名は「ワールド・エキスプレス」、有りがちなネーミングでもあった。

そんな事務所へ、或る日の午後一本の電話が入った。

「クンさん。チャイライです」

パトナムマーケットは洋服関係の問屋街である。彼女もそこで5坪程の店をやっている女主人であった。

「チャイライさん久し振りだね」

以前、チャイライの店へふらっと買い付けに来たアラブ人の輸出の代行をしたことがあり、クンは彼女を覚えていた。

「独立したんだってね。そこでちょっとした仕事を頼みたいのだけど。

昨日ね、日本人が来て周りの店も含めてかなりの買い物をしたのさ。勿論商売上の仕入れなんだけれど、L/Cじゃなければ支払いは出来ないの一点張りなのさ。

私達の様な小さな商売でL/Cなんか受けられないしさ、又受けても税務署に売上の全てを捕捉されても困るし、クンさんの会社でL/Cを受けてくれないかね。勿論バックコミッションは払うからさ」

チャイライは一気に捲し立てて言った。

「いいよ。品物は洋服なんだね」

「今日、その日本人が来るから5時頃来てくれないかね」

クンはチャムロンに事情を説明すると、ひとりパトナムへ向かった。クンが彼女の店へ着くと、その日本人は既に待っていた。

「遅れてすいません」

「いいえ、私が早く来過ぎたんですよ。日本人の習性ですから」

完璧な英語だった。

年の頃は27,8歳、長く伸ばした髪を後ろで束ねている。

更に、鼻の下には立派とは言えないがモンゴル風の髭を蓄え、インドから戻ったばかりらしくその民族服のクルタとパンツであるピジャマを着て、足にはガンジーサンダルを履いていた。

『何だ、ヒッピーか』クンは日本人バイヤーと聞いて飛んで来た自分を恥じた。

「五日市直樹と言います。名字は発音しにくいからナオキと呼んで下さい」

『ヒッピーにしては上手い英語だ。ヨーロッパが永かったのかな』

70年代後半のバンコクはインド帰りの欧米や日本のヒッピー旅行者が屯していた。クンもこの汚い姿形をした若者達は知ってはいたが、実際に話すのは初めての事である。

『意外と真面なんだな』

「このパトナムで色々仕入れをしたのですが生憎現金がありません。こちらのチャイライさんに相談すると、L/Cを受けてくれる会社があると聞いて早速お願いしたのです」

「L/Cは受けられますが、総額は幾らくらいになりますか。余り額が大きいと面倒な事が有りますから」

「10万ドルくらいです」

クンは唖然とした。1979年後半の1ドルは約220円であり、10万ドルは邦貨にして2、200万円になる。

このヒッピーのような奴が平然と10万ドルのL/Cをオープンすると言う。

「日本人のあなたには10万ドル位訳も無い金額でしょうが、タイ人にとってはひと財産です」

「駄目ですか」

直樹と名乗った男は落胆の色をみせた。

クンはタイ語でチャイライに尋ねた。

「小母さんやその他の店への支払いはL/Cの銀行の買い取り、つまり銀行からお金を貰ってからでもいいのでしょうか」

「いいとも、クンさんなら信用出来るし、ウチの子はクンさんのお父さんの教え子になるしね」

クンはこんな所で親父が仕事を助けてくれるとは思わなかったが、それなら可能だと答えた。

直樹の買付は商品は多岐に渡っていた。

「実に細かい仕入れですね。型数は多いが一型あたりの数量は多くは無いのですね」

「そうなんですよ。だから工場へ発注する事も叶わず、こうして出来るだけ多くの問屋から買っているわけですよ。クンさんも若そうだけれど、貿易会社を経営しているのですか、凄いですね」

「いいえ、パートナーシップですよ。社長と副社長、つまり私ですが、それに秘書の女の子だけの会社です」

直樹の人懐っこい人柄にクンも言わずもがなの事を言った。

「クンさんは正直な人だ。信頼ができる。安心してL/Cをオープンしますよ」

直樹も彼なりに雑談を装って相手を観察していたらしい。L/Cをオープンする事は相手を信用する事である。

オープンされたL/Cはその条件を満たしていれば、如何なる状況が起きようが、船積みされた商品に対する支払い義務を免れる事はない。

極端な例であるが、石ころを船積みされても輸出審査を通過していれば、後日裁判を起こすにせよ一旦は支払いの義務は生じる。

直樹は親指と中指でモンゴル髭を左右に分けると言った。

「クンさん、時間も時間ですから、よかったら食事でもどうですか」

「いいですよ。喜んで私が御招待します」

自分でも興奮している事をクンは感じていた。

「小母さん。この件はワールドエキスプレスに任せてよ。明日又来るから、ナオキさんの買付リストを他店のも含めて作っておいて」

チャムロンに電話を入れ会社には帰らない事を告げると、直樹を促すようにタクシーを拾い乗り込んだ。

行き先はタマサーク大学であった。

タマサーク大学の外塀沿いに海鮮料理店が軒先を連ねている。

「ここは私の出身大学なんですよ。ここら辺のシーフードレストランは学生時代よく来た所で懐かしくてね」

クンにとってはランですら連れて来た事のない取って置きの場所であった。

「美味そうな臭いがするね」

「日本人は魚をよく食べるからIQが高いってタイでは言っていますよ」

「真逆(まさか)、日本人は魚臭い(フィッシュイー)と言われているのは知ってますけど」

直樹は苦笑せざるを得なかった。

クンは賓客をもてなすが如く山海の珍味を取り寄せ、卓子のうえに所狭しと並べた。日本で云う赤貝の刺身、これはレモンをかけて食べる。車海老の焼き物、直樹は日本人らしく醤油(シーユー)を付けた。

渡り蟹とその卵巣の炒め物、絶品である。最後の伊勢海老は圧巻であった。その肉の部分を蒸して殻に詰め直し、椎茸と葱とタイ独特の香草を炒めてあんかけにし添えてある。

直樹も満足気に次々と料理を口へ運び、その健啖家振りを見せクンを驚かせた。

「先程の日本人のIQの話に似ているようですが、『味の素』が美味しいばかりでなく、頭を良くするし色々の病気に効くとタイでは信じている人が多くてね、田舎へ行くと風邪や腹痛でも味の素を飲んじゃうんですよ」

「タマサーク大学卒のクンさんがそれを信じているとは思わないが、よく聞く話ですね」

筆者も1990年代の半ばにもこの話を信じている人に会った事がある。

「日本に就いては良い噂も悪い噂も色々東南アジアに溢れていますよ」

「それも日本の信じられない大戦後の復興振りに由来するのじゃないですか、この成長や発展は世界の脅威です。戦前生まれの華僑には、日本人を悪く云う人達が多いのですが、我々戦後生まれの世代には寧ろ尊敬と言うか、奇跡に近い感じがします。

実を言いますとね、私も日本人に会うまでは日本人の事を恐ろしい人間だと思いこんでいました」

右の事も東南アジアでは、特に華僑の子弟からはよく聞く話である。

「日本人に会ってみて、日本人も我々と同じ人間なのだ、決して怖い者ではない事がよくわかった」と、若い世代の華僑から聞いて驚きを感じた経験を私も数多く持っている。

「クンさんのお父さんやお母さんは辛い体験をしているのでしょうね」

「タイは中立国だったから、シンガポールや香港の華人程ではないでしょう」

「タイの外交政策は東南アジアでも群を抜いて素晴らしかったと聞いていますよ」

事実、欧米列強の植民地政策の餌食にならなかったのは、アジアでは日本とタイだけである事は既に述べた。

東南アジア諸国が下手な外交や贅沢な暮らしをする中で、タイの歴代の国王が賢明であり続けた事が以上の結果をもたらした要因である。

例えばラーマ四世、モンクット王はインドやビルマがイギリスの手中に陥ちた際にも、イギリスと友好通商条約を結んだり、イギリス人を家庭教師として王族子弟の教育を欧風化させたりもした。

これがミュージカル『王様と私』の原型と成ったのは有名な話である。

この例でもわかるように時にはイギリスと組み、更にフランスとも外交関係を持ち、日本が東南アジアに進出するとみるや、中立関係を保ったりするタイの列強諸国間の遊泳術は、続くラーマ五世やチュラロンコーン王への歴史の中で他のアジア諸国に比べて一際抜きんでいたと言わざるを得ない。

「タイ国民の多くは聡明なプミポン国王や歴代の王を尊敬しています」

「らしいですね。私がここで映画館に入った時、上映前に観客全員が起立するのでびっくりしましたが、スクリーン上に現在の王様が映っていたのにはもう一度驚きましたよ。

それが戦後の日本のように強制的に行われているのではなく、人々の自然の心のままで行われていたのが素晴らしいとおもいましたよ」

筆者もこれを体験した時は、他のアジアの独裁国家の専制君主にありがちな強制的パフォーマンスだと思ったが、後年タイ国民のプミポン国王に対する親しみと尊敬の念を知るに連れてこの考えを改めたものである。

「ナオキさんはタイは詳しいですね。他の観光客とはちょっと違うみたいですが、タイには何回もいらっしゃてるのですか」

「ええ、回数だけは多いのですが、インド、ネパールが主な仕入先でね、往きと復りにバンコクに寄るだけですよ。直行便より安いので、ここで乗り継ぐのですが、折角寄るのだから何か買付でもしようと、今回初めてパトナムへ行ったのです」

「ネパールか、お釈迦様の生まれた国ですね。私達タイ人はインド文化の影響を強く受けている割にはインド人が嫌いなんですよ」

「タイの人達は敬虔な仏教徒じゃないですか」

「インドじゃありません。インド人が嫌いなんですよ」

タイにはこんな言葉がある『インド人とコブラを見つけた時、どちらを先に殺すか』、クンはニヤリと笑うと付け加えた。

「もうひとつ言うと、パキスタン人も嫌いです。私達は『パキ』と呼びますが」 直樹は何となくわかる気がしてそれには答えず、

「フランスには、『小母さんとゴキブリを見た時どちらを先に踏み潰すか』と言う言葉がありますよ」と、言葉を濁した。

クンは大きく笑うと話題を元に戻して言った。

「でも釈迦の生誕地ネパールは一度行ってみたいと思っています」

釈尊の生誕地に就いては色々な説があるが、一応の定説としてルンピニーと言われている。インドとの国境に近いネパール側の小さな町である。

父は浄飯王(スッドーダナ)、母は摩耶(マーヤ)である事は良く知られているが、その二人の間に生まれた釈迦族の王子がシッダールタ、つまり釈尊である。

特筆すべきエピソードとして釈尊はマーヤの右脇腹から生まれたとされている。

これはインドでは右を尊び左を汚れた物とする思想から来ているらしい。

恐縮する話であるが、事実彼等は右手で食事を摂り、左手で用便後の後始末をする。又、日本では幼児を背中に背負うが、インドでは右脇に布で包み吊り下げている事も右の事柄に関連するのであろう。

その他、釈尊は生まれるや否や七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったとも伝えられており、この『七歩』にもインド的な意味があるのだが、本文より逸脱が過ぎるのでここでは省く。

「クンさんも仏教徒ですか」

「タイの男子なら一生に一度は仏門に入ろうと思うものです」

「日本人も一応仏教徒ですが、御存知のとうりタイの人の様には熱心ではありません」

「ナオキさんは・・・・・」

「ナオキでいいです」

「じゃあ、ナオキはどうしてそんなに英語が上手なんですか。又10万ドルのL/Cをいとも簡単にオープンする事が出来るのに、そんなヒッピーみたいな、あっ、スイマセン」

「オーケー、気にしないで。ビジネスマンに見えないと言うのですね。

私はバンコクにもいっぱい居るあのヒッピーね、あれでした。横浜から船に乗ってソ連まで行って、後は汽車でシベリアからヨーロッパと巡って、中近東やインドをバスを乗り継いで、勿論東南アジアも殆どの国を廻りましたよ。

又、カナダからアメリカを経て中南米にもバスや汽車でぶらぶらしていました。

全部で60ヵ国位は行きましたね」

「60ヶ国・・・・・」

「大学在学中ですから、クンさんのようには勉強はしていません」

直樹は照れくさそうに笑うと更に続けた。

「就職しないで、在学中から海外の物を仕入れては日本の道端で露店の様に売っていたわけですよ」

「折角日本の大学を出て就職しないなんてご両親は怒りませんでしたか」

「諦めていたのでしょう。日本にない安い物を探してくる、又或る国で払底している物を日本から持っていく、これが貿易の基本だと思ってね。貿易ほど私にとって面白い物はありません」

「そうやって古来人類は互いに往き来して貿易を発展させ、文化を伝播させて来たのだと思いますね。

私も貿易には興味があり、こんな面白味と言うか妙味のある仕事は他に類例が有りませんね。

皆が見た事も無い物を他の国から持って来る、その国ではありふれた物でも他国では珍重され高く売れる。危険を冒してでも未知の国へその商品を探しに行く、これは男のロマンを満足させてくれる仕事だと思っています」

「クンさんが貿易会社をやっているのもその辺 の夢からですね」

「今は単に輸出の代行が主な業務ですが、将来はナオキさんのようにリスクを冒してでも自分で選んだ商品をタイへ紹介する事をやってみたいと思っていますよ」

クンには大言壮語癖はない。直樹と云う良き話し相手を得て、漠然とした将来の願望が口を突いて出たのであろう。

直樹も酔いがそうさせているだけでなく、クンの前では珍しく饒舌になっている。

「私は大した事はやっていません。ヒッピー旅行の延長線上に生活の糧を得るため、貿易をやっている位のものですよ。それに自分のやりたい事が未だ掴めていないのが本心かな」

「でも羨ましい人生ですね。人が生きたいように生きることはむつかしい。特にタイのような後進国では先ず喰うことが先決です。」

「そう言われると恥ずかしいが、クンさんとはいい友達になれそうだ」

「私もです」

クンは老大のみならず、直樹からも世界を相手に貿易をする醍醐味を知らされ、益々自分の人生を貿易に賭けてみようと決意した様であった。

「MRクンではなく、これからはクンsanと呼んでいいですか」

「sanとはどういう意味ですか」

「日本語の軽い敬称です」

「では私もナオキsanと呼びますよ」

「いいや、ナオsanと短く呼んでください。私の友人は皆そう呼んでいます」

「オーケー、ナオsan」

二人は今宵を始まりとして莫逆(ばくぎゃく) の友となり、文字通り心に逆らう事莫(な)く意気投合し相与に友人となった。

 

 翌日はランと約束していたクンの父の誕生日であった。

 前述したが宋一族は中華街の中のサンペンに居を構えている。

 功成り名を遂げた華人達の多くはサンペンには仕事上の家屋のみ残し、一族を連れて郊外に大邸宅を建てそちらに住んでいるが、一介の高校教師でビジネスには縁のないクンの父は先祖より引き継いだ古い家に依然として住んでいた。

世界中のチャイナタウンがそうである如く、ここバンコクのそれもお世辞にも清潔とは言えず、活気があるのは事実だが、道路のいたる所に露天商が店を出し、通行人の往来を妨げている。

クンは緊張の容子を隠せないランの背中を抱いて父に紹介した。

「サワディカッ。よく来てくれました」

今日58回目の誕生日を迎える父は上機嫌であった。

「親戚の人達もお揃いだ。暁蘭(シャオラン) さんを皆様に紹介してさしあげなさい」

ランもようやく緊張の糸が解けたらしく、クンも同様に案ずるより産むが易の心境になっていた。

「母さんも生きていたら、お前のガールフレンドを見たかっただろう」

その言葉を聞いて、二人とも父親の許しが出たと悟った。

「ランさん、実は宋一族は客家(ハッカ)でね。ほらあそこに見える婦人、ワシの叔父の未亡人なんだが、彼女が一族の長老で彼女を中心として一致団結しておるんじゃ」

ランは客家と聞いて悪い予感がした。

客家、北京語ではクーチャーと発音する。

人口は現在4,500万人と言われていて、全華人の人口に比べれば少数民族であるが、その団結心や進取の気質では他の華人に抜きんでいる。

彼等は文字通り『客の人』であり『余所者(のけもの)』であるが、元来中国大陸の北方に住んでいた歴とした漢民族であり、歴代の中原の戦乱の度に集団で南下し、現在に到っても古い北方の言語や文化を保ち、一般には客家語と呼ばれている言語を伝えている。

文化、伝統保持に熱心で、教育にも力を入れ、又女性の勤勉性も高く、その勤勉性を表す事柄としてひとつの例がある。古来中国人女性は美しさの表現として、足に幼い頃より布を巻き付けて大きく成長するのを嫌った。纏足(てんそく)である。

 しかし客家の女性達は労働の妨げになるその纏足をする事はなかった。ここにも客家精神の合理性を見出すことが出来、その上伝統文化の継承を重んじる彼等は、清の時代に入っても明朝時代そのままの服装で通したと伝えられている。

 清朝は北方からの征服王朝であり、彼等の服装は所謂旗包(チーパオ)と呼ばれ、チャイナドレスに代表される様に詰め襟で裾が割れているが、明朝のそれは唐装(タンチュアン) と呼ばれて、襟無しの右脇で合わせ紐で結ぶ服装であった。

更に特筆すべき葬礼方法に、一度埋葬された死者を4,5年後に掘り起こし、その遺骨を椿油で清め再び甕に納め埋葬する儀式がある。この第二次埋葬の古俗は中国では既に失われてしまった習慣であるが、客家人の間では現在尚守り続けられている。これは流浪の民として先祖の遺骨を持ち運び易い形に保っておく為にも必要であった。

 又少数民族であり、他の民族による圧迫から逃れるには強烈な団結が必要不可欠であり、その為彼等は囲屋(ウェーウー) と云う大家族用の集合住宅を建てた。形は様々であるが、NHKでも放送された円楼(ユアンロー) が有名であり、直径は100メートル程あり三階建てで数百人が起居する事が出来る。

右の例から、客家の際立った特徴をタイガーバームガーデンの胡文虎の言葉を借用して整理すると以下の如くなる。

一、刻苦耐労 二、剛健弘毅 三、創業勤勉 四、団結奮闘

客家で有名人を挙げろと言われれば数限りない、代表的な人物としてはトウショウヘイ、李登輝(台湾総統)、李光耀(シンガポール上級相)、孫文(辛亥革命)、葉剣英(人民解放軍元老)、洪秀全(太平天国の乱)と枚挙に遑(いとま) が無い。

どんなに苦しい環境や状況に置かれても客家人は自分達を自家人(チッカーギン)ー同胞として団結し苦労に耐え、勤勉を重ね革命や事業を成し遂げてゆく偉大で誇り高き民族である。

 

ランの表情からは微笑みが消えていた。

「クン、あなた客家だったの」

「黙っているつもりはなかったけれど、話す機会がなかったのさ」

「私、自信がないわ」

「兎に角、大叔母を紹介しなければ何も始まらない」

大叔母と呼ばれた老婦人は客家料理の代表的な醸(ニャン) 豆腐を食べていた。

醸豆腐とは薄く切った豆腐の中に肉あんを入れ油で揚げて煮込んだ物で、客家の正月や祝日等の特別な席には欠かせない料理である。

「あなたも客家なの。蘇暁蘭 でしたわね」

「いいえ、私は違います」

「客家の嫁は大変よ。頑張ってね」

出席者に紹介する度に同じ様な会話が続いた。

「クン、可愛いお嬢さんね。そう、客家じゃないの」

 ランはそう聞く毎に、自分だけ一人場違いの所へ入り込んでしまっている感じが募り、クンはそんな彼女を気遣って早々にパーティ会場を去った。

 数時間後、 二人は黙りこくったままシャム広場のカフェに居た。

「ラン、大丈夫だよ。客家以外から嫁を迎える客家人は多い。現にあの長老の大叔母だって客家じゃなかった」

「今は客家そのものじゃない」

「客家に成る努力を人一倍した結果が、彼女をあんな風に変えたのだろう」

「私は無理だわ。厳格な客家の一族の中へは入って行けないわ」

「今は時代が違うよ。結婚したら二人でマンシヨンを借りよう、俺が君の所へ転がり込んでもいい」

「あなたのお父様が許す筈無いわよ。私の素性を話したの」

「いや、未だだけど」

「怖くて話せないのでしょう」

「自分をそんな風に責めるんじゃないよ」

 クンはしかし、後の言葉に詰まってマールボロに火を点けた。

「あなたもそう思っているのでしょ。私今日は悪いけど帰るわ。でもクンを愛している気持ちは変わっていないわ」

 ランは立ちこめるマールボロの紫煙を横切り、足早に去っていった。

 数週間後、食事を終えた後にクンは父の寝室に呼ばれた。

 子供の時以来入った事の無い父の寝室である。クンは話題はわかっていたが緊張した。

「まぁ、そこに座れ」

 父の寝室は狭いながらもよく整理され、父の性格を如実を表していた。

 寝台の頭の部分には母の遺影が飾られ、その額のガラスもよく磨かれている。 「一杯飲むか」

父が寝酒にしているメコンの小瓶がテーブルの上に置かれていた。父は既に飲んでいたらしい。

「少しだけ頂きます」

「今夜は、母さんと一緒にお前に話をしたいと思ってな」

母を亡くした後の父は以前より一回り小さくなった様に見受けられる。その小さくなって皺の増えた手でメコンを注いでくれたが、気のせいかやや震えているようにも見えた。

『俺はこの父に又も心配を懸けたのか』

メコンの入ったグラスを口に付けると、いつもの味とは違う苦みが感じられた。

「ランの事じゃが」

 父はゆっくりと話し出した。

「お前には悪いと思ったが色々調べてみた」

「・・・・・・」

「お前は知っているのだろうが、驚くべき事実がでてきてね」

「何ですか」

クンは父は何処まで知っているのだろうと探りを入れた。

「客家でない事はいい。大叔母も敢えて反対はしなかった。妾腹の子には問題が残るが、頭が古いと言われてもな。

問題はその次だ。お前はランがパッポンで働いていた事を知っているのだろう」 「以前友人から聞いた事があります」

「そこのカラオケバーのオーナーも華人で儂もよく知っている。外国人専門の高級店だ。気に入った客とは寝所を共にするらしい」

父はそこまで言うとメコンを一気に飲んだ。

愛する息子には話したくない事を、今夜は言わねばならない。

「ランも・・・・・と、言いたいのですね」

「そうじゃ。間違いは無い。そのオーナーから直接聞いた話じゃから」

「そうですか」

クンのグラスの中の氷は、強く握りしめていたせいか、とうに溶けてしまっている。

「駄目なんですね」

「辛いが、儂には親戚全員を敵にして迄お前を庇う度胸はない」

「客家の団結を乱すと言う事ですね」

「そうじゃ。許してくれ」

「一族の意見はよくわかりましたが、私はランを愛しています。ランも同様です。結婚は諦める訳にはいきません」

父は頭 を大きく振ると溜息をついて続けた。

「お前も男だ。遊び相手の女が何人居ようと儂は文句は言わん。じゃが結婚は諦めろ」

「ランは遊び相手ではありません。正直言うと最初はそうでしたが」

「そこが女の怖いところだ。目を覚ませ、クン」

 日頃の父には見受けられない程の強い語気であったが、クンはそれには怯まず反論した。

「私は正常です。ランの素性に問題があるのはわかっていますが、彼女を遊び相手のままにしておくことは到底できません。お父さん、私の我が儘を許してください」

「お前は小さい頃から手を焼く事のない素直ないい子だった。多少の我が儘なら聞いてやりたいし、母さんもそう言うだろう。

しかし、この件はべつだ。父としてお前がみすみす不幸に成るのを放って置くわけにはいかんのじゃ」

「結婚が不幸ですって」

クンも父には悪いと思いながらも大きな声を出した。

「一族の反対する結婚が幸せをもたらすとは考えられない」

「わかりました。平行線ですね」

クンは温くなったメコンに口を付けると「御馳走様でした」と、ひとこと言いグラスをそっと置き、父に一礼をして部屋を出て行った。

 

 

第五章 猫(ミャオ)族の娘

 

 1981年、タイの経済は他のアセアン諸国同様発展の一途を辿っていた。

ワールドエキスプレスの取り扱い高も、クンの信望と仕事の正確さで飛躍的に伸びていた。

勿論、度々訪タイする直樹への輸出も増え、順風満帆の日々が続いている。

「そんな事があったのか」

3ヶ月振りに直樹と飲んでいるクンはランとの結婚話を打ち明けた。

「ランも一時はショックを受けたみたいだったが、予め覚悟は出来ていた事だし、今では以前通りつき合っているよ」

「で、どうするんだ。彼女とは」

「結婚したい気持ちに変わりはないが、焦る事もないだろうし、今のままでいいとも思っているよ。人生全てマイペンライさ」

「クンさんらしいね」

「ナオさんも未だ結婚してないんだろう」

「かっこよく言えば、俺にはまだする事がいっぱいあって、結婚はずっと先の事だろうね」

直樹も27歳である。結婚を考えた事はないと言えば嘘になるが、まだ真剣な問題とは思っていない。

「クンさんだって25歳だろう。早いよ結婚なんて、ランも大学を卒業したば

かりじゃないか」

大学を卒業したランはパッポンでのアルバイトは止めて、一流と言われる金融会社へ入社していた。

「ランがそんなアルバイトをしてたとはね、彼女って知性的な顔立ちで美人だし、クンさんも心配だろう」

「二人は愛し合っているし、信用してるさ」

クンは直樹の冗談にも生真面目に答えた。

「凄い自信だな。今日はクンさんの奢りだよ」

「オーケー。でも二軒目はナオさん持ちだよ」

 二人はサムローを拾うとパッポンへと向かい、観光客でごった返す路地へと足を踏み入れた。路地の中央には所狭しとお土産屋の店が軒を連ね、両脇には怪しげな店が多くの呼び込みを伴って営業している。

 クンは『リップスティック』の看板のある店へと直樹を誘った。

 店内は暗く、ボーイの照らすペンライトだけが頼りである。店の中央に四角く囲ったカウンターがあり、そのカウンターに向かって座席が壁際に張り付いている。

 直樹は当初全ての座席が店の中心を向いているのを訝(いぶか)しがったが、やがてその謎は氷解した。

 数曲毎に女達が入れ替わり、カウンターの中に設えられたステージで全裸で乱舞する。直樹は壁を背にした座席でクロスタービールを飲んでいたが、次々と薄物を纏(まと)った女達が舞台を終え飲み物を強請(ねだり)にやってくる。

 暗さにも目が慣れてくると、女達と言うより少女に近い事が分かってきたが、酔った勢いでドリンクを頼んでやると今宵の供を願って止まない。

 ステージではオートバイがいつの間にかセットされ、如何にもベテラン然とした一組のカップルが男女の営みを見せていた。

「ナオさん、好みの女の子がいたら連れていってもいいよ」

「この子達はこの仕事に見合うだけの収入を得ているのかな」

 クンは直樹の質問には理解を示さず、既に今宵の相方を膝の上に坐らせている。 直樹も前述したように27歳である。薄物を通して視野に入ってくる幼い乳房や、熟成しきっていない腰の線に抗うことは困難に思えた。

「クンさん、俺帰るよ」

「誰かに決めたんだな」

「折角だけど、今度にするよ」

 ステージの少女達の表情は唯虚空を見つめ、気だるさを音楽に乗せているだけに見えた。

 宿酔い気味の重い頭で出社するとチャムロンが待っていた。

「クン、例のロスのバイヤーだけど、チェンライの山岳民族の織物のサンプルを集めてくれと言ってきているが、担当してくれないか」

「タイ系アメリカ人のロジャーでしたね」

 彼は今までタイへ来ると、言葉が出来るので一人でチェンマイやチェンライへ行っては注文を出してきて、その後の船積みの処理だけをワールドエキスプレスへ頼み幾許かの手数料を上乗せして、帰国後アメリカから送金してきた。、

「今度は来ないのかな」

「急に新しい店を出すので、商品が要るらしい。我々なら彼の好みを知っているのでサンプル集めを依頼してきたのさ。今回は手数料ビジネスではなく、現地価格に我々の利益を乗せたFOB価格でいいと言っている」

「それならチェンライまでの旅費を出しても合うね」

「クンに頼むよ。行ってくれ」

 クンはバンコク発、チェンマイ行きの夜行列車に乗った。

 800キロの長旅である。

 チェンマイは麻薬の集積地、ビルマとラオスに囲まれた黄金の三角地帯に近い。 又、北方なので中国系の血が入った色白の美人の産地としても有名である。

 クンは高校時代山岳民族のひとつである苗(ミャオ)族の家で一ヶ月程寝泊まりした事があった。

 自分では気が付かないが、クンのテンションは何故か騰がっている。

 朝早くチェンマイ駅に着いたクンはバスに乗り継ぎ、更に一五〇キロ北方の国境沿いの町チェンライへ入った。

 現在は中国の雲南省やビルマ、ラオスに迄タイの通貨であるバーツ経済圏が拡大し、バンコクからチェンライ迄タイ航空の直行便が飛び、ゴルフ場やホテルが整備され一大観光地化されている。又、国際空港が既に完成し、ここから雲南省の昆明(クンミン)迄タイ航空で行くことが出来る。

 八一年のチェンライは、黄金の三角地帯と呼ばれる所に少しの旅行者用のコテッジと土産物屋が並んでいる程度の辺鄙な観光地であった。

 苗族やリス族やアカ族等の多くの部落は、山中に各々独立した生計立て点在している。

 クンは部落間を精力的に動き回りサンプルを集めた。

 タイ国と中国雲南省に跨って住んでいる少数民族も、中国共産党に追われて来た者が多い。

 中国領や他のインドシナ領内にも同族が分かれて棲んでいるのも右の理由により、筆者の体験でも他のタイ人より眼が細く中国系に近い感じがする。

 クンは高校時代に泊まった事のある民家へ投宿した。

「クンじゃないか。これは珍しい人が来た」

 苗族の長老は久し振りの再会を心から喜んでいるようである。

「御無沙汰しております」

「立派になったなぁ。まぁ、娘のノイにも会ってやってくれ」

 クンが振り向くと、そこには待ち構えているかのように色白で小柄なノイが立っていた。

「兄ちゃん、元気だった」

「大きくなって、その上綺麗になったモンだ」

 クンがこの地に居た頃、彼女は9,10歳位の少女だったのを覚えている。

「兄ちゃんにはよく遊んで貰ったわ」

「まぁ、地酒でも飲んでくれ、今バァさんが地鶏を潰しているから、追っつけ料理も出来るだろう」

「それにしても懐かしいですね」

 クンはノイの方を向くのが眩しく思えた。

「兄ちゃんは結婚したの」

「未だだよ、仕事が忙しくてね」

「兄ちゃん、私をお嫁さんにして呉れるって約束覚えてる」

 クンは17,8歳の娘から突然言われた言葉にどぎまぎしたが、気を取り直して言った。

「そんな事もあったね」

 心なしか、酒を注いでいるだけのノイの顔がピンク色に染まっていくのをクンは見た。

 クンは話題を変えようと長老の方を振り向いていった。

「けしの栽培は続いているのですか」

「最近じゃ政府の取り締まりも厳しいし、国王の指導のもと都会向けの野菜栽培が盛んでのう。野菜の買付は政府によって行われるもんで、儂らミャオも現金収入が安定するわけじゃ。今、けしを作る者は殆どおらんのじゃないかのう」

 けしー漢名は罌粟と書く。

 密教の山伏が護摩を焚くときに用いる『芥子(けし)』と混同されることが多いが、今話題になっているけしは『芥子』とは違い葉も白っぽく四弁の大きな花を付け、その未熟な実の乳液から阿片を採る。

 長老が述べた如く、今でこそプミポン国王の尽力に因り、けし栽培は殆どその姿を消し野菜の促成栽培地域となっているが、以前はけし栽培でここら一帯はその生計を立てていた。

付け加えて言えば、革命政府に反抗するビルマのゲリラの資金源としても有名であった。

 精製された罌粟、つまりヘロインの類はバンコクから世界中へ流れ出し、又雲南ルートを経由して中国から日本へも多く入ってきたものである。一時期バンコクがヒッピーの溜まり場と化したのも、右の事柄が深く関わっていたのかも知れない。

 バンコクでヘロインを安く仕入れ、マレーシアやシンガポールへ運び込んだヒッピーの数多くが獄中に繋がれている状況は衆知のことである。

「私がここにいる頃は周りはけしだらけで、紅や紫、白の花が咲き乱れていましたね。実に美しかった」

「いい時代じゃった。タイ政府もここまでは来んかったしのう」

 クンは痛飲し、学生時代とは違うこざっぱりした小部屋へと案内された。

 夜半咽の渇きを覚え眼を醒ますと、夜陰に隠れて女が立っているのが眼に留まった。

『ラン、そんな馬鹿な』

 クンの頭の中には未だアルコールが重くのし掛かっていた。

「ノイだよ。兄ちゃんの所へ行ってもいいでしょ」

「ノイだって。そんな所で何をしてるんだ」

「お父さんが兄ちゃんが淋しいだろうから行ってこいって言うんだモン」

 日本でも江戸時代の半ば頃迄は山中奥深い部落に宿を求めた場合、右の様に自

分の妻や娘を旅人に差し出す習慣が残っていた。

これらは限られた村落や民族内ではその血が濃くなり過ぎる傾向があり、血縁関係のない新しい血を自分達の中に採り入れる為の必要な手段であった。

 勿論子を成すのが目的である。

 但し、建前上は『この様な山深い里では満足な御馳走もお出しすることも叶いません。どうか、この娘で一夜の無聊をお慰め下さい』と、した。

 ノイは黙っているクンの前に近寄ると着衣を解き始めた。

 北国育ちの肌は夜目にも純白に輝いて見えた。

 長く伸びた細い手足、実の母の眼にも触れさせた事の無い可憐な乳房が、月明かりの中に美しい錘形を浮かび上がらせている。

 クンは彼女を真正面から見据える事は出来なかったが、本能は意に反して既に反応していた。彼はそれを恥ずかしいと思ったが、男の性はその理性を奪うのには十分なものであった。

 

 翌朝眼を醒ますとノイの姿は既になく、やがて屈託のない彼女の朝餉を告げる声が聞こえてきた。クンは目を合わす事も無く「おはよう」とだけ言った。

「兄ちゃん、夕べはよく眠れた、未だお酒が残ってるんじゃないの」

『夕べ・・・・何を言ってるんだ。昨夜のことは覚えていないと言うのか」』 「何ぶつぶつ言ってるの、温かい内に食べて。お父さん達はもう畑に行っちゃたわ」

 家の中はノイと二人きりだと言う。

「ノイ・・・」

「何」

「いいや、何でもない」

「変な兄ちゃん。今日はおかしいわよ」

 早々に朝食を摂ると辞去する意を告げた。

「もう帰っちゃうの、又来てね。私もバンコクへその内遊びに行くわ」

「お父さんにも宜敷く言っといて」

 クンは夢か現(うつつ)かわからぬ儘にチェンライを去った。

 

 一ヶ月ほど経った頃、クンのもとへ珍しい来訪者が現れた。

「ロンじゃないか、会社へ来るなんて一体どうしたんだ」

久しぶりに会うロンは身なりもこざっぱりして、実業家の風貌がどことなく漂っている。

「男子3日会わざれば刮目して見よ、と言うが随分と立派に成ったな」

「そうかな自分では何も変わっていないように思えるが。唯、形振(なりふり)構わず屋台を引っ張ってきたがね」

「まぁ坐れよ、やっとチェンライからサンプルが着いてね、これをアメリカへ送っちゃうから待ってくれ」

「すまんね、忙しいところに突然来てしまって」

 クンは手早く梱包を終えると、スタッフに郵便局へ持っていくように指示をしてソファに身を沈めた。

「どうだ商売の方は」

「順調にいってるよ」

「共同仕入れセンターはどうなったんだ」

「色々紆余曲折はあったが、屋台の組合を作って、阿漕な屋台のオーナーから皆を解放してさ、その仕入れセンターから食材を調達させているよ」

「ロンは偉いな、行動力があるよ」

「クンだって忙しそうじゃないか、世界を相手に商売してるって感じだぜ」

「で、ロンの事だ次の一手を考えているんだろう」

「鋭いな、実は本格的なチャイニーズレストランを計画しているのだが」

「そんなものはバンコクにだって何10軒もあるだろう」

「違うんだ、今流行のファーストフード化しようと思ってさ」

「成る程」

「しかし、中華の食材はこれ又華人の問屋グループに握られていて、頗(すこぶ)る高い」

「今度はそこに風穴を空けるつもりか」

「流石に飲み込みが早い。そこでクンに頼みたいんだが、先程も行った特別な食材、例えばフカの鰭や燕の巣などは特に独占状態で、一部の華人グループに莫大な利益を貯め込ませているんだ」

「聞いた事があるよ」

「その関連会社の或る貿易会社を通じて、それらの食材を輸入しても値段は下がらず、到底ファーストフードの食材には成らない。そこで頼みというのは、クンの会社で調達先を調べて食材の輸入をして欲しいんだ。

 例えばフカのヒレは日本が有名だし、燕の巣はインドネシアが集積地だがボルネオ辺りからやって来るらしい」

 ボルネオはマレーシアとインドネシアと石油王で有名なブルネイに3分割されている。

 マレーシア領サラワク州やサバ州は150万の人口の内50万人が華人であり、その7割が既述の客家である。

「客家のネットワークを使えば何とか成りそうだ」

「日本のチャイナタウンにも客家は多いらしいね。客家の持つ世界的なネットワークを利用すれば、クンの好きな、いや尊敬している老大の言葉通り俺達でも世界へ翔くことが可能になる」

 クンは『老大』の一言で更にやる気を増した。

「クンは世界のネットワーク、俺はタイ国内のネットワークと言う事でどうだろう」

「面白そうだな。ロンに従いていけるかどうかわからないが、兎も角やってみよう」

「俺も近い内に日本へ行ってみようと思っている。マハティール首相じゃないが、ルックイースト、日本に学べさ」

「日本なら力になる人物を知っているから紹介するよ。若いけど遣り手なんだ」 「もう、世界のネットワークを作っているじゃないか」

「まだまださ」

 ロンは友の発展振りを知り満足気であった。

「昼飯でも喰いに行くか」

どちらから言うともなく、二人は昼食を食べに外へ出た。ロンはその序でに建築中の2番目の仕入れセンターへとクンを誘った。

一番目のそれは急を要した為に組合内に作った小さい物であったが、今回は時間を掛け大がかりな物を建てていた。

その上彼は先を見越し、バンコク中心の交通渋滞を避けチャオプラヤ河の畔を選んでいた。

「将来は各所に小さな仕入れセンターを作り、ここを拠点として水上交通で支所に配達する計画なんだ」

 クンは先の先を考えているロンの発想には感心するばかりであった。

「ここだ。入ってくれ、足元に気を付けてな」

何処にでもある工事現場と同じく、足元には大小様々な木っ端や金属片が転がっている。

「珍しい奴がいるな」

 クンは懐かしそうに一人の男の元へ近づいた。

「ソンポーンだろ、クンだよ。中学以来だな」

「そうなんだ、俺が屋台を引き始めた頃偶然に出会ってね、それ以来片腕として働いて貰っている」

「俺は高校、大学と建築をやっててさ、お前らみたいにいい大学じゃなかったけどね、職が無くてロンに拾われたのさ」

「拾ったなんて、そんなことはないよ。今じゃ俺にとっては無くては成らない存在だよ」

「何れにしても懐かしい」

 クンは古い友人との再会を心より喜んでいた。

「積もる話は後にして現場を見てくれ」

 ロンはクンの背中を押すようにその場を去った。

 

 工事現場には数多くの出稼ぎ労働者が入っている。

 経済発展の中、富はバンコクへ集中し、タイ政府は先進諸国へ地方の投資を盛んに促したが、所詮はインフラストラクチャー(社会資本の整備)で劣る地方への投資はその優遇税制にも拘わらず伸びてはいなかった。

 賃金格差に目を付けたタイ各地の労働者が、一気にバンコクへと流れ込んでいた。現在の中国ではこの様な現象を読んで字の如く『盲流』と呼んでいる。

 又しても余談で数行を割くが、この読んで字の如しという事が漢字の命である。 古来、漢字の国へ西方ペルシャや南のインドから、夥しい言葉が珍しい文物や宗教と共に流れ込んだが、この漢字を操る人々は難なく造語し漢訳した。

 明治維新後の日本へも新しい思想やら考え方、システムが入り込んだが、福沢諭吉等の日本人も大いに多くの言葉を造った。『平和』『友情』『自由』等がそれであり、佐賀藩士江藤新平が『経世済民』即ち世を直し人民を救済する意味の中国の古い言葉から、英語のエコノミーを『経済』と訳したのは有名である。

 これら新しい漢字表記の言葉は、中国本土からの留学生が中国大陸へと持ち帰ったり、植民地化されていた台湾や朝鮮へも伝わり、各国で現在でも自国語として使用されている。

 テレフォンが電話、オートモービルが自動車と、ありとあらゆる新しい物を自国語に難なく訳せるのが漢字を使用する人々の利点である。

 アルファベットやそれに類する表音文字を使用する国では、オリジナルの言語に近い言葉になりがちである。例えばインドの三輪タクシーは『リキシャ』と呼ばれるが、日本の人力車が上海や香港に渡り、そこで事業をするインド人ビジネスマンである印僑の手を経てインドへ伝わったことが推察され、表音文字文化圏へ入った言葉はその源と足跡が辿り易いと云う利点がある。

 話を本筋へ戻す。

 この盲流の中にチェンライ出身の一人の若者がいた。

スパポン、19歳。ノイの許婚者であった。

 あの夜、偶然ノイがクンの寝所から出てくるところを見てしまった彼は、彼女を問い詰め、事情を知るやノイの父を詰(なじ)ったが、時は既に遅かった。その上ノイがクンに好意を持っているらしいと感じた彼は直情的に頭に血が昇った。

 バンコクの建設現場に職を求め、チャンスを窺っているところに彼の標的が現れた。クンの顔は知っている。翌朝ノイの家に向かう途中擦れ違った都会風の青年、チェンライでは滅多に見る事のない服装である。忘れる事は出来ない。スパポンは首からぶら下げた仏像のペンダントを握りしめ標的が近づくのを待った。

 勿論ロンとクンとの関係を知っていてこの建設現場へ潜り込んだ訳ではない。談笑し乍ら眼前を通り過ぎる二人を見るや傍らに会った手斧を取り、

「クン、死ね!」

と、叫び躍りかかった。

「クン、危ない!」

ロンに突き飛ばされた形になったクンは床へ転げ込んだ。

 第一撃を外したスパポンは体勢を立ち直すと更にクンを目掛けて手斧を振り下ろした。気丈なロンも思わず目を覆ったが、クンの手はスパポンの右手を掴んでいた。二人は抱き合うように床の上を転がり廻っていたが、「うっ」と言う呻き声と共に二人の体が止まり、数秒の間隔をおいて辺りを構わず血飛沫が上がった。

「クン」

 ロンの悲鳴にも似た叫びが中空を裂いた。

「警察を呼んでくれ」

 立ち上がったのはクンだった。揉み合っている間に手斧がスパポンの頸動脈を切ったらしい。

工具や材料の散乱する工事現場は、一面の血の海と化している。

「無事か。真逆こいつが」

 ソンポーンも駈け寄って来て信じられないという表情を見せている。

「仕事も出来たし、仲間との折り合いも良かったんだが」

「大丈夫だ。しかし大変な事をしてしまった」

「正当防衛さ。証人も多くいる。心配するには及ばない」

 ロンはクンに何かを話し変けようとするソンポーンを制して、肩で息をしているクンを抱きかかえて事務所へ向かった。

「警察が来るまでここで待っていてくれ」

クンは自分がしてしまった事を思い出しては顔から血の引いていくのを覚えていた。

 

 「出血多量で即死だ」

 「そうですか・・・・・」

「今日は遅いから泊まって貰うよ」

 3日程経って本格的な取り調べが始まる迄、クンにとって眠れない拘置所の日々が続いていた。

「ノイって知ってるね。彼女の許婚者だったらしい。動機は明らかだ。君に彼女を寝取られた恨みだよ」

「寝取るなんて、そんな」

「君はそう思っていないだろうが、スパポンに取って耐え難い苦痛だったに違いない」

「ノイはここに来ているのですか」

「ああ、仏様を取りに来てもう帰ったよ」

「誰か迎えに来ているみたいだから君も帰っていいよ」

 タイにしてはスピーディな取り調べにクンは驚いたが、その実はロンが裏から手を廻していた。

 客家の子弟は実業家だけでなく、軍や警察関係にも深く入り込んでいる。ロンはタイの客属総会のひとつに相談をし警察のトップヘとコネをつけていた。

 警察を出ると、三日程の事であったが太陽の陽射しが眩しく感じられる。

「ロン、来てくれたのか」

「大変だったな。取り調べに暴力や金品を恐喝られる事はなかったか」

「ああ。それはなかった」

「やはり客家の力は大きいよ。こんな所に客家のネットワークを使いたくはなかったんだが」

「そうだったのか。全てがスムーズ過ぎると思ったよ」

「まぁ、一杯飲みに行くか」

「そんな気分には成れないよ。知り合いの婚約者を殺してしまったんだ。取り敢えず会社へ行ってチャムロンさんに報告しなくては」

 クンはロンの用意した車には乗らず、タクシーを止めると一目散に立ち去った。

 

 

 「経緯はロンから聞いている。ショックだったろう。結果は無実なんだから気にするな」

「ありがとうございます」

 社内の他のスタッフの何か怯えている視線が気になったが、クンはそれには気が付いていない振りをした。

「今迄通りパートナーとして頑張ってくれ」

 クンは頷(うなづ)くより他になかった。

「早速なんだが、例のロスのロジャーから注文が入っている。サンプルには満足しているらしい」

「そうですか」

「そうか、君には無理かな。厭な事を思い出してしまうからな」

「大丈夫です。私の担当ですから最後までやります」

「無理しないでな、いつでも他のスタッフに代わってやってもいいから」

 クンはチャムロンの心遣いが嬉しかったが、自分の仕事は自分でやり遂げようと決心していた。

FAXによる注文書に目を通すと、いつもの自分に戻って来る気がして安堵した。そのオーダーシートには支払い方法が明記されていなかったが、ロジャーからの支払いは通常TTと呼ばれる電信送金(テレグラム・トランスファー)であった。

 ロスへ問い合わせのFAXを流し、翌日の返事を見てクンはG・B・Tを退職する原因になった状況を思い起こした。『新店のオープンで資金繰りがつかない。商品は早急にいる。一ヶ月の猶予を欲しい』FAXにはそう書かれていた。

「チャムロンさんどうしましょう」

「君も副社長なんだから、自分で判断してくれ」

『G・B・Tの時と同じだ』とクンは思ったが、チャムロンの言う通り自分で判断し、自分で結果に責任を取るべきだと思った。

 ロジャーとはバンコクで幾度となく会い、アメリカ国籍を保つとは言え、中国系タイ人であり親愛の情は深い。

『同じ華人同士だ裏切る事は無いだろう』 異国に住む華人同士の約束は絶対である。

 ムラ社会に住む人々が他を裏切った場合、その裏切り者は村八分を受け残りの二分、つまり火事と葬祭以外のつき合いを拒否される事を考えて頂ければ、この華人社会の約束の重大さが理解してもらえると思う。

クンも上記の如く判断した。

 更にこの判断の根拠になったのは高い利益率であった。今回は手数料だけの商売ではなく、ワールドエキスプレスの提示するFOB価格であり、十分な利益が含まれている。

 ー好事魔多しー現在のビジネス用語に置き換えればハイリスク、ハイリターンとなり、危険の無い所に高い利益は無いと言えるのであるが、ローリスクで着実に収益を積み重ねていく考え方は25歳のクンにはなかった。

 翌日からクンは精力的に集荷を始めた。

 勿論、山岳民族の住む地域に電話は無く、若いスタッフ数人を車で派遣し納期を忠実に守るよう説いて廻らせた。彼等の生業は農業であり、農閑期に自分達が使用する分だけの布しか織らない農家が大半である。近年、観光客用に多少は多めに織ってはいるが、輸出用のロットを満足させるにはほど遠い生産量であった。

「アメリカではエスニックブームらしいが、ブームに乗るほどの生産確保は無理なんだ。先進国の奴等は我々を怠け者扱いするが、工場で作る商品とは違う」

 納期が遅れていると説明するスタッフに、クンは愚痴にもとれる科白を吐いた。

「しかし約束した納期は守らなければならない。君達悪いが農家の連中の家を一軒々廻ってくれ」

 事情が有るとは雖も、ワールドエキスプレスは仕事の正確さで売っている、言い訳はしたくない。

 この頃からクンは憂鬱な気分になる事が多かった。チェンライとの仕事が長引くに連れ、例の事件を忘れる事が出来なくなっている。

 先進諸国の様に時間に追われ仕事をして、経済的にもゆとりが出来、物品が身の周りに増えていっても何か豊かさが実感できない。

「クン何か悩んでいるの」

 マスタード色のスーツに身を包み、胸元にはフリルをあしらった白いブラウスを巧みに着こなしたランは訝しげに尋ねた。

「未だあの事が尾を引いているの」

「それもある。いやそれが原因かもしれない。何か毎日々仕事に追われている自分が本来の自分ではないような気がしてね」

 ミニスカートから長く伸びた脚を組み替えるとランは続けた。

「私達の結婚の事も遠因になっているの」

「それはないさ。時が来れば君とは結婚する。一族の反対は無視するつもりだ。しかし、正当防衛とは言え、人を一人殺してしまったんだ。償いはしなくてはならないと最近思い始めてね」

「だって、あれはクンのせいじゃないわ。それに償いってどうするの、ノイとか云う女の子に何かしてあげるとでも言うの」

いかに男の浮気は自由気儘なこの時代のタイとはいえ、ランは嫉妬心を隠せなかった。

「そうじゃないんだ。自分自身の気持ちの問題なのさ。ランは仕事をしていて楽しいかい。欧米じゃ君の様な女の人をキャリァウーマンとか言うらしいが」

ランは自分の服装に目を遣ると軽く頷いた。

「私だってクタクタに疲れて部屋へ戻ると『一体何してるんだろう』と、思う事はあるわ。でも、それって当たり前じゃない。皆そうやって生きているのよ」

「君は強いよ。ロンに訊いてもそう言うだろう」

「クン、しっかりしてよ。以前のあなたの様に眼を輝かせて『世界へ翔くんだ』って言ってよ」

「疲れているんだ」

 二人の間に長い沈黙の時が流れ、カフェの窓外では廃車寸前のバイクがけたたましい騒音を撒き散らし走り去って行った。

 それを目で追っていたクンが口を開いた。

「俺、今の仕事が片付いたら仏門へ入ろうかと思っているんだ」

「仏門」

「そうさ、タイの男子なら一度は夢見る話さ」

 一族の中から一人を仏門へ入れる事に依って、その一族の他の構成員にも仏の加護があると云う思想は日本にもあった。但し、貧しさから抜け出すために一人では自活出来そうにない者を選んで寺へ預けるケースも多かった。俗に言う口減らしである。

 タイでは仏教に対する信仰心は日本のそれに比べて格段に厚く、殆どの男子が一生に一度は仏門に入ろうと思っているし、又実行に移す者も少なくない。

「あなたがそこ迄思っているのなら、私は止めないわ。修行はどれくらい掛かるの。いいえ、幾ら掛かってもいいのよ。私は待っているから」

「一年かも知れないし、10年かも知れない。自分の気持ちに素直に従う事が出来る迄には一生と云う時間が必要かも知れない」

「分かったわ」

 

 数週間を待ってクンは集荷された注文の品々をロスへ送り出すと仏門へと入った。

 

 

第六章 臥龍

 

 タイの仏教は良く知られているとおり『小乗仏教』である。

これに対してチベット経由で入った中国や朝鮮、日本等の仏教を『大乗仏教』と呼ぶ。

『乗』とは乗り物であり、サンスクリット語ではヤーナと言う。

 大乗仏教では他者を救済する事が目的であるが、小乗仏教は自己を幸せにする事が目的であり、よって前者の乗り物は多くの人々を彼岸へ運ぶため大きくなくてはならないが、後者のそれは一人が乗れればよいのである。

『小乗』とは『大乗』の仏教徒が彼等を蔑(さげす)んで作った呼称であり、小乗の人々は自分達の事を『小乗仏教』とは呼ばない。又、小乗仏教の方が釈迦本来の教えに近い古い仏教の形を残している。釈迦の影響が色濃く残る時代の仏教徒達は、いくら修行を積んで悟りを開いても精々己一人を救済するのが精一杯であり、釈迦の様に悟りを開いて多くの人々を救済する事は不可能だと考えたのである。当然の帰結として小乗仏教の修行の方が厳しくならざるを得ない。

 これに対して大乗仏教は在家のまま布施や精進する事によって悟りを開かせる、一般大衆向けの仏教であると言える。

 この自己に厳しい釈迦の教えに忠実な小乗仏教は、現在タイだけではなくビルマやセイロンに流布され、インドネシアのボリブドールにある仏教遺跡は有名である。

 

 クンは釈迦の弟子になった。

 修行僧の朝は読経から始まる。

 仏教は釈迦の生存中よりパーリー語で説かれていた。やがてセイロンやビルマを経てタイへ伝わった仏教もパーリー語であったが、それは文字を持たない言語であった為タイの文字即ちシャム文字によって大蔵経と呼ばれる聖典が編まれる事になる。

 朝の読経を終えると彼等は托鉢に出る。黄色の僧衣を纏った一行がバンコク市内を巡っては米飯やその他の食物を求めるのである。

 信心深いタイの国民は朝早くから各自の家の前に食物を用意し、これらの僧の一行を待つ。

 僧達の身の回りの必需品は全てこの信者による喜捨によって賄われている。筆者もタイの友人の葬儀に友人代表として参列した経験があるが、その家族並の待遇であった為葬儀の中心に坐らせられ、僧による読経が終わると僧の前に正座をし、予めセットされた供物を手渡すのであるが、この詰め合わせの様なセットにはタオルや石鹸、歯ブラシ等の生活用品が揃えられてあり、透明なラップがなされまるでどこかのデパートの進物売場で売られている物と何ら変わりはなかった。

 やがて僧達へ食事が運ばれると、私達親族代表者が僧の皿へと米飯そしておかずやスープを盛りつける役割を果たす。僧達は鷹揚に胸元で手を合わせ、軽く点頭し供物を受け取るのである。

 私はこの親友の葬列の中で悲しみを持ちつつも、僧達のタイに於ける地位の高さに驚くばかりであった。

 

 小乗仏教では悟りを開いた者を『羅漢』と呼ぶ。クンが羅漢になって俗界へ戻って来たのは1984年8月の事で、既に3年が経っていた。

 「還俗したわね」

 暁蘭26歳が迎えに来ていた。

「痩せたみたいね。御苦労様でした」

「待っていてくれたのか」

「約束だもの」

「ランは変わっていないね」

「もう小母さんよ」

「すまない」

「そういう意味じゃないわ。それより何を食べてもいいんでしょ、今日からは」

「ああ、特に制限はないが、粗食に慣れてしまったから、食べられるかな」

 ランは思い出のチャオプラヤ河畔の水上レストランへ誘った。

「ここで君と会ったんだね」

 クンは肉の類は受け付けられないらしく、ピーナッツの揚げたものをゆっくり口へ運んでいた。

「あなたが居ない間に俗世界は色んな事があったわ」

「だろうね。俺も28歳になった。一日も早く会社へ戻ってペースを取り戻さなくては」

「その会社なんだけど」

「どうかしたの」

「潰れちゃったの」

「なんだって、どうしたんだ」

「ロサンゼルスの会社からお金が入らないってチャムロンさんこぼしていたわ」

 クンは極楽浄土から一気に地獄へ堕ちた気がした。

 

 クンは納期にはやや遅れたが全量ロスへ向けて船積みをした。

 勿論山岳民族の農家一軒々にも現金を支払ってやり、仕事の終了した事をチャムロンへ伝え1ヶ月後にロジャーから送金がある旨を報告し仏門へ入ったのである。

しかし2ヶ月が過ぎても3ヶ月が過ぎても送金はない。無論催促の電話やFAXは入れてはいたが『もう少し待ってくれ』の一点張りであった。

 出家中のクンに事情を話す訳にもいかず、業を煮やしたチャムロンは渡米する決心をしたが、ロジャーからのFAXで『我が社は倒産した。誠に済まないが私個人が払う義務はない』と、言われ、為す術を失った。以後全ての資金繰りが悪循環に陥り、やがて不渡りの手形を切った。

「チャムロンさんはどうしているんだ」

「行方不明よ。奥さんも子供も連れていったらしいわ」

 クンはどうしていいか分からなくなった。

「あなた一人の食い扶持ぐらい当分私が面倒見るから心配しなくていいのよ」

「そうじゃないんだ」

 クンは手短に事情を説明した。

「そうだったの。でもあなたの責任とばかりは言えないわ。あなたが休職してから海外の注文が激減したって他のスタッフから聞いたことがあるし、クンさんの信用力がこんなに会社を支えていたのかとも聞いたわ」

「けどさ」

「それにパートナーのあなたがいなくなって箍(たが)が外れたのかしらね、彼毎晩パッポンで飲んでは新しい女に子を連れ廻していたって」

「パッポンって、ラン真逆又パッポンで働いているのじゃないだろうね」

「ちょっと用があって前のカラオケのオーナーの所へ言った説き聞いたのよ」

「会った時から、君の服装が気になってたんだ。以前のようなオフィスワーカーとは違って何かケバケバしさを感じるのだが」

「そうかしら」

 ランも狼狽気味にビールを口へ運んだ。

 「前のオーナーに用事って何だったんだ」

 クンはチャムロンの件も気掛かりではあったが、それ以上に彼女の様子が気になった。

その上3年ぶりに飲むビールは酔いを早めている。

 詰問調の大きな声は船上の酔客をも驚かせた。

「クン、静かに話してよ。どうせ分かる事だから言うわ。私もっとお金が欲しくてオーナーに相談に行ったのよ」

「売春させてくれってか」

「馬鹿な事は言わないで。私にはあなたが居るのよ。何かいい商売はないかという相談よ」

 クンは安堵したかのように辺りを見回した。

 先程まで此方を注目していた酔客達も素知らぬ風で談笑している。

「怒らないでね。そのオーナーの経営するマッサージハウスの雇われママさんを任されたのよ」

「ママさん」

「そうよ。歩合制なの、だからその建物の中に一部屋貰って女の子達の寝起きまで監視しているわけよ」

「あのマンションは」

「人に貸してるわ。あなたが帰ってきたら一緒に住もうと思っていたんだけど、チャムロンさんの件があったでしょ。

帰ってくるあなたの事を考えると、お金を貯めておかなくてはと思ったのよ。本当よ」

 拝むような仕草で懇願するランを見ると、クンも沈黙せざるを得なかった。

 

 ランが経営を任されているマッサージハウスは『ハッピーバンコク』といい東方のスクムビット通りから一本裏へ入った所に位置していた。

 入り口を入ると壁際にソファが並べられ、そのソファの正面にはガラスで仕切られた大きな部屋がある。照明を落とした店内とは対称的にその部屋の中は皓々と灯りが点っていた。

 ソファに腰を下ろした客達は眼前のガラスの部屋の中で媚びを売っている少女達の品定めをして、やがて気に入った女の子見つけるとマネージャーを呼び、彼女の胸元に付いている番号札を読み上げる。客は女の子に連れられて別室でマッサージを受けるか、又幾許かのチップをマネージャーに握らせて外へ連れ出して行く。

 ハッピーバンコクは外国人専用であって、タイ人は入れない。けれども外国人と言ってもインドやアラブ、アフリカ系は入れないようにしている。

 ランの説明によると、彼等は飲酒によるトラブルや事後の金銭上のトラブルが絶えず、ほとんどの同業者が同様な取り決めをしているらしい。従って勢い彼等の客は黄色系のアジア人となるが、その中でも上客中の上客は日本人、とりわけ若者であると言う。

「日本の男の子って大人しくて金払いがいいのよね。言葉が出来ないせいもあるけど、その上日本に帰ってからも女の子にお金や品物を送ってくる子もいるわ」

 クンは毎日する事もなく最上階の大部屋で漫然と寝転んでいた。

 周りでは仕事前の女の子達が水を浴びたり、化粧をしたり、遅い昼食を摂っている。

『羅漢からヒモに成った気分だだな』

「パパ退いてよ。邪魔なんだから」

 時折上半身裸のままの女の子がクンの頭上を跨いで行く。その上時折、彼女達から屈辱的な声が掛かる事さえある。

「パパ、閑そうね。タバコを買って来てくれないかな」とか、

「今日ママさん居ないから、パパの相手をしてあげようか。偶(たま)にわさ、若いピチピチした体もいいんじゃない」

 彼女達のからかいには慣れてはいるが、毎日のように浴びせかけられる下世話な話題には辟易していた。

「パパにはお金が無いから君とは遊べないよ」

「パパならタダ乗りでもいいわ。私ってタイ人には処女なのよ。お小遣いなら私があげるわよ」

「そうか、君の方がパパより金持ちなんだな」

「無いわよ。パパも知っているでしょ。お客さんの払った金額の半分は案内してきたタクシーの運ちゃんや、ガイドの連中が持っていっちゃうでしょ。

残りの半分の3−5割はお店の取り分で、私達はお客さんからのチップだけが頼りなのよ」

「酷(ひど)いな、パパも知らなかった」

『ランはその内どれくらいをピンハネしているのだろう。そのピンハネした金で俺は喰わして貰っている』

 クンは自分が情けなく、益々滅入っていくのがわかる。

「嫌な客の言う事を聞いてチップを貰っても、掃除の小母ちゃんや警備の男の子にも少しは分けてあげないと意地悪されるし、本当に手元に残るのは僅かなモンよ。その僅かなお金の殆どを故郷の家へ送金してるのよ。毎日ゴロゴロしているパパには解らない世界なのよ」

『俺だって好きでゴロゴロしているわけじゃない』と、怒鳴ってやりたかったが、自分が悪いのは自明の理であるし、日頃ランからは『女の子達は商品よ、決して手を出したり、意味なく怒ったりしちゃ駄目よ。彼女達の評判が悪くなったら女衒(ぜげん)の連中もウチには女の子を連れて来なくなっちゃうから』と、言われている。クンは屈辱感を笑いで糊塗せざるを得なかった。

「君達も苦労してるんだ。パパも見習わなければいけないね」

 大概の女の子達はそこまで遜(へりくだ)るクンを見て、哀れみと蔑(さげす)みの感情を入り交えて引き下がっていく。

 彼女達が去っていくとクンはどっと疲れを覚え、更に気だるさが体中を支配していく容子がわかり、所在なげに今一度寝転んだ。

「 クンさん、何をしてるの。こんなとこで」

 その流暢な英語に振り返ると、果たしてそこに見覚えのある日本人男性が居た。

「ワタル、ミスターエモトじゃ・・・」

 クンは恐る恐る訊いた。

「そうだよ。ワタルだよ。何年振りかな。あのレストラン以来だから6−7年は経つかな」

 老大に紹介された江本渡海であった。

「こちらはオン、昨夜ここで知り合ってね。彼女が着替えを取りに行くというので一緒に来たわけですよ」

 クンにも次第に記憶が甦ってきた。

「クンさんも好きだね。昼間からこんなとこでぶらぶらして、仕事はいいの」

 クンは老大以来の経緯を簡単に説明し、何故自分がここにいるのかを話した。

「そうだったんですか。凄い人生を送ってますね。でも久しぶりだ。オン、ビールでも貰ってきてくれ」

 オンと呼ばれた女の子はクンも見覚えがなかった、何しろここだけで150名の女の子が働いている。

「ワタル、いいよ。私が貰って来るから」

 クンは近くの子を呼んだ。

「パパお金もってんの」

「済まんが貸してくれないか、ママさんが来たら返すから」

 ママさんと聞いてその子は素早く階下へ走っていった。

「タイ語でも『ママさん』って言うの」

「ママさんはこういう業界の共通語みたいだよ。白人でも『ママさん』って英語で言うしね」

「フィリピンでもそう言うのだから、日本人が教えたんだろうな」

 渡海は複雑な心境であった。

「訊きたい事があるんだけど。下のガラスの部屋なんだけど、内側はマジックミラーだから女の子側からは客が見えないってマネージャーが言ってたけど、本当かい。だって日本人らしい客が入ってくると女の子の視線が一斉に動くよ。他の外人客だとそうでもないんだけど」

「ワタルは鋭いね。全部がマジックミラーだと高くつく。だから一部からは客が見えているんだ」

「それから、このオンが言うには、俺が昨夜払った金の半分をここへ案内してきた奴が取るって、それも本当かい」

「ああ、私も今それを聞いたところさ。ここに長くいるが、恥ずかしい事に女の子の稼ぎのシステムなんて全く知らなかった。その残りの半分もこのハウスのオーナーがほとんど取って、その上彼女達の取り分が支払われるのは1ヶ月も先の事なんだ。だから勢い彼女達は客からチップを多く貰おうと客の強要する嫌なサービスまで無理してやるのさ」

「エゲツないシステムだな」

「そのエゲツないシステムの掠(かす)りで私は生活しているんだから、全く嫌になっちゃうよ」

 クンは改めて自嘲的な笑いを浮かべた。

「あっ、そうか。クンさんご免な」

「いいよ。ワタルの想像通りの生活さ」

「そうだ、大変なことを忘れていた。香港の老大(ラオター)は覚えているだろう。彼が今入院中でクンさんに会いたがっている」

「老大、勿論良く覚えているさ。何度も取引であっているが、仏門には入っている間は御無沙汰していた」

 「手術はしたが、医者の話だと2,3ヶ月の寿命らしい」

 「病名は」

「英語で言われたからよくは解らないが、漢字を見ると内臓疾患だと思う。何度もチャムロンへFAXを入れたが返事もないし、手紙も帰ってくるし、老大はクンさんの事を心配しているよ」

「そう言うことなら、ランから金を借りてでも香港へ行く」

「私も明後日、日本へ帰る予定だから一緒に言ってもいいよ」

「助かるよ、是非そうしてくれないか」

 2日後クンは江本と香港行きのキャセイ航空に乗った。

 出発の朝、ランから幾許(いくばく)かのドル紙幣を渡されクンは一時拒んだが、

「あなたが、外国で恥を掻かない程度のお金は持っていって頂戴。将来成功したら返して貰うから」

 彼女の心情を思うと、無碍(むげ)に断るわけにもいかず受け取った。

 

 香港の空港は相変わらず混んでいて、タクシーを待つ乗客の列はいつ終わると無く続いている。数分間隔で、香港名物の頭上すれすれを飛行するジャンボ機を見ていると老大の病状が気になってしかたがない。

 九龍半島側のホテルへ投宿すると、スターフェリーに乗り香港島側の病院へと向かった。

「ミスター郭。御無沙汰しております」

「クンさんか。よく来てくれたね」

「思ったよりお元気そうで何よりです」

「君も元気そうだね。チャムロン氏とのビジネスは巧くいっているのかね。彼には連絡が取れずに心配しておったんじゃが」

 クンは江本に話したとおりこの数年の経緯について手短に話した。

「そうじゃったか。チャムロン氏共々大変だったね。それで君はこれからどうするつもりなんじゃ」

「色々考えてはいるのですが、私の犯した大罪のことを思い出すと、何もやる気が起きては来ないのです。経済的にはどうにかなっているので、このままズルズルといってしまいそうで自分でも怖いのです」

 その言葉を聞くや、老大の表情が険しくなったのがクンにも解った。

「君は確か客家だったな」

「はい、そうですが」

「実は私も客家なんじゃ」

 香港と澳門(マカオ)併せて百五十万人の客家がいるが、最近ではイギリスへと移住していく者も多く、老大もその事は嘆いていた。

「客家の血が騒がんのかね。客家は君も知っての通り選ばれた民族じゃ。客家の若者が売春宿の一部屋で毎日寝転んでいる状況は私は想像だにしたくない。老朽(おいぼれ)の私でさえこうしてベッドの中で闘っている。君のような若者が日々することなくブラブラしてるなんて恥ずかしくはないのか」

 老大こと郭の語気は次第に荒くなってきている。

「老大、落ち着いて下さい。クンさんも遊んでいるわけではなく、色々と将来の展望を練っている途中なんですから」

 江本も思わず郭の体に障ると思い口を出した。

「湖の淵で雲の湧くのを待っている臥龍(がりゅう)だと言うんじゃな」

「そうそう、そうなんですよ、クンさんは」

 臥龍と聞いてクンは自らを恥じた。

「そんな大層な者ではありませんが、考えてはおります」

若し、『それは何か』と尋ねられたら、彼には答える術は持っていなかった。 「クン、若い内は冒険を畏れるな。若いときの失敗は必ず取り返せる。君も色々と短い期間で体験したようじゃが、そんなことはこれからの長い人生双六のひとこまに過ぎん。それくらいの失敗を取り戻す時間は君の人生の中に無限に残って居る。

 繰り返すが、失った物を取り戻す時間は若い君にはある。例えもう一度失敗してもじゃ」

「解りました。この過去数ヶ月の自分が恥ずかしく思えてきました」

「そんなことは恥ずべき事ではない。湖の淵に臥(ふ)せっている龍が一々恥じていては折角の雲にも乗り切れ無いぞ。大事なことは、風を得て雲を呼び込み、それに乗ってからのことじゃ。客家の先輩として言わして貰うが、客家の血はそんな柔な物ではない。

 我々の大先輩や祖先が脈々として営んできた客家の誇りを君も受け継いで、次の世代へと渡してやってくれ」

「私は臥龍と言われるほどの人物ではありませんが、自分の本当にやりたいことが解らなくなっているのです。貿易を通して世界へ翔く事が本当に自分にとってしたい事なのか、又何かに夢中になっている時でも、それが本来自分が欲している事ではないのではないかと思うことが多々あります」

「儂も若い頃はよくそう考えた。仕事が巧くいっていない時や、好きな仕事のある部分に自分の不満なことが入っている時など、特に思ったモンじゃ」

「老大でもそうなんですか」

「しかし、人生を終えようとしている時、今一度そのことを考えてみると、やはり自分の一番したいことを人間はし続けてきたのだと言える気がする」

「じゃあ老大は自分の一生に満足し続けてきたと仰有(おっしゃ)るのですね」

「その時々には不満があったが、今、結果として最高の人生だったと確信している」

「それは老大に限らず、全ての人が人生の落日を迎え、同じ感慨を持つと思われますか、つまり先生が人生の成功者だからそう思われるのとは違いますか」

 クンは興奮の余り『先生』と呼んでいる自分には気が付いていなかった。

「私は殆ど全ての人が、人生の最後に自分のそれに満足感を持って、死に臨んでいると信じている」

「解りました。老大のお言葉は一生忘れません」

 江本の目にも光るものがあった。

「クンさん、老大もお疲れだろう。今日のところは一先ず失礼しよう」

「老大、色々と失礼な話題を持ち出しまして、お気に障られましたら申し訳ございません。私も頑張って生きていきます。先生もお体を大切にして下さい。立ち直った私の姿を見届けて戴ける日を楽しみにしております」

 老大は疲れたのであろう、クンの最後の言葉は眼を閉じて聞いていた。

 病室の窓外には、先程まで勢いよく燃えていた太陽が、今将に落ちようとしているのが見えた。

 

第七章 同床異夢

 

「老大にお会いする事はもう無いかもね」

 二人は交わす言葉も少なく香港の雑踏の中を歩いていた。

「辛いけど、私も頑張らなくては本当に老大に会えなくなりそうだ」

 陽も落ち、港のあちらこちらから蝦や蟹を焼く臭いがしてくる。

 料理人が手早く海鮮物を捌く側から、客席係の小母さんが客を引いている。

「さっき上がったばかりの蝦はどうだい。ちょっと食べていかないか」

「そうか、今日は俺達バンコクからの飛行機の中以外何も食べていなかったね」 二人はどちらから言うともなく、客引きの小母さんに案内されるがままに汚い椅子へ腰を下ろしていた。

「お兄さん達、香港人じゃないね。今日は上海蟹の太ったのが入っているから試してみてよ」

 二人はメニューの選定を小母さんに任せるとビールを急いで喉の奥へと流し込んだ。

「相変わらず香港人は逞しいね。見ている方迄元気が出てくるよ」

「彼等は一旗揚げるつもりで香港に居るのだし、クンさんみたいに仕事を哲学的には考える事もないんじゃないかな」

「哲学的ね・・・」

「難しく考えないで、単純に生活の為の金儲けと割り切っていいんじゃない」 「まぁね。しかし今は全くノーアイデアさ」

「そこで思いついたんだが、二人でワールドエキスプレスを再興しようよ」

「ワールドエキスプレス・・・」

「名前は変えた方がいい。老大の言う通りクンさんの本当にしたい事は貿易なんだってことさ」

「・・・・・」

「臥龍先生、何時までも湖の底に眠っていると、そのまま水苔が生えて終いには魚の餌になっちゃうぜ」

「けど具体的にはどうするんだ。三年のブランクは大きいよ」

 テーブルの上には、手足を藁で縛られたまま蒸された上海蟹が湯気を上げ並んでいる。

「小母ちゃん、ヤケに多く持って来たな。流石に香港人だ。実はフィリピンの縫製業者と納期の件でトラブって、現在はタイで細々と衣料品を作っているんだが」

 江本は蟹を捌き乍ら話を始めた。

「私が輸出をするわけじゃないので、手数料も少なく利益の大半は縫製業者と輸出業者に入ってしまう」

 クンの眼に光が戻って来たと見ると、江本は更に一段と強い調子で続けた。

「クンさんも知っての如く、タイ政府は輸出を奨励するために、戻し税を払っているじゃないか」

その事はクンもよく知っている。商品によってその率は違うが、輸出額の3%から10数%の報奨金(インセンティブ)が出る。

「我々はボーナスと呼んでいるよ」

「それなんだよ、会社を作るメリットは。例え原価で輸出しても、政府からのインセンティブが利益として出るじゃないか。クンさんの信用力を生かせば客も業者も戻ってくるし、私が日本から客を引っ張ってくるのも今まで通りさ」

「出来そうな話だな」

「クンさんが51%、私が49%のタイの法律に則った正規の会社を創ろう。お互い給料は同額だ。一年後の決算時に利益を51対49で分配してくれれば私の方はオーケーだ」

「やってみるか」

「やっと龍が雲に乗る気になったか、タマサーク大学の秀才が置屋の天井部屋で寝転んで居ちゃ駄目だよ」

 クンは目の前が開けていく気がして、大きくマールボロを吸った。

 だがしかし夢に浸っているほど今のクンは幼くはなかった。

「クンさんの問題は資本金の調達だろう。私が持っていれば貸すのだが、自分の分を集めるのに精一杯だしね。それより資本金額を幾らにしよう」

「株式会社にするなら百万バーツは欲しいね。FAXやら電話、コピー機と色々必要だしね」

「ワンミリオンか。そうだ社名をミリオネックスとしよう、ミリオンエキスプレスさ。毎年100万ドルを稼ぐ事を目標にする為にもさ」

「それはいいけど」

「金なんて何とかなるさ。俺も日本へ帰って出来るだけ早く送金するよ」

 クンはランにはこれ以上甘えられないのでロンに相談しようと思っていた。

 

 相変わらず濁ったチャオプラヤ河の水面を煩雑にボートが波繁吹(しぶき)を上げて滑っていく。上流から下流へ、下流から上流へとタイ経済の発展振りがこの波繁吹のひとつひとつに象徴されている。その河畔に一際目立つ真っ白なビルが、ロンの発送センターの完成した姿であった。

 クンは玄関前から最上階を見上げると、幼馴染みに投資とはいえ無心にいく自分が惨めに思えてきた。

『ロンにとっても悪い話ではない』

 自分に言い聞かせるように呟くと、小さく胸を張って受付へ向かった。

「社長は先程からお待ちしております」

『社長か、凄い出世だ』

 ロンは最上階の社長室で待っていた。

「少し太ったみたいだな」

「元気かい。ここに来るのは初めてだろう。まぁ窓から外でも見てくれ」

 河岸に作られた船着き場には大小様々なボートが接岸している。

「大きな奴が生産地からで、小さいのが各配送支部やレストランへ向かう配送船なんだ。このセンターで各配送先の一日の必要量毎に小分けして分配するのさ」 「ちょっと会わない内に凄いことになったモンだ。直営のレストランもオープンしたそうじゃないか」

「ああ、屋台の組織は別会社にして、今は飲茶レストランのチェーン化に全力を注いでいる。前にも話したが、食材は全て自前だから安くサービスが出来て大好評さ」

「雑誌にも取り上げられているらしいね。次は何をするつもりなんだ。ロンのことだ、当然考えているんだろう」

「ちょっとしたアイデアがあって、名物レストランみたいな物を作りたいんだ。ショーなんか見ながら食事をする、レストランのディズニーランド版てところかな。これから益々食材の調達が厳しくなってくる。そこで以前にも話した、客家のネットワークを利用した食材輸入の会社を創ろうとも思っているんだ」

 クンは自分の話題の出番が来たと感じた。

「それなんだ、今日の話は」

 クンは、ロンから切り出してくれたお陰で堂々と新会社の話が出来ると思い、老大の事や江本との経緯について丁寧に話し始めた。

「渡りに船というか、クンの信用と実力はよく知っているが、そのワタルとか云う日本人は少し引っ掛かる物があるな」

 ロンの事業に対する天性の勘が働いたように見えた。

「彼とは長いつき合いだ。老大も信用しているから問題はない」

「又マイペンライか、まぁ、クンが言うのなら信用してもいいか。それにお前と俺で51%のシェアを持つんだから」

「ワタルにも会って貰うよ」

「シェアは任すけど、クンの分は俺が貸すと云うことだな」

「済まない」

「いいよ。お前の再出発だ返さなくてもいいさ」

「それは駄目だ。必ず返す」

「それも任せるよ」

「あのソンポーンにも話してみるか」

 クンはホッとしたのか、嘗て事件が起きた工事現場で再会した古い友人を思い出した。

「あいつは駄目だ」

「ロンの片腕じゃないのか」

「だった。と、言うのが正しいな。二人で屋台を引いているときは頼りになったんだが」

「どう言うことだ」

「それはいい。何れ話す時もあるだろう。それより、来年はお互い30歳になる。頑張って俺もお前も人生の基盤を作らなくては」

 ロンの何か奥歯に物の挟まった言い方に不自然さを感じたが、目の当たりに友の成功した姿を見せつけられ、胸の底から力が湧いてくる感じを覚え、ソンポーンの件は深く詮索せずに、ロンの会社を辞した。

 ランはクンの眼に輝きが戻った事を喜び、自分も10%程度出資をすると言い出した。

「ランにはこれ以上迷惑を掛けたくない」

「これは私の投資よ。クンにお金を上げるのじゃないわ。ロンが取引先なら堅い投資といえるわ」

「なんだ、俺に投資をするんじゃなくて、ロンにするわけか」

 華僑の投資方法には身内でリスクを分配する方法が良く見受けられる。

 新しい事業を起こす時、多くの友人や親類が互いに出資し合い、社長本人のリスクを出来るだけ少なくする。出資者の誰かが別の新しい事業に手を出すと、今度は前回の事業者も幾分かの出資をする。 従って一人で多くの事業に出資しながらも、自分の事業にも多数の出資者が存在し、互いにリスクと利益を分配し合う。

 例えて言うと、ルーレットの数多くの数字に賭けるようなもので、ひとつが外れても何処かでその損失を埋め、結果として華僑のグループの資本力は蓄えられていく。

 凡そ一国の経済を発展させる為には、上述の如く或る一定の個人やグループに如何なる形にせよ、資金が集められることが大前提である。

 大きな新事業には大きな資金が要る。株式市場や金融市場が発達していない後進国では、広く国民全般が平均的に資金を持っていては大きな事業は始められない。大きな事業には大きな雇用が生まれ、その雇用者は所得を消費し、その消費を吸い込むために更なる事業が生まれる。この新事業と新雇用が一国の経済を発展させ続ける車の両輪なのである。

 トウショウヘイが唱えた『豊かになれる物から先に豊かになるがよい』は将に資本主義経済の本質を言い表している。現在の中国でも沿海部の富裕層が消費を爆発させ、それを狙って海外から資本が流入し更に経済が発展するという、資本主義経済のお手本のような発展が続いているのである。

 翻ってキューバでは、一部経済を開放したところニューリッチと言われる金持ち層が出現しだしたが、それを知った政府の対応は『怪しからん、彼等から税金を取れ』で、あった。キューバの場当たり的なこの政策は、折角一部に資本が貯まり始め、経済発展の兆しが見え始めた芽を摘むに等しいと言わざるを得ない。

 結果、『野球選手を日本に貸すから援助を呉れ』と、言う経済政策とは凡そかけ離れた外交をせざるを得なくなるのであり、一国の繁栄は、信長の『楽市楽座』の制度を持ち出すまでもなく、その指導者の政策と国家体制に依ることが多い。

 中国人は古代より資本主義の権化と言われ、本能的に金儲けの術を知っている民族なのである。

「私だけじゃなく、母の名義でも少し出資するわ」

 クンは又ランに教えられた気がした。これは自分個人への貸し金ではなく、ミリオネックスへの投資なんだと、割り切って他の友人、知人へも積極的にシェアを分配することにした。

 大学時代の友人嘉誠(カーシン)も新会社へ投資した一人であった。

 クンの信用力に積極性が加わって資本は瞬く間に集まり、早速江本に『準備オーケー』と、FAXを流した。

 一週間が過ぎたが江本からの返事はなく、心配になったクンは電話を入れてみた。

「クンさんか、済まない。なかなか思うように金が集まらなくて、しかし流石に華人のネットワークは凄いね。あっと言う間に金が集まっちゃうのだから」

 華人ネットワークではなく、クンと江本の信用力の差が出ているとは彼は考えていない。

「で、どうですか。可能性の方は」

「若しクンさんが良ければ、私のシェアを減らしたいと思うんだけど。今現在手元にあるのは20万バーツくらいなんだ。後の29万バーツを其方側で引き受けて貰えるとありがたいな。当然利益の分配も80対20になることは解っている」

「オーケー、マイペンライ。取り敢えず20万バーツを送金してくれ。そして出来るだけ早くバンコクへ来てくれないかな」

 珍しくクンが主導権を握っているのをクン自身も気が付いていなかった。

「クンさんに任すから、準備を進めてくれないか。私もお客を連れていくことからスタートしたいので」

 事務所はシンの父親が使っていないビルを丸ごと一棟貸してくれることになった。勿論彼も、残りの29万バーツの一部を出資する権利を持つことを条件としてであった。

 六階建てのビルの1階をショールームとして、2,3,4階はオフィスと荷捌き場にあて、クンは五階の一室を自分の住居用として使うことにした。

 クンのビジネスの基本である『職住接近』を実行したのである。

 事務机や通信機器が入ると会社らしくなり、貿易商としての自覚が次第に増してくる。同時にスタッフも募集しなくてはならず、クンは多忙であった。

 金銭を扱う経理は出資者の親類筋に当たる女子を入れ、営業としては英語力を買って短大卒のジュディを入社させた。その他作業室のマネージャーやら運転手を入れると総勢7名のオープニングスタッフとなった。

 もう少しこじんまりとしたかったが、ロンの仕事だけでも相当の人数が要ることを考えると適当な人員とも思えた。

 クンは全ての準備が整うと、嘗(かつ)ての顧客へ会社設立の案内状と業務内容の説明を送った。無論その中に直樹が入っていたのは言うまでもなく、彼からは直ぐにでも訪タイする趣旨の返事が来てクンを喜ばせた。

 やがてバンコクへ着いた江本と会社設立の登記をし、銀行の口座もミリオネックスで開いた。

「ミリオンとは凄い名前ですな。精々儲けて下さいよ。ウチもクンさんなら積極的に融資もするし、L/Cも引き受けますよ」

 銀行家も心底彼の復活を喜んでくれているらしく上機嫌であった。

「ワタルに会って貰いたい日本人がいる」

 クンは銀行からの帰路こう切り出した。

「今日の夕方のフライトで東京から来るんだが名前はナオキという。

 彼は私の古い友人でもあり重要な顧客でもあるんだ。元ヒッピーらしく世界中を廻っているため、その体験に基づく知識はワタルのビジネスにも役に立つと思うんだが」

「面白そうだな」

「それともう一人、新会社の出資者で私の幼な馴染みでもあり、これ又有望な大実業家でもある」

「その人にも興味があるな」

「ナオキを空港でピックアップして、ロンのレストランへ行くことになっているんだが」

「私にとっても重要なお客様になる方々だ。クンさんに従うよ」

 バンコク着のJL717便は一五時半に着く、二人は空港へと急いだ。

 江本は車中、内心『そんなに重要な人物2人を紹介するとは、クンも俺を最も近いパートナーと考えているらしい』と、思っていたが、反面クンは『ワタルの人物を2人に見て貰い評価の程を聞いてみたい』と、思っていた。

 クンは出資の条件変更の件といい、フィリピンでのトラブルといい、今一つ江本のビジネスマンとしての生き方に釈然としないところを感じていた。このままの心境では、目的は同じだが将来の会社の方針に差異が生じる、所謂(いわゆる)『同床異夢』に成りかねない。が、しかし既にこの車中で同床異夢は始まっていた事をこの二人は知らなかった。

 

 

第八章 蟻の一穴

 

 三人が招待されたロンのレストランはシャム広場の一角にあった。

 この広場はバンコクの中心に有り、周りには有名な日系のデパートも店を構え又、若者文化の発信地であるブティックや飲食店が軒を連ねていて、24時間、最先端を自負する若者で賑わっている。東西各一カ所ずつに車の出入り口が有り、広場内の路上が有料駐車場というユニークな構造になっている。

 多くの老舗レストランがこの地域を占めており新規物件は少なく、有ったとしてもかなり高額な条件で取り引きされている。ここにロンが進出したこと自体、彼の発展振りがよく分かる。

「ロンさんって大した人なんだな」

 江本と直樹はどちらともなく呟いた。

 既に二人は空港からの車中で自己紹介を済ませ、クンの「私に気を使わないで、二人で日本語で話してよ」の言葉で十分すぎるくらい話し合っていたみたいであったが、クンには二人が打ち解け合ったとは思えなかった。

「社長は今参ります」

 よく訓練されている風のマネージャーであった。

「サービスもいいみたいだね」

 直樹は英語で言うと、江本もそれに続けて英語で話し出した。

「これを見ただけでも彼のビジネスマンとしての力量が計れるね」

「メニューを見ても、これだけの高級レストランとは思えない値段の安さだ」

「それが彼の成功の秘訣らしいよ」

 二人の日本人が友人を誉めてくれる。クンも自分の事の様に鼻高々であった。

「お待たせしました。お呼びしておいて皆様をお待たせした失礼をお許し下さい」

 江本と直樹は息を呑んだ。

『クンさんの同級生と言うから我々寄り年下の筈なのに、この風格は何処から来るんだ。その上謙虚で偉ぶったところがない』

「クン、皆さんに注文はしてくれたのか」

「未だだよ。お前の方が注文が上手だからな」

 ロンはマネージャーを呼ぶと、いつものようにてきぱきと注文をし全員のグラスへビールを注がせた。

 余談であるが、タイではビールなどを注いだり受ける場合には片手にもう一方の手を添えるのが礼儀である。日本も嘗(かつ)てそうであったし、隣国韓国では今現在も同じ仕草をするが、これは昔着物の袖が邪魔をしないよう気を付ける仕草から来ているが、これも中華圏の共通文化のひとつであろう。

 更に、タイと韓国の数の数え方は非常に似通っているが、中国で発生した文明が周辺へと押し出されていった事の例は右の二つ以外にも無数に発見される。

 そして中国で発生した文明に限らず、 西方から伝わった文明も中華と言う篩(ふるい)に掛けられ、そのエキスが周辺へと伝わって行った。

 その華文明の中心の出身だというプライドを持った男が座っている。

「お話はクンさんから伺っております」

 江本の流暢な英語も語尾に震えが感じられる。

「ロン、お前貫禄付いちゃったな」

「ちょっと太ったからな。でも日本や欧米先進国と違って、我々後進国では太った男性の方が持てるのですよ」

『笑うとやはり若さが出るな』

 直樹はロンの本質を見た気がした。

「ワタル、大人しいな。今日はミリオネックスの大株主と最高幹部と最大顧客の親睦会なんだよ」

グラスを重ねるに従ってクンは饒舌になってゆく。

 江本はグラスを一気に飲み干すと、決心したようにロンに向かって訊いた。

「ロンさんはミリオネックスの役員に入るのですか」

「私は入りません。クンの仕事の能力は知っているし、経営のことで古くからの友人と言い争いをしたくないですし」

「貿易は解るが、経営者としては私は余り自信がない。ロンにはこれからも色々助けて貰うことになると思うよ」

「私に解ることなら助言は出来ると思うが、経営者は飽くまでクンとこちらのワタルさんだ」

 江本は内心ホッとすると、気を取り直したのか新しいビールをグラスへ注いだ。 『こんなやり手の奴に役員に成られては堪らない。新会社は俺とクンのモノだ。クンだけなら俺が後ろで糸を引くことは可能だ』

これが江本の本心であった。

「江本さん、何だか元気が出てきたみたいですね」

 直樹は何かを感じ取ったみたいで皮肉めいたジャブを出した。

「いやぁ、ビールが廻ってきたみたいでね」

 江本はその言葉とは裏腹に眼は笑っていなかった。

 ロンは場の雰囲気を察したのか、クンに向かって一際大きな声で言った。

「新会社の施政方針演説でもしろよ。お前が社長なんだから」

 ロンも『クンが社長だ』と、念を押したのであろう。

「そうだな、何だか照れ臭いが、私が社長でワタルが副社長。業務の柱はこのナオさんを筆頭とする海外バイヤーの輸出代行とする。又、ロンの食材調達先の開拓及びその輸入代行、こちらの方が将来性が大きいかな」

 クンはロンの方を向いて笑った。

「スタッフは揃ったのか」

「経理と営業と発送のマネージャーは既に訓練を開始している。後は日本語の出来る営業が一人欲しいな。ワタルが日本からアパレル関係のお客様を連れてくる手筈になっているからね」

 今度は江本の方を向いて笑った。

「しかし、日本人や日本語の出来るスタッフの給料は高いぞ」

「そうらしいが、日本人の多くはナオさんやワタルのように英語は巧くない。俺の経験から言うと、外国人とのトラブルの殆どが言葉が通じない誤解から始まっている」

 クンはここだけタイ語で話した。

「クンさん、それは俺に任せてよ。心当たりがあるから」

 ロンは一瞬嫌な予感がしたが表情には出さず黙っていた。

「それは有り難い。俺には、本当に今の7名のスタッフでやっていけるか少し不安が有るんだ」

「初めから多くの人員を抱え込まない方がいい。小回りが利かなくなるぞ。

儲かってから増員しても遅くない。又人選には呉々も注意しろよ」

「不正行為だろう。それは前の会社でもよく見たから解っている。日本人と違ってタイ人スタッフには会社に対する忠誠心は少ないからね」

「ウチでも仕事を覚えると、給与に釣られて直ぐ他社へ移っていくケースが後を絶たないよ。特に盆明けが多いんだ。故郷へ帰って友人らと他社の情報交換するのが原因らしい」

「想像はしていたけれど、タイの経営者も大変なんだ」

 やや赤味を帯びた顔の直樹が、親指と中指の二本で口髭を左右に分けながら呟いた。

「油断をするとネコババやらバックマージンで会社は食い物にされてしまう」 「儲かっているときは経営者もある程度は黙認しているのだけど」

「そのネコババ分だけ給与を少な目にしてあると言うことか」

 右の会話に出てくる事柄は日本を除くアジア全域の共通の問題であり、華人経営者が会社の重要ポストを家族で構成し、他人を入れないのもこの事由による。 アジア地域で唯一日本のみが世界に冠たる大会社を作り得たのは、幕藩体制が長く続き『お家に対する忠誠心』から発生した、組織の中での腐敗が極めて少ないという歴史的土壌から説明が出来る。

「クンさん、早速なんだけど明日東京からお客が来るんだ」

「最初のお客様だ、私も空港まで迎えに行こう」

「じゃあ明日と言うことにして、私はそろそろお暇(いとま)しよう」

「私も失礼しよう。私の買付は明後日という事にして」

 クンは江本と直樹を玄関まで送るとロンの元へ戻り、 ホッとしたようにマールボロに火を点けると、やや呂律の廻らなくなった口で切りだした。

「どうだった、感想は」

「ナオキは出資者じゃないから別段どうと言うことはないが、鋭そうな奴だ。味方にすればクンのブレーンになるが、敵に回すと手強い相手だな」

「俺もそう思っている」

「問題はワタルだ。彼が副社長になると将来に禍根を残す可能性がある」

「どう言うことだ」

「よく判らないが、ミリオネックスを舞台にして何かを企んでいる気配がするんだ」

「それは何だ」

「判らない。俺の商売人としての勘としか言いようがない。何にせよ、彼が何かを提案してきたら一歩下がってよく考えた方がいい。今はそれしか言えない」 「そうか・・・」

クンは不安を残しつつ帰路に就いた。

 

 翌日約束の時間を一時間ほど過ぎた頃江本はミリオネックスへ現れた。

「遅れて済まない。彼女を迎えにホテルまで行ってたので」

 そこには清楚な雰囲気の漂う若い女性が恥ずかしそうに立っていた。

 「こちらはミヤコ。お金持ちのお嬢さんさ」

 江本が紹介するにはミヤコこと貴家洛子は由緒正しい家柄の娘であり、英語の勉強のためシンガポールへ留学し、そのまま現地企業に勤めていたらしい。

「この娘なら英語も問題ないし、シンガポールで揉まれているからビジネスも一人前だ」

 クンの見た目でもかなりの美人である。

 日本女性にしては背も高く色白で、長く伸びた脚線は蠱惑(こわく)的でもあり、何処か幼さの残る顔立ちからも育ちの良さが感じられる。

「シンガポールへは私も仕事でよく行きましたよ。綺麗な街ですね」

「厳しすぎるぐらい清潔にすることに気を払います。ガーデンシティを標榜していますから」

「私もタバコを棄てて罰金を払ったことがありますよ」

「まぁ、お気の毒に」

 品のある微笑みがクンを魅了した。

「バンコクはどちらかと言えば汚い街ですが、大丈夫ですか」

「でも天使が住んでいると聞いております」

「クルンテプを御存知ですか」

 クンは満足した。話し込んでみると英語力に実践力としてやや不満が残るが、頭の回転は速そうだと思えた。

「給料の・・・・・」

「彼女もタイの給料がシンガポールより安いことは知っている。それはいいんだが、条件としてこのビルの一室に住まわせてやってくれないかな」

「簡単なことさ。けれど夜はこのビルには私一人になってしまうんだが」

「クンさんなら信用できるし、又彼女にとっても下手なマンションに住むより安全だと思う」

「お願いします」

 か細くはあったが、凛とした声であった。

 クンは一瞬ロンの『一歩退って』ということばが頭を過ぎったが、この程度の提案なら問題はないと結論した。 否、彼女の美しさに圧倒されたという方が正しかった。

「早速これから来るお客を紹介して担当させよう。いいだろうクンさん」

 洛子(みやこ)は翌日早朝から荷物を運び込むと、早々と日本人バイヤーを迎えにホテルへ向かった。

「日本人はやることが早い。評判通りだ」

 クンは貴重な戦力を得て満足気味であった。

 日本人バイヤーの工場への案内は洛子と江本にそして営業のジュディを向かわせ、自分は直樹の買付を担当した。

「大丈夫かい、新しい女の子と江本さんで」

「工場での打ち合わせはアパレルの専門知識が要る。私が行くよりワタルの方が適切だ。それにジュディにアパレルの知識を教える好い機会にもなるし」

「そうだな、以前のようにタイの民芸品を輸出しているだけじゃ高が知れてるからな。アパレル業界を相手にすれば売上も伸びるし、そうなると専門知識も必要になると言うことだ」

 ミリオネックスの滑り出しは誰の目にも絶好調に見えた。

 江本の連れてくるアパレル関係者は大小様々であったが、日本国内の高いコストを避ける風潮に乗って一様に海外生産に積極的であり、1986年は忙しさの中で瞬時に過ぎた。

 明けて1987年、薫華(クン)は31歳になっている。

 この3月の決算は全株主が驚くほどの好決算で、全てがクンと江本の経営者としての手腕を認めた。初年度の売上は5000万バーツ、当時のレートで2億5000万円くらいとなった。1970年頃の1バーツは18円ぐらいであったが、タイバーツは1米ドル20バーツと米ドルにリンクされていたのが、後に1ドル24.5バーツと切り下げを行い、対円レートでは一方的に安くなり続け1995年現在では既に5円を切っている。

 このバーツを常に円貨に対して切り下げていく政策が日本企業のタイ進出を促し、現在のタイ経済発展の要因の一つになっているが、発展し続ける自国の通貨を切り下げることは、国際社会の容認と輸入品価格の高騰という二つの壁を乗り越えなければならない。しかしタイ経済は大まかに言えばこれを乗り切った。

 売上5000万バーツに対する報奨金は約400万バーツであり、輸出代行の手数料は650万バーツに達している。

 クンと江本の2万バーツの給与額を最高とする全従業員の給料の粗利に占める割合は僅かなものであり、その他の経費を差し引いても、株主への利益分配は彼等を十分に満足させた。

 ロンやランを始めとする株主の多くは利益の内部留保を勧めたが、一人江本だけが当初の約束通り全ての利益を分配することを強く主張した。

 ここにも現地に根を下ろしている華人ビジネスマンと、飽く迄利益を本国へ持って帰ろうとする浮き草の日本人ビジネスマンの違いが浮き彫りになってくる。 江本の主張は通り、彼は出資分のほぼ全額を一年で取り返すことになる。彼は対円で安くなる一方のバーツを内部留保するより、円貨で保有する方がよく、又ミリオネックスに対する考え方は所詮投資の対象であって、本業ではなかった。 従ってクンの会社への思い入れとは対称的に投資の回収を急ぐという考え方が支配的である。

『金は取り戻した。後は適当に客を連れてくれば毎月給料が入る』

 これが江本の偽らざる心境であった。

 が、しかしミリオネックスの業績は江本の想像を遥かに超えた驚異的な伸びを見せていた。

 クンの仕事の正確さと誠実さは海外バイヤーを安心させ、国内業者への信用も益々堅固になり、客が客を呼んでいた。

 そんな状況の中で江本のバンコクでの滞在日数は、毎回査証無しで滞在できる最長限度の90日に迫っていた。

 クンは増加する一方の日本人バイヤーを捌ききれず、その担当にもう一人スタッフを入れ洛子の部下とし、ジュディにも部下を2人付けヨーロッパ、アフリカ担当と南北アメリカ担当を命じた。

 経理も繁雑を極め、その不満が絶頂に達したのを見て経理課を設け、銀行員であるアキアットをヘッドハンティングして課長とした。そして各営業担当者には、顧客接待用に法人用クレジットカードを持たすことにして経理を助けた。

 やがて組織の末端が自己増殖を始め、トップであるクンには把握しきれない部分が出始めていたが、彼は人生の絶頂期を感じ、結婚のことが頭を過ぎりだしていた。 けれどもミリオネックスの繁忙振りは、彼がプライベートな時間を持つことを許すには余りにも凄まじいものがあった。

 この日もクンはナイジェリアのバイヤーを連れてパッポンを飲み歩いていた。イスラム圏のバイヤーは本国では厳しい戒律のため飲酒は儘にならず、海外へ出ると羽目を外して一気に飲酒へ走ることが多い。クンも飲酒は好きであったが、アラブ人接待は宗教上のタブーも多く気が滅入るものであった。彼はバイヤーを強(したた)かに酔わせ、いつもの手であったがランのマッサージハウスへ連れ込み、アラブ専用の女の子を宛てがうと帰宅を急いだ。

 時間は10時を少し廻った頃で、いつもよりは早めの帰宅であった。

 アルコールで朦朧とする眼でビルを見上げると、3階の作業室に薄明かりが点いている。

『今日も残業か皆に悪いな』

 クンは近くの屋台で夜食を買い求め、電気の点いている3階へと向かったが、いつもの様子とは違う雰囲気に気が付いて扉の前で足を止めると、中から何やら喘ぎ声にも似た声が洩れてくる。

「クンさんはこの時間には帰ってこないわ」

 洛子の声である。

「お前バンコクに来てから大胆になったのと違うか」

「江本さんのせいよ。日本にいる時は奥さんの手前あまり会えなかったのに、こちらへ来てもこんな所へ閉じこめて会えなくしちゃって」

「シンガポールにいるときは一ヶ月に一度は会いに行ったじゃないか。もう少し辛抱してくれ、ミリオネックスのお陰で俺も成功者になる可能性が出てきた」 「もう少しって一体いつまでなの、いつ奥さんと別れてくれるのよ。私も今年24歳になるのよ」

「十分過ぎるくらい若いさ。さぁ、その若い蕾(つぼみ)を俺のために開いてくれ」

 洛子の声は次第に聞き取れなくなり、呻き声へと変わっていった。

『ワタルもやるな』

 クンはあまりこの事件には気を留めずに自室へ戻った。

 翌日江本が社長室へ顔を出した。

「たまには会社へ来なくちゃね。客との工場とパッポンの往復にも飽きが来たしね」

『昨夜来たばかりじゃないか、いやあのままミヤコの部屋に泊まったのかな』クンは内心そう思ったが、素知らぬ態度で臨んだ。

「ちょっと来ない内に社長室が出来たらしいね。ウチも大きくなったモンだ」

 クンはその皮肉を意に介さず話しかけた。

「ワタルも元気そうだな。連日の日本人バイヤーの接待でもっと疲れていると思っていたんだが」

「日本人は2,3泊しかしないので目一杯遊んで行く、こちらに住んでいる俺達はたまったモンじゃない」

「私もそうさ、マァ会社は儲かっているのだし、お互い愚痴を言わずに頑張ろうよ」

 江本も接待用のカードで毎晩のようにパッポンを飲み歩いているらしかった。 日本人バイヤーの1回の取引額は3万から5万ドルくらいであり、仮に15%の手数料を貰うとすれば、一晩や二晩の飲み代は高が知れている。彼も酔ったバイヤー達をマッサージハウスへ案内し女の子を宛てがいホテルへ連れて行かすと、自分は一人馴染みのクラブへ直行することが屡々(しばしば)あった。

「接待だからと言ってもあまり金を掛けないで呉れよ。アキアットの報告によるとワタルの交際費が群を抜いて多いらしい」

「解っているよ。しかし日本人を安いところへ連れて行くわけにもいかないだろう。彼等の取引額が当社の70%を占めているのだから」

「ミヤコの分もワタルが使っていると思えばいいか」

 洛子の名前が出て江本は一瞬後退いだが、平静を装って続けた。

「そこでだ、クンさん。チャオプラヤ河の畔に小さい土地を買ってゲストハウスを建てるというのはどうだろう」

「ゲストハウス」

「そうさ、プール付きのね。客の接待はここでやる。ランのハウスから女の子を出張させれば彼女も潤うわけさ」

「成る程」

「客はそのままそこへ泊まればホテル代も浮くし、奴等には会社用に偽の領収書を切ってやれば更に喜ぶぜ」

「悪知恵は働くね」

クンもにやりと笑った。

「その客が他社へ流れることも阻止できる。どうだ、一挙三得にも四得にもなる話だ」

 バイヤーがバンコク滞在中に接触できるのはミリオネックスだけというのは悪くないアイディアに思えた。

「アイディアはいいが、一応株主のロンにも相談してみないと」

「ロンか。社長と副社長が二人賛成でも株主には勝てないと言う訳か、まぁ、いいさ」

「今夜、久々に彼が来ることになっているから話してみるよ。ワタルも一緒に食事でもしないか」

「俺は今夜は珍しく接待のない日なんでね帰らして貰うよ。ロンの説得はクンさんの方がいい。彼は俺の事そんなに好きじゃないみたいだから」

「そんな事はないさ」

 クンは以前よりワタルが変わってきていると思った。

  

 未だ暑さの残るバンコクの夕暮れ時にロンは一人でやってきた。

「一人なのか、秘書とかが一緒じゃないのか」

「そんな贅沢はしない。ナオキから聞いたんだが、日本には『実るほど頭を下げる稲穂かな』と言う諺があるらしい。

「いい言葉だ。タイも米の一大産地だし俺も覚えておくよ」

 クンは機先を制され、本題を切り出せなくなっていた。

「どうだ、儲かっているか」

「売上の伸びも順調で、昨年の倍近くは行きそうだ」

「そいつは凄い。ウチの食材輸入も増えているし、ミリオネックスは益々発展しそうだな」

「結婚も考えているが時間がなくてね」

「俺も同じだ。今、レストランビジネスの集大成とも言える事を考えていて、

とても結婚に没頭する時間がない」

「相変わらず積極経営だな」

「儲かった金は再投資してこそ意味がある。遊ばせておいたり、無駄なことに使っては株主や従業員に申し訳が立たないんだ」

 クンはロンが今日の本題を事前に知っていたのではないかとさえ思った。

「しかし人間にはオアシスが要る。俺も仕事が好きだけど、毎日白飯とスープでは飽きも来れば味気もない。時にはお前の店でフルコースも食ってみたいと思うのは人間として許される行為と思わないか」

「異論はないが、そんなことは年を経ってからでも遅くはないじゃないか」

「年を経って金が出来てもやれないことがある。功なり名を遂げた年寄りの言葉に『この金の全てを使っても若さを取り戻したい』と、言うのが多いのも事実だ」

「その通りさ、しかし金を失くして若さを取り戻しても、これ又味気ないものだ」

「結局は人生観の問題だな」

 クンはこの話題に深入りしては得策ではないと判断し話題を変えた。

「アキアットが愚痴(こぼ)しているぞ、交際費が鰻登りだって。業務の性格上ウチより交際費を使うのはよく分かるが、彼の話によると営業の連中は個人や家族との飲み食いにも会社のカードを使っているらしい。知っているのか」

「知っている、それも前にも言ったが、給与の一部だと割り切っている」

「社長がそれで経営していける自信があるのなら俺は敢えて何も言わないが、お前が一生懸命煉瓦を積み上げているのに、その横で一段ずつその煉瓦を外している奴が居ることを頭に入れておいた方がいいのじゃないかな」

「ワタルのことを言っているのか」

「彼だけじゃない。発送のマネージャーでも段ボール箱を幾らで買っているのか知っているのか、悪いと思ったが、アキアットに納品書を見せて貰った。これは明らかに相場より高い」

「彼が差額を懐に入れていると言うのか」

「そうとしか考えられない、よくあるケースだ。それに」

「未だあるのか」

「運転手のガソリン代の領収書も要チェックだな。一旦入れたガソリンを他へ転売している可能性もある」

「そこまで・・・・」

「それにワタルが時々日本人バイヤーとチェンマイへ出張しているが、ホテルへ電話して裏をとった方がいいかも知れない。案外あのミヤコとか云う女と行っている場合もあるしな」

「社長とはそこまでやる必要があるのか、従業員を信じちゃいけないのか」

 温和なクンも矢継ぎ早に盲点を指摘されやや気色ばんできた。

「クン落ち着け、今言った経験は俺も一通りしてきた、実に嫌な気分だ。自分の人格を疑ったこともあった。しかし、このアジアで会社を経営するにはこれくらいやらなければいけないんだ」

「従業員の一人々を疑うのか」

 クンは肩を落として訊いた。

「自分の家族以外はな、これは華僑ビジネスマンの宿命さ」

 クンは確かに華人の血が流れているが、自分ではタイ人だと思っている。すんなりとロンの意見に従うわけにはいかない。

「クンの性格はよく知っている、辛いだろうがやるしかない。真剣にミリオネックスを成功させる気があるのなら。俺は小さい頃から親父の商売を見てきたから慣れてはいたが・・・」

「俺は教師の子だからな」

「いいか、頑丈そうに見える堤防でも蟻の一穴から壊れ始めるんだ。蟻を踏み潰すことに躊躇していては手遅れになる」

 クンは先程の江本と洛子の一件をロンが知っているかのような発言にも驚かされたが、ロンの恐ろしいまでの経営者としての成長振りや、その経営姿勢に背筋に冷たいものが走った。

『ロンは俺の知らない部分までも知っている、これが社長業というものか』とても江本の提案を言い出せる状況ではなかった。

 ロンはこれから会議があるらしく足早に出ていったが、外で彼を待ち受けている人影があった。ランである。

「どうだった」

「ちょっと言い過ぎたかも知れないね」

「そろそろクンもワタルも有頂天になってくる頃だから、それくらいで良かったのじゃない」

 勿論二人は江本の提案の中身を知る由もなかったが、2人共に経営者としてはクンより長い経験を持っている。共に独特の鋭い嗅覚を働かせ、彼に釘を刺し来たのであった。

 クンはロンの出ていった部屋で一人マールボロをくわえたまま、天井の一隅を見つめ何時までも何かを考えていた。

 

 

第9章 起死回生

 

「ナオさん、仕事の方はどうだい」

 直樹は3ヶ月振りにバンコクへ戻っていた。

 二人はミリオネックスのショールームで冷たいタイ茶を飲んでいる。時折ガイドらしき人物が外国人バイヤーを連れて入って来て、バイヤーが興味を示すとジュディを始めとする営業スタッフが商談室へと彼を招き入れる。そしてその細かく区切られた商談室は直樹の見るところ常に埋まっているように見えた。

「クンさんほどには急激な伸びはないが、日本はちょっとしたエスニックブームでね、エスニックレストランが火付け役なんだけど、お陰様で好調だよ」

「実は私もエスニックの店をやろうと思ってね、欧米でもブームらしいし、タイにもやがてそのブームがやって来るんじゃないかと考えているんだ」

「ちょっと早い気もするが・・・」

「早いって」

「言いにくい話なんだが」

 直樹はそう前置きをして話を続けた。

 エスニックブームというのは、物質文明に飽き始めた先進国独特の現象だと思うんだ。エスニックグッズとは、手作りだったり、伝統的な素材だったり、宗教的な意味合いを持ってたりするだろう。日本や欧米が経済発展のために疾(とう)の昔に棄てたものを今懐かしがっている現象なんだよ」

「タイは未だ経済発展していない後進国だというのか」

 クンは少しむっとした様子だった。

「だから余り言いたくなかったんだ」

「済まない、続けてくれ」

「今クンさんが言ったとおりさ。タイは必死で経済発展を求めている。経済発展とは効率の問題であって、手作りよりは機械化なんだよ。理不尽な宗教的謂(いわ)れを重んじるより、近代的な理論を優先させなければこれは達成できないんだ」

「成る程、発展のために猛烈に走っている我々にはエスニックグッズを楽しむ余裕はないと言いたいんだな」

 クンは既に冷静になっていた。

「ナオさんの言うこともよく分かったが、ロンの言う通り儲けた資金は再投資しないと意味がないと云うのも正しいと思える」

 ショールームは相変わらずバイヤー達が数多く出入りしている。直樹はそれを見つめていたが、ゆっくりとクンの方を向くと言った。

「クンさんも商売人になったんだな。しかし、折角儲けた金なんだからもっと効率のいい事業に振り向けた方がいいのじゃないのかな」

「民芸品のチェーンじゃ儲からないと言うのかい」

「そうだ、この商売は半分が趣味だ。効率一辺倒の社会に辟易した連中が尤もらしい理屈を付けて始める商売さ。人によっては全部が趣味と言ってもいい。日本円が強いので我々には粗利は大きいが、売上は決して多くはない。資金も寝るし、折角の粗利も経費として消えてしまうんだ」

「しかし趣味として捉えるより、皆に夢を売っていると考えたらどうだろう」

「それがさっき言った尤もらしい理屈の始まりさ、自分を納得させる以外の何物でもない」

「日本にも趣味から出発して、今や一大産業になっている会社が幾つもあると聞いているが」

「ファミコンとかグリーティングカードの会社のことを言っているのかな。けれど、そこには民芸品とは違う世の中のニーズ、つまり潜在的なマーケットの大きさがあったんだ」

「ミリオネックスは輸出で稼いでいる。俺達も必死で働いている。ロンにも言ったんだが、人間にはオアシスも必要なんだ」

「それがエスニックのチェーン店というわけか、其処までクンさんが思い詰めているのなら私にそれを止める権限はないよ」

 商談室の賑わいとは対称的に、二人の間に長い沈黙の時間が流れた。

 クンは意を決したかの如く切り出した。

「ナオさんが今度南米へ行くとき一緒に連れていってくれないか。タイには南米の商品は全くと言っていいほど入っていない。粗利がとれると思うんだが」

 直樹は彼の決心が固いと見、又本業の利益が出ている内に新しいことをやっておいてもいいと踏んだ。

 

 数ヶ月後クンは初めて東京の土を踏んだ。

「凄い電飾だな、日本はオイルを使い過ぎじゃないか」

 彼の第一声であった。

 その唇は日本の寒さに慣れずに紫に変色している。

 直樹は、日本の繁栄はアジアに廻る筈のオイルを独り占めして成り立っているのかなと思ったが、クンの第一声にはそれほど深い意味はなく、単に驚きのそれであった。

 翌日二人はロサンジェルス経由でメキシコシティへと向かった。

 ロスでもそうであったが、クンが直樹の後に通関すると、『日本人じゃないのか、それじゃあちょっと来てくれ』と必ず入念なチェックを受けた。タイの麻薬を警戒しての処置である。それはクンにとっては決して愉快なことではなかったであろう、日本のオイル状況、タイ人への入念なチェック、直樹は国際社会に於けるタイの立場を慮(おもんばか)らざるを得なかった。

 その彼も、メキシコシティの中心よりやや外れたところにタイ料理の店を見つけた時は童心に帰った如く喜んだ。

「ナオさんタイ料理は有名なんだ」

 彼はタイの誇れるものを外国で見つけ心底喜んでいるように見え、直樹も救われた感じがした。

 メキシコでは直樹の買い付けるものを見習って少しずつ仕入れをしていたが、グァテマラへ入ると度胸も出てきたらしく、買付量は増えだしていた。

 当時のグァテマラはシティからインディオの部落へ行く途中にゲリラが出没したが、軍事クーデターに慣れっこのタイ人クンはさほど気にしている容子はなかった。

 インディオの部落チチカステナンゴの市場は火曜日と木曜日だけ開かれる。二人は前日の夜部落の中心地のホテルへ投宿していた。

「メキシコとここの街での買付量では店一軒分にはならないよ。足らない分をこの部落で買い足さなくては」

「初めての仕入れなんだから、余り飛ばさない方がいい」

 クンは張り切っていた。しかし直樹が心配するほどミリオネックスの資金力は柔なものではなく、彼の買付にはそれ相当の予算の裏付けがあった。グァテマラの買付だけでは不足らしく、彼は帰国する直樹と別れてペルーまで足を伸ばすと言いだし、ペルーの商工会議所で業者を紹介して貰い、グァテマラにも増して買付に拍車をかけた。

 クンは帰国するとシンの紹介でシャム広場のショッピングセンター内に6坪ほどの店を開き、店名を『インカ』と名付けた。

 

 或る日の午後ワタルはクンに再度例の話を持って来ていた。

「クンさんのインカはどうだい」

 ワタルはインカはミリオネックスで経営しているにも拘わらず、クンさんのと言った。

「売上はいまひとつだが、粗利があるから利益は出ているよ」

「クンさんも自分のしたいことをやっているのだから、どうだろう例のゲストハウスの件を再考してくれないか」

「ロンがオーケーを出さない」

「土地を買うことは諦めたよ、せめてこの裏庭を改造してプールぐらい作るってのはどうかな」

 クンも他人が見れば半分道楽に見える商売を始めた以上、江本の提案を無碍(むげ)に断るのは難しく思えた。

「もうひとつ頼みが有るんだが、知っての通り俺のバンコクの滞在は毎回長くなっている。そこで一軒家を会社の経費で借りてくれないかな。クンさんだって会社の部屋を使っているのだからいいだろう」

「ミヤコと住むのか」

 江本は一瞬顔色を変えたが、自分を落ち着かせると言った。

「何だ、知ってたのなら話は早い」

 江本には恥じている様子はなく、寧ろ居直っている風にも見えたがクンは不承々ながらこれも受けた。

 如何にミリオネックスに資金力があるとはいえ、クンの道楽と江本の申し入れはボディブローのようにその資金繰りを圧迫し始めたが、相変わらず輸出は絶好調である。そんな或る日ペルーよりFAXが入った。ミリオネックスの名前をペルー貿易局の輸出先リストより見つけたらしい売り込みである。

 クンは早速カタログを取り寄せると注文を出し、L/Cの条件を提示した。価格はFOB(現地港渡し値段)だが運賃は元払いにして欲しい、この運賃もL/Cの範囲内で決済する旨を告げた。

 先方から了解のFAXが入りクンはL/Cをオープンした。

 二週間が経った頃、その輸出者から又FAXが入り文面には以下の事が書かれていた。

「貴社の注文のFOBの合計は3万ドルであり、運賃を含めたL/Cの額は3万5、000ドルになっているが、品物が陶器なので梱包代も高く、又嵩張るため運賃が5、000ドルでは到底払えきれない。その上港までの国内運賃や通関費用が含まれていないのはどう言うことだ、善処して欲しい」

 彼は直樹に尋ねた。

「南米との商売にはよくあるケースだ。商品の値決めが終わった後、運賃だ、手数料だ、梱包代だと私も交渉にうんざりした経験があるよ」

「だって、FOBと言うのは港渡し価格だろう、タイまでの運賃は別として、それらの国内経費は全てFOBに含まれている筈じゃないか」

「彼等にはFOBの概念がよく解っていないケースが多いんだ。そこまで払って合わないのならキャンセルした方がいいな」

「しかしL/Cはオープンされてしまっているし、その額の分だけでも変なものを送ってこられたら後が面倒になる」

「そうだな、L/Cは輸出側を護る意味合いが濃いからな」

 クンは諦めて諸経費の額を尋ねた。

「既述の通り嵩張る品物なので、国内運賃が1、200ドル、梱包料が業者の見積もりによると1、300ドル、通関手数料及び輸出税が9、600ドル、タイまでの船賃が7、200ドルの総計2万3、000ドルである」

 各項目毎に業者の見積書が添付されて、通関業者名とその振込先が明示されていた。

『FOBに対して70%弱の経費は痛いが、珍しい物だから仕方がないか』クンは決心すると指定の口座へ電信送金を行った。

 

 タイの衣料は欧米や日本にとっては春夏物が中心となり、通常出荷は11月くらいから翌年の6月くらいまでがピークとなり、7月も後半となるとミリオネックスの集荷も落ち着いてくる。クンはランを久々に食事に誘った。

 最近オープンしたばかりの日系の大衆焼き肉の店『南大門』である。この店はタイに上陸するや忽ちの内に7店舗を出店し、日本外食チェーンの資本の凄まじさをロンにも見せつけていた。

「あなたの会社も大丈夫そうね」

 二人の間にあるガス焜炉は、都市ガスが普及していないためプロパンである。ランは甲斐甲斐しく肉を裏返しては、焼けた物からクンの小皿へと運んでやっている。

「これからはちょっと暇になるんだよ。この6月から10月までの仕事を増やせば年間を通じて利益が安定するのだけれど、今は仕事が少なくても従業員をキープしておかなければならず、冬の利益の一部を吐き出してしまうんだ」

「夏と冬が反対のオーストラリアでも開拓すれば」

「それは皆考えるんだが、オーストラリアは市場としては余り大きくないから、皆が売り込みに行くと直ぐ飽和状態になってしまうんだ」

「成る程ね」

 ランは商売の中身より、クンの経営者としての成長振りに興味があるらしく相槌だけを打った。

「まぁ、冬の間に稼いでおけば夏は乗り切れるから」

「インカは余り手を広げちゃ駄目よ」

「分かっているが、一店舗では直輸入の商品は捌ききれない、だから少しだけチェーン化を考えている」

 実際、彼はこの夏の間に3店舗を建て続けにオープンさせていた。

「それより君との約束をそろそろ実行させたいんだけど」

「約束って」

「ひどいな、結婚だよ」

「私は忘れていたわ、だってあなたの家族、つまり客家には入れて貰えないわ。客家は北の出身でしょ、私の父は南の広東よ」

『南船北馬』が意味するように、中国の南は河が発達し船で移動する海の民族であるのに対し、大雑把に言えば、北は馬で移動する騎馬民族に近い。又、食文化も北が小麦を中心とする麺が主食であるのに対し、南は米食文化であり、同じ漢民族でも揚子江を挟んだ北と南では別の国家の観がある。

「君がそんなことを言うなんて」

「結婚って恋愛じゃないわ、生活よ」

「だからこそ色々障害を乗り越えてでも、結婚しようと言っているんだ」

 クンは自分が多少青臭いことを言っているのかなと感じたが、この場合ランを説得する言葉は見つからなかった。

「私だって28歳よ、結婚は考えるわ」

 この時代のタイにしては晩婚であり、ランにも僅かであるが焦りはあった。

「クンも成功したんだし、もっと若い子でも見つければ」

「何を拗ねてるんだ、君と結婚したいんだ」

「ご免なさい、言ってみたかったの」

 クンには彼女が彼の愛を確信した上での甘えであることは分かっている。

「結婚することは予定の行動として、後は時期の問題だ、と言うことでいいだろう」

「珍しく強引ね」

 ランは頷(うなづ)かざるを得なかった。

「ここまでお互い待ったんだ、何が何でも今日、明日というわけじゃない」

 食べ残した肉が焜炉の縁ですっかり固くなっている。

『柔らかい内が花なのに』

 ランはその肉に焦点を当てたまま再び点頭(うなづ)いた。

 

 外は南国特有の気怠い空気が澱(よど)んでいるが、それを切り裂くようにけたたましいクラクションの音が満ちている。路上の騒々しさとは無縁のエアコンの効いたミリオネックスの室内でクンは久しぶりにのんびりしていた。

『そうだ、ペルーの件はどうなっているのだろう』

 クンはアキアットを呼んだ。

「送金をしたのはいつだっけ」

「3週間前です」

「確か通関業者へしたんだよね」

「そうです、輸出者より安心だと言うことでした」

「その業者へFAXを流して状況を聞いてくれ」

「はい、わかりました」

 今日は直樹がネパールの帰路バンコクへ立ち寄る日であった。カトマンズ発TG312便は定刻通り5時半に着陸した。

「流石にTG(タイ航空)は正確だ。私はバンコク経由の時はTGしか使わないんだ」

直樹は機内で既に飲んできたらしく上機嫌である。

「私も買付にカトマンズへ行ってみたいな」

「しかしバンコクにはネパール人やインド人が自国の商品をかなり持ち込んでいるよ」

「そうなんだけど、釈尊(ブッダ)の生誕の地だからね、一度は行ってみたい」

「そうか、クンさんは熱心な仏教徒だったね」

 二人はパトナムマーケット近くの日本料理屋にいた。

「カトマンズには日本料理屋はないのか」

「ある事はあるんだけど、日本人のオーナーが帰国してから味が落ちてね」

「相変わらず世界の事情に詳しいね」

『直樹みたいに世界中を旅してみたい』クンの眼はそう物語っている。直樹はそれに気が付いたのか、話題を変え訊いた。

「インカはどう、余り儲からないだろう」

「もう4店舗になってしまったけど、まぁまぁさ」

「4店舗ね、民芸品屋は好きな人には楽しいけれど、所詮は喰ってお仕舞いさ。まぁ、世界中へ仕事と称して行けるのがメリットかな」

 クンは本業が利益を出している以上インカは趣味と言われても言いと思っていた。

「自前の店舗も資金がいるので、デパートのコーナーにでも展開しようかと思っているんだ」

「デパート側もエスニックは自分達では調達しにくい商材だから、飛びついては来るんだけれど」

「だけれど」

「集客力はあるが、所詮は人寄せパンダであって、デパート側が期待する程売上げは作れなくて」

「どうなるんだ」

「リニューアルと称して退店勧告さ」

直樹は自嘲気味に笑った。

「厳しいな」

「だから、この商売には力を入れない方がいい。私も33歳だし、そろそろ別の仕事も始めようかと思っている」

「そうか・・・・・」

 クンはそれでも納得しかねている容子であった。

「実はナオさんに以前相談したペルーの件なんだけれど、あれ以来音沙汰無しなんだ」

クンは手短にその間の事情を説明した。

「それは怪態(おかし)い、幾ら南米の仕事が遅いと言っても、それはペルー大使館にでも問い合わせた方がいいよ」

「やっぱりそうか、やってみると貿易って難しいモンだね」

「見たことも会ったこともない奴と商売するんだから、それでも東南アジアの場合は日本人と共通する価値観があるから或る程度はわかるが、南米やアラブ圏となると慎重にならざるを得ないよ」

「ナオさんでもそうなんだ」

「そんな暗い顔をするなよ、パッポンでも繰り出そうよ、私も久しぶりに都会の夜で遊んでみたいからね」

「最近金詰まりで、余り高いとこへは行けないよ」

 直樹はその言葉に不吉な感じを覚えたが、おくびにも出さず続けた。

「いいよ、いつもクンさんに奢って貰ってるから、今日は私に払わせてよ」

 二人はタクシーを捕まえると、一路南下してパッポンへと向かった。

 

 翌朝クンは宿酔い気味の頭でペルー大使館へ電話を入れた。

「こちらのリストには載っておりませんので本国へ照会いたします」

 クンは仕方なく待つことにした。午後になって江本が社長室へ現れた。気のせいか顔が紅潮している。

「ビッグビジネスだよ」

「どうしたんだ、そんなに慌てて、まぁ坐れよ」

「ミヤコも呼んでくれ」

 いつもは積極的な洛子であったが、江本とのことが既に知られていると思うとクンに会うのは何か気恥ずかしく、最近は営業部の部屋から滅多に出て来なかった。

「どうだい、新しい家は」

 洛子は顔を赤らめると口を噤んだ。色白の頬が赤く染まっていく様は、こちらが罪悪感を覚えるほどに典雅な印象を残した。

「そんな事じゃないよ、彼女がシンガポール時代に知り合った大手スーパーがタイで生産を始めたいと言うんだ」

「ええ、突然日本から電話が入りまして、シンガポール時代の友人がそこの企画室へ配属されたらしいのです」

「彼女が言うにはコンペらしい」

「コンペティション」

 江本は心持ち胸を張って説明を始めた。

「つまり、10数社を選んで価格や品質などを競争させて、その中から数社を指定業者に選ぶと云うことなんだ」

「クンさんウチなら勝てますね」

 洛子に積極さが戻ってきている。

「これが成功したら安定した輸出先が確保できる、そしたら洛子に特別ボーナスを出してやって欲しいんだ」

 クンはやや顔を歪めて唸るように言った。

「考えておこう」

「約束してやってくれ、彼女の励みにもなる」

「わかった、成功したらね」

 ロンならここできっぱりと断るのだろうとクンは思った。

「社長、ありがとうございます、私頑張ります」

「ワタルも知っていると思うが、我が社の資金繰りは以前よりタイトになっている」

「インカのせいじゃないのか」

「それだけじゃない、経費が多過ぎるんだ」

「俺達が、と言うのか」

「誰と言うんじゃなくて、これからは今までみたいに気前良く経費を使えないと言っているんだ」

「だからこそ、この仕事を成功させなくてはいけないのだよ。クンさん、もっと前向きにビジネスを考えようよ」

「分かっている、ミヤコその件は全力で進めてくれ」

 部屋を出ていく二人の背中を見つめ乍ら、いつかこの二人とは別れるときが来る予感がした。

 江本と洛子が準備のため日本へ帰った後、クンはインカに力を注ぐことにした。そんな矢先ペルー大使館より『照会先に該当する企業名はありません』と、言うFAXが入った。

 クンは驚いて受話器を取ると、事情に詳しい担当者を電話口へ呼んで貰った。

「恥ずかしい話ですが、この様なケースはよくあることなんです。貿易に詳しいアメリカ人グループがペルーを舞台にして暗躍しているらしいのですが」

「捜査は出来ないのですか」

「ペルー政府も相手がアメリカ人では弱腰にならざるを得ません。この他にもサンプルを世界中から騙し取って、アメリカの業者へ安く叩き売ってしまう奴等もいます。この時の舞台は如何にも大量買付をしそうな日本やヨーロッパを選ぶらしいです」

「そんなに簡単に引っかかる物ですか」

「最も単純な手口は一、二度の少量注文には送金を行うのですが、大量注文になると、銀行の融資とかL/Cの手続きに時間が掛かるとか色々理由を付けて送金を遅らすのです」

 クンも銀行を理由にする手口は以前に経験している。

「その間に商品は出来上がってしまうでしょ、そこらを見計らって送金の書類に偽造した銀行の印を押してFAXしてくる。商品は揃っているし、業者は初めての取引先じゃないからと、船積みをしてしまうらしいですよ。貴社の場合は今回は輸入で逆ですが」

「そうですか、わかりました」

 世界を舞台にする国際詐欺グループなら諦めるより他はなく、直樹の言う通り、見たこともない相手と商売する貿易の仕事の恐ろしさを実感せざるを得なかった。 しかし机の上のFAX一つで、世界中のビジネスマンと同時にありとあらゆる種類の商売が出来る、これも貿易の醍醐味であると直樹も言っていた。クンもこの意見には賛成である。結局は電話回線の先の顔は見えずに大金が動く、この醍醐味と危うさが貿易の表裏を成す性格を表しているのだろう。

 兎に角もって、現在のミリオネックスにとって送金額の50万バーツ強は痛い、クンの25ヶ月分の給与額に匹敵する。

クンは又ひとつボディブローを喰っていた。

 

 10月にはいると日本を始めとする海外バイヤーが続々とミリオネックスを訪れてくる。江本と洛子のサンプル出荷も順調に進んでいるようで、ジュディも今やアパレルの知識を豊富に持ち十分に仕事をこなしている。

『又、忙しい季節がやってきた、夏の浪費を取り戻さなくては』クンも体中に気力が漲ってくるのがよく解る。

 しかしその間にもインカの売り上げは落ちる一方であったが、彼は忙しさにかまけてその事は忘れようと努めていた。

 世間の噂に拠るとロンは又大きな事を仕掛けるらしい、クンは益々仕事に没頭した。

「コンペは進んでいるか」

「報告が遅れたが、サンプル20型の内4型が通った」

「サンプル代金は向こう持ちか」

「そんなことは出来ないよ、ウチで負担したさ。担当者の気分を害したくなかったのでね」

「そうか」

「でもこの4型が受注できれば相当な利益が見込めるよ」

「しかしコンペなんだから利益は宛に出来ないんだろう、ミヤコ」

「価格は抑えますが、適正利潤は確保しますからご安心下さい」

「日本の納期の厳しいのは知っているが、布の手配や工場のラインの確保も抜かりはないだろうね」

 クンも少し興奮気味に質問を浴びせかけている。

「工場はいつも使っているところを押さえてありますし、布や付属品はジュディが担当しています」

「万全だな」

「大丈夫だよ、クンさんも心配性だから。明後日には相手先のパタンナーもバンコクへ入り、最終のサンプルチェックが始まることだし、全てがオーケーさ、マイペンライよ、クンさん」

 江本も上機嫌で笑った。

 クンは江本の笑い顔を見ていると、不安と期待が入り混じってはいるが、やるしかないと確信した。

「クンさん、起死回生だよ、来年は」

 江本はまたもや大きく笑った。

 

 

第一〇章 画龍点睛

 

 クンは新年の祝いをロンの家で行っていた。ランも一緒である。

 東南アジアの華人系の正月は旧暦で祝うので、日本や欧米に比べると拍子抜けするほど質素である。旧暦とはルナカレンダーと呼ばれる太陰暦のことで、太陰とは英訳のルナの通り月の異名であり、よって毎年正月の日にちは一定していない。

 この旧暦の正月に当たる時は、東南アジアの華人たちが一斉に移動するので、飛行機の予約を取るのが難しくなることが多く、旧正月には長い休暇を取る華人達も、この太陽暦の正月には大晦日と朔日しか休みを取らないのが普通である。

「ロン、何か又大きな事業を考えているんだって」

「前にも話した俺のレストラン事業の集大成さ」

「何だかすごそうね」

「大小様々な各国の民家風の建物を造り、その全てを池に浮かべて回廊で結ぶんだ」

「敷地は」

「約50,000平方メートルさ」

ロンは事無げに言うが、クンもランも息を呑むしかなかった。

「広すぎて運んでいるウチに料理が冷めてしまうから考えたんだ、ウェイター達にローラースケートを履かせるのさ、その上各国の民族衣装を着せてね」

 クン達が唖然とする内にもロンは続ける。

「池の中央には浮き舞台があって、各国の民俗芸能やらその他のショーをやる、ウェイトレスをロープウェイで吊って、メインのレストランへと飛ばすんだ。まぁ、天女が料理を運ぶような物さ。趣向を変えてピーターパンでもいいし、スーパーマンでもいい。別棟には中国風の五重に塔を建てVIPルームを作る」

 ロンのアイディアは涸れることのない泉の如く湧き出てくる。

「託児所もあれば、酔客の運転代行サービスもある。

 入り口には山海の珍味を並べ、お客様に選んで貰って好みに合わせて料理もする。 退屈した子供達の遊園地もあれば、土産品のブースも作るつもりだ」

「将に食のディズニーランドね」

「その通りだ、ラン。将来は隣地にアミューズメントパークとホテルを併設する予定なんだ」

「皆が噂しているより壮大な計画だな。新年早々の大ボラとしても楽しい話だ」

  クンは友の成功を心より喜んでいるようである。

「お前はいい奴だな、心が綺麗だ」

「何を突然言うんだ、それより名前は」

 クンは照れ臭そうに訊いた。

「俺の名前の龍を取って『ロイヤルドラゴン』だ」

「ロイヤルドラゴン、集大成を飾る大きな名前だ、お前のセンスとアイディアが羨ましいよ」

 今度はロンが照れ臭そうに笑う番であった。

「じゃあ、ソンポーンも今回のこのプロジェクトに大張り切りというわけか」 「・・・・・・」

「彼は反対なのか」

「そうじゃなくて、辞めて貰ったのさ」

「どうして又、片腕じゃなかったのか」

 クンは以前にも同じ質問をして、ロンの答えの歯切れが悪かったのを思い出した。

「奴は従いてこれなくなったんだ」

「喧嘩別れか」

「いや、クンも知っての通り」

 ロンは沈痛な面もちで話し出した。

「ウチも大きくなった。部門も増えていく、必然担当部長やら役員が必要になった。銀行や大手企業からヘッドハンティングで人材を集めたんだが」

「当然だろう、ウチでもやっている」

 クンは未だ納得がいかず、訝(いぶか)しげな顔をしている。

「スパポーンも古参幹部の一人だ、幹部には幹部の仕事がある。システムを作成したり、それによって組織を運営するというね、つまり、手足じゃなくて我が社の頭脳になって貰わないと困るんだ」

『お前らみたいにいい大学じゃなかったけどね。職が無くてロンに拾われたのさ』クンは工事現場でのスパポーンの言葉をはっきりと思い出した。

『あの時既にロンとの確執が始まっていたのか』

「始めた当初は二人ともレベルが低くても大差なく仕事が出来たのが、事業が複雑になるに連れて本来の能力の差が出てきたというのか」

「言い辛いことだが、彼が古株の幹部で居ると、他の新しく入った有能な幹部が仕事がやり辛いんだ、つまり彼等幹部のレベルがスパポーンのレベルまで落ちてしまうんだ」

「切ったのか」

「泣いて馬謖を斬る、それしかなかったんだ、我が社の成長発展の為にはね」

 ロンの目に涙が浮かんでいる。ロンの涙を見たのは初めてであった、クンも沈黙した。

『友人ながら恐ろしい奴だ、そこまで徹底するのか』

「 狡兎死して走狗追われる、兎狩りが終わったら狩猟犬はお払い箱とは言われたくない」

 ロンは声を出して嗚咽した。

「ウチの女の子でも、古株のくせにいつまで経っても客相手の仕事しかできない子もいれば、新顔なのに他の女の子を仕切っている子もいるわ、それはロンが悪いんじゃないわ。天性よ、適正と言ってもいいわ」

「スパポーンも現場で汗を流している方が楽しいんじゃないか、彼にはエアコンの効いた部屋でネクタイを締めているのは似合わないよ」

「華人の経営者は非情でなくてはならないと、あなた言ってたじゃない。しっかりしてよ」

 ロンは頭を上げると刮(かつ)と目を開いた。その眼にはもう既に涙は消え、いつものロンに戻っていた。

「それでこそ我らがビッグボスだ。さぁ、タイ国とタイ国王に乾杯だ」

「俺はいい友人を持って幸せだ、社長は孤独な職業と言うが、俺は違う。クンとランの婚約にも乾杯しよう」

 ランは俯(うつむ)き加減にはにかんでいたが、その笑顔は嬉しそうだった。

 

「クンさん、例のスーパーの企画課長が来週バンコクへ来るらしい、正月早々にくるということは発注の確度は高いよ」

「そうか、いよいよだな。今度は私も会うから一席設けてくれないか」

「勿論さ、ミヤコとジュディも連れていく」

「彼は英語は殆ど話せないから、仕事の話は別の時に改めてしよう。今回はミリオネックスの社長として挨拶してくれ」

 クンは快諾し、最高のレストランを予約した。

「初めまして、私が野中といいます」

 これが彼の英語の限界であったが、差し出された名刺には『スーパーCHUBU』と、ある。東海地方に本社を置き、全国制覇を目指す中堅スーパーでクンもその名前は知っていた。

「このたびは江本さんのお陰で日本側の輸入商社を使う必要が無く、その分コストが下がるので当社の社長も乗り気です」

 洛子が通訳をしている。

「型数は4型ですか、1型何枚ぐらいになるのですか」

「クンさん、具体的なことは言わないって事になってたじゃないか」

 江本はそれを通訳することなく遮った。

 野本は「フォースタイルズ」と聞いて、少し訝(いぶか)る態度を見せたが、クンはそれには気が付かなかった。

「さぁ、仕事の話は明日以降として、今夜はタイ料理をお楽しみ下さい」

「タイの女も味わってみたいな」

 洛子には訳せない男達の会話であったが、二人が大声で笑うのを見てクンは上手く行きそうだと安心していた。

 宴も酣(たけなわ)になった頃、酔眼朦朧(もうろう)となった江本が言った。

「大切なお客様だ、私がパッポンに連れて行くから後は頼むよ。それと、今夜の接待費は大盤振る舞いになっても大目に見てくれよ」

「分かった、羽目を外して失敗するんじゃないよ」

 江本は野本の肩を抱きながら急ぎ足で出ていった。

「ワタルったら、私心配だわ」

「まぁ、今夜は仕事なんだから許してやれよ、日本の女性はこんな時我慢するって聞いてるよ」

「クンさん、何年前の日本を御存知なんですか」

「いいじゃないか、ワタルはミヤコを裏切らないさ」

 彼は既に妻と子供を裏切っている、今更洛子に何の義理立てをする必要があるのか、クンの言葉は慰めとしては不適当であった。

 

 野本の帰国後二週間ほどが経った頃、江本が駆け込んできた。

「やったよクンさん、1型2万枚ずつで合計8万枚の注文だ。大手の注文は桁が違う」

「いくらになるんだ」

「1枚が約12ドルだから100万ドル弱になる、将にミリオネックスだよ」

「生地代は」

「約半分だ、心配しなくても手形で払うと工場には伝えてある。しかしデポジットとして25%はキャッシュが必要になる」

「25%か、500万バーツほど要るな」

 クンは暗い顔をした。

「わかっているよ、金がないんだろう。でも政府の報奨金も入れると400万バーツ近くの利益だぜ、ペルーの損失なんて取り返して余りある」

「知ってたのか」

「当たり前さ、ミリオネックスは私の会社でもあるんだよ」

「済まない、言い出しにくくってね」

「済んだことはいい、今回の取引で一気に起死回生さ」

「わかった、なんとかしよう」

「しかしだな、問題があるんだ。野本さんも言ってたが、今回は商社を使わない、従ってCHUBU自信がL/Cをオープンするため銀行の審査に時間が掛かると言うんだ」

 クンは当てが外れた。

 彼は開設されたL/Cを担保にして銀行から融資を受けるつもりでいたのだ。

 通常なら会社の信用力にも依るが、L/C額の50%は借り入れが出来た。

「船積みは何時なんだ」

「彼等は3月の末と言っている」

「出来るのか」

「クンさんのオーケーが出れば今日にでも生地は手当する。既にミヤコとジュディがスタンバイしている」

「手早いね、日本人だ」

「で、どうする。諦めるのか」

 クンは天を仰いで、大きな溜息を吐いた。資金繰りに関与していない江本は、ここが正念場とばかりに説得に力を入れる。

「クンさん、わかっているのか、この注文はミリオネックスの年商の4分の1だぜ。たった1回の取引でだよ。それにこれに成功すれば、彼等もコンスタントに注文を出してくるに違いない。インカだって後何店かはオープンしたって良いさ、俺は文句を言う気はない」

 クンの頭の中にロンと老大と直樹の姿が交互にフラッシュバックしている。

『老大が生きていたら何というのだろう、客家の誇りを持って突き進めと言うのだろうか、分相応のビジネスをしろというのだろうか、又、ロンや直樹なら・・・・確かに利益は大きいが、L/Cが来なかったり不良品が出たら立ち直れない』

「クンさん、しっかりしてくれよ、社長に必要なのは決断力だ。社長の決断で会社が右へ行くのか左へ行くのかが決定されるんだ」

「だから迷っている」

「俺が言うべき事ではないが、ランのマンションを担保に入れて融資を受けよう。幸いにウチには信用がある、いやクンさん自身の信用力だ」

「ランには迷惑を掛けたくない」

「迷惑だって、我が社が儲ければ、株主である彼女だって潤うんだよ。それに結婚するんだろう、女房が主人に尽くすのは日本でもタイでも一緒じゃないのか」 『女房、ワタルに女房を語る資格があるのか』クンは叫びたかったが、一息入れるために大きくマールボロを吸った。

『ワタルのこの積極さはなんだ、何か他意でもあるのか』

 冷静になったクンは思考の焦点を江本に移してみた。

「俺が余りにも熱心なのが不思議なのか、説明するよ。俺はフィリピンで失敗している、タイでは成功者になりたいんだよ、これは俺の人生の賭でもあるんだ」

  クンは内心を覗かれた気がしたが、依然として沈黙を保っている。

 長い会話の空白が続いた。

「クンさんが駄目なら仕方がない。あんたが社長なんだから」

 何本目かのマールボロを灰皿に押しつけると、クンは決心したようだった。

「わかった、ランに話してみる」

 江本は今にも泣き出さんばかりにクンの手を取ると頭を下げた。その時クンにとって最初で最後のビッグビジネスが動き出した。

 いつもならジュディと洛子に工場の方は任せるのだが、今回はクンも精力的にあらゆる行程をチェックしていた。

 二月の初旬には生地もそろい、染めが終わると直ぐ裁断に入っていく。

「日本人の管理システムは学ぶところが多いね」

「後は大丈夫だから、クンさんはどっしりと構えていてくれ」

 カレンダーが 3月に変わって、商品の殆どが最終工程へ入る頃になってもL/Cは開設されない。

「CHUBUへは何度も催促のFAXを入れてるし、昨日も野本さんへ電話をしたんだが、もう少し待ってくれと言うんだ。最悪の場合でも送金ベースでやると言っているのだから支払いに問題はないよ」

 クンはペルーとの一件が脳裏をかすめたが、直ぐさまそれを打ち消すと、『日本の中堅スーパーが支払いをしないはずはない』、それには確信を持っていた。

「ワタルに後を任して悪いんだけど、私はインカの仕入れにバリへ行こうと思っている。勿論船積の前には戻ってくるから」

「いいとも、クンさんも少し疲れているようだから、休養も兼ねて行って来るがいいさ。

 ミヤコもジュディも張り切っているし、何も心配は要らないよ」

「いや、一週間ぐらいで帰ってくるよ、皆に全てをやらす訳にはいかないしね」

「相変わらず心配性だね」

 

 ミリオネックスが江本と洛子の為に借りた一軒家は郊外の閑静な住宅地にあった。華僑や外国人ビジネスマンが数多く住むバンコクでも有数の高級住宅地である。

「クンは1週間だと言っていた。全てを急がなくては」

「こちらの準備は完了よ」

「でもゆっくりしているとロンが居るから、ランも鋭い勘を働かすことがあるからな」

「私ロンって嫌いだわ、一緒に食事をしたことがあったでしょ、口の周りを油だらけにして、がさつに鶏なんかを貪り食っていると嫌悪感が増してくるの。その上皿に顔を浸けるようにして食べながら、こちらの方をちらっと睨み付ける時なんか、嫌悪感を通り越して背筋に冷たい物が走るのよ」

「俺もロンの視線には不気味な物を感じることがあるよ」

 何不自由なく大学まで出して貰った洛子は、叩き上げのロンとは肌が合わないらしい。

「ご主人様、お食事の用意が出来ました」

 微笑みの国タイに相応しく、彼女達二人のメイドの表情には常に微笑が漂っている。

「この子達だって顔は笑っているけれど、お腹の中では何を考えているのかわからないし」

「洛子、今日はご機嫌斜めだな」

「前だってそうよ、私達がチェンマイへ出張してた時、彼女達どうやら友達か親戚をこの家に泊めたみたいよ」

「考えられるな」

「帰ってみると、冷蔵庫の中身は変わっているし、ラジカセの位置も違っているし、私達のベッドに明らかに私達のとは違う毛髪があったわ」

「外国人駐在員共通の悩みらしいね。自分達が居ないときの方が電気代が高くなっているケースもあるらしい」

「と、言って全ての部屋に鍵を掛けて外出するわけにも行かないし、でも少なくとも冷蔵庫には鍵を掛けることにするわ。それに私達の部屋だけは一々鍵を掛けた方がいいんじゃないかしら」

「こっちの奴等は自分の物と他人の物の区別を付けないからな。ま、その都度注意して直していくしかないんじゃないかな」

「だけどキリがないわ、机の上も食卓も埃だらけなのに私が注意しないと拭きもしないし、この前もトイレのタオルを洗って布巾替わりに使っているのよ、私卒倒しそうになったわ。汚いのよ、不潔なのよ、もう我慢できないのよ」

 洛子は形のいい唇を震わせて吼えた。

「まぁ、もうすぐお終いだ、もう少しの辛抱だよ」

「もうあの不快なロンの眼を見ることも、この不潔な女の子達ともバイバイか。クンさんには少し悪い気がするけれど・・・・。でも彼のような人が社長になっちゃいけないのよね、自業自得ってとこかな」

「クンだけならやり易かったけれど、ロンが入ってきて我々の計画もスムーズにいかなくなったからな。このままでは、儲けた金を自由に使おうと云う当初の目論見は窮屈になるばかりだ」

 洛子も長く伸びた髪を掻き上げると大きく頷いた。

 クンが出発したその日から、二人の行動は以前にも増して慌ただしくなった。

 

 4月になったばかりの東京は未だ肌寒さが残り、散り落ちた桜の花びらがピンクの絨毯を敷き詰めている。直樹は珍しく早い内にマンションへ戻り、一人で晩酌を楽しんでいた。

 窓の外には気の早い桜が若草色の葉桜を付け始め、気温は思うようには上がらないが、夕暮れの陽射しも春の表情を見せている。

『電話かな』直樹が受話器を取ると、そこにはクンの明るい声が飛び出してきた。

「どうしたんだ、自宅に電話をくれるなんて珍しいね」

「ナオさんの店へ電話をしたら、もう帰ったというのでね」

「たまには早く帰って一杯やりたくってね、何か急ぎの用かい」

「いや、大きな仕事が終わって、ナオさんの声が聞きたくなったんだ」

「何だか嬉しそうじゃないか、余程好いことでもあったんだな」

「そうじゃなくて、肩から大きな荷物を降ろして淡々とした心境なんだ」

「勿体ぶるなぁ」

「本当に大したことじゃないんだ、それより一仕事終えたから、念願のネパールへ行きたくてね」

「ネパールはいいところさ、疲れた体をヒマラヤの山々が温かく包んで呉れる。そうだ私の友人を紹介しようか、どうせ買付に行くんだろう」

「買付、ああそうなんだ。紹介して貰えると有り難いね」

 

「出発の日がわかっているのなら、私からFAXをいれておこう。チャンドラって云うのだが、いい奴だ。直ぐに友達になれるのじゃないかな」

「ナオさんの友達ならそうだろう。ワタルとは違う」

「ワタル、彼と何かあったのか」

「いやなんでもない、彼は今日本に居るんだろう」

「バンコクじゃないのか、彼とは日本で会った事がないのでわからないが、探しているのか。やっぱり何かあったんじゃないのか」

 直樹には閃(ひらめ)くものがあった。あの江本ならしそうなことだ。

「本当になんでもない。出発は明後日なんだ。ナオさんの好きなTG311便さ、到着時間はナオさんの方がよく知っているだろう」

「オーケーそうFAXを流しておく」

「ナオさんには色々教えて貰って感謝しているよ。私は日本人と親友に成れるなんて思ってもいなかった。メキシコシティのタイレストランにはもう一度行ってみたいな、又南米に連れていって呉れよ」

「やはり何かおかしいな、本当にネパールへは行くんだろう」

「勿論さ」

「気を付けていってくれ、カトマンズは未だ寒いと思うから風邪なんか引くなよ」

「マイペンライ、マイペンライ」

 受話器を置いた直樹は何か引っかかる物があり、ネパールへFAXを入れると共にランにもFAXをした。

「クンさんの様子が変だ。出発まで出来るだけ多く一緒の時間を過ごして欲しい。私も早い内にそちらへゆく」

 クンの乗ったTG311便は4月の最初の土曜日、10時半にバンコクを飛び立った。

 

 

終章 天使の棲む街

 

土曜の夜は直樹は自宅で飲むことにしている。

少しは暖かくなったとは雖も、四月の始めである、直樹は好物の湯豆腐を前にしてテレビを見ながら一杯やっていた。

突如、テレビ画面にニュース速報が入った。

直樹は一瞬息を呑んだが、自分自身に湧き上がった予測を直ぐさま否定した。 だがしかし、二度目に同じテロップが表れたときには、明らかに疑いの心境になっていた。

「バンコク発カトマンズ行きタイ航空三一一便が消息を絶ちました」

直樹は俄には信じることは出来ず、更にテレビの画面を見入っていた。

一時間ほどが過ぎ、同じニュース速報のテロップが流れた。

「TG三一一便はカルカッタのレーダーから消えた後、消息不明」

二度目のテロップも同じだった。

直樹は自分を落ち着けさせようと更にビールを注いだ。

その時だった。電話のベルがけたたましく鳴り、チャンドラの絶叫が耳に入ってきた。

「クンさんが来ない、TGが消えた」

「落ち着け、現地の状況はどうなんだ」

「空港は大騒ぎだ、軍隊がインドとの国境へ向かっている」

「国境ってルンピニの方か」

「そうだ、ルンピニ近辺で目撃者が居るらしい」

直樹はルンピニ、釈迦の生誕地と聞いて体が凍りつきそうになった。

「ルンピニか」

「ナオキどうしたらいい」

「バンコクへ電話してみる。クンさんが確かに乗っているのか確認してみないと、悪いが一時間ほどたったら又電話を掛けてくれ」

「解った、こちらも出来るだけ多く情報を集めておく」

ナオキは受話器を取り直すとミリオネックスへ電話を入れた。果たして半狂乱のランが居た。

「ナオさん、クンが、クンが」

「わかっている、こちらでニュースを見て電話を入れたんだ。しっかりしろ、クンさんは乗っていたんだな」

「勿論よ、私が空港まで送っていったのよ」

「そうか」

ナオキは一縷の望みが切れた、と感じた。

「未だ墜落したとは限らない、ネパールの情報はチャンドラから刻々入ることになっているから安心しろ」

「私はどうしたらいいのか」

「江本は居ないのか」

「ワタルは居ないの、ミヤコもジュディも丁度クンがバリへ行っている間から会社へ来なくなったらしいの、アキアットがそう言ってるわ」

ナオキには色々なことが見えてきて、或る予感が頭を擡げ始めた。

「もう少し情報を集めよう、俺は自宅にいるからランも会社にいてくれ」

ナオキはタイ航空の東京支店へ電話を入れたが、回線は容易には繋がらない。ネパールへの日本人観光客は多く、この便にも相当数の日本人が乗っていることが予想された。

更に時間が過ぎている。

すっかり暗くなった部屋の中はナオキの吐き出す煙草の煙が充満し、テーブルの上には空になったビール瓶が所狭しと並んでいる。

全く汁気の無くなった鍋の中では、堅くなった豆腐が小刻みに踊っている。

直樹がそれに気が付き火を止めようとした時、テレビの画面に再びテロップが流れ始めた。

「消息を絶っていたTG三一一便らしき機体の一部を、ネパール国境付近にて発見」

 『死んだわけじゃない』

直樹はチャンネルを変えた、NHKでは深夜の特別報道番組を流していた。

「今夕、ネパール空軍の発表に依りますと、バンコク発カトマンズ行きのTG三一一便はインドとネパールの国境付近にて突然消息を絶ち、現在機体の一部を回収している模様です」

直樹は大きく息を吸って新しい煙草に火を点けた。灰皿は既に吸殻がはみ出している。

「只今新しい情報が入りました。機体の本体部分を発見し、近辺には遺体らしき物が散乱しているとのことです。尚、当機に乗って居られた日本人搭乗者のリストは・・・・・・」

直樹はランへ電話を入れた。

「駄目だわ、駄目なのよ。ナオさんお終いよ」

ランは泣き叫んでいた。

「落ち着け、アキアットに替わってくれ」

「ランは今ちょっと手が付けられる状態ではありません。先程タイ航空から電話があって、明朝家族を連れてカトマンズへ行くから、身元確認が出来る人を用意して欲しいと言ってます」

「絶望的か、アキアット、しっかりしろよ。で、誰が行くんだ」

「ランが行くと言っています」

「わかった、二、三日以内に私もバンコクへ行く。君が皆をまとめて元気づけておいてくれ」

直樹は混乱する頭を鎮めようと更にビールを注ぎ、気が付いた時には窓の外に弱々しい太陽が昇りだしていた。

 

バンコク空港へは冷静さを取り戻したランが迎えに来ていたが、足取りの不確かな彼女をアキアットが後ろから支えている様子であった。

「これしか無かったわ」

涙声に戻るランが見せた物は、びしょ濡れになったパスポート一冊だった。

そのパスポートの縁は焦げ跡が残り、インクは滲み出してはいたが、そこには生真面目なクンの顔があった。

直樹が顔を近づけると焦げ臭い匂いがまだ残っている。直樹は天を仰ぎ嗚咽した。

アキアットも泣き、ランも泣きじゃくった。

 

タイの葬儀に就いては既に述べた。

葬儀の席上直樹と龍華は親族並に扱われ最前列に座らされた。

壇上を彩る数多くの供物は日本のそれとは全く違う華やかさを持ち、その中央に薄汚れたパスポートが、写真のあるページを開いて置かれている。

「クンはナオキさんを本当の親友だとよく言っていた」

直樹は頷くばかりであった。

「私はクンとは永い付き合いだったが、ナオさんとの間柄には勝てないと思っていた。

日本人は仕事に関してはきついことを言うが、後で考えるとそれが正しい方法だとわかったとも言っていた」

直樹は黙り続けている。声を発すると涙声になりそうで辛かった。

僧侶達の何度目か読経が終わると、その場で食事となる。

親族と僧侶達は堂内で摂るが、他の弔問客は境内に設えられた座席で野外の宴となる。

クンの生前の徳を表すように、境内の人波は大きなうねりを見せ、新しく訃報を聞いて駆けつけてくる人は後を絶たない。

一様に参列する女達は涙を拭い、男達も俯いて黙々と食事を口へ運んでいる。

直樹が壇上を見上げると、そこにはいつもの微笑みを湛えたクンが今にも話しかけてくるように見えた。

『ナオさん、何だよそんな顔をして、早く飯でも喰ってパッポンへ行こうぜ』 直樹は確かにその声を聞いた。

 

 

葬儀が終わり、ホテルのロビーに直樹はランといた。

「実はこんな手紙が私のポストへ届いていました。差し出し日はあの事故のあった日です」

「何だ、これは私はタイ語は読めないので」

「クンの遺書です」

「遺書だって、そんな馬鹿な」

「飛行機事故は偶然で、彼はネパールで死ぬつもりだったのです」

「何だって」

 直樹は咄嗟にクンから電話があった時のことを思い出した。

その遺書には次のような文章が綴られていた。

「愛するランへ

今日、私は空港で君と最後のお別れをしなくてはならない。勿論君にはそんなことを気づかれないように。

私は今これを書きながら、出会いの夜の事を想い出している。

父に会って貰った日のことも昨日のように思える。 あの時は君には辛い思いをさせた。

私が不祥事を起こし、仏門に入っている間も君は待っていてくれた。

その後の不甲斐ない生活も君が支えてくれた。

君には感謝のしようもないのに、今回の日本の大手スーパーとの取引でまたもや取り返しのつかない迷惑を掛けてしまった。

愛する人に、これほどひどい仕打ちをする私を私は許すことは出来ない。

私はこれからネパールへ行くが、バンコクへ戻ることは二度とないだろう。しかし君に最後の不祥事について説明する義務があると思い、これを書くことにした。

日本のスーパーCHUBUからの注文は上手くいっていた。

船積みの前に私が疲れた体を癒しにバリへ行ったことは君も知っているが、これが今から思うと私の甘さを表していた。

帰国するとワタルとミヤコとジュディの姿は消えていて、生産された筈の商品もない。

工場へ問い合わすと既に出荷されているという。私は慌ててCHUBUの野本氏へ電話を入れた、すると、コンペには確かに参加されたが、ミリオネックスへ注文を出したことはないと言う。

CHUUBUのブランドの入ったラベルやタッグはワタルによって偽造されていた。

つまりこの話は始めから無かったのだ。

ワタル達はCHUBUの注文と見せかけ、全ての商品をミリオネックスに作らせ、私の居ない間に何処かへ売り捌いてしまったのだ。

今更ワタル達を責める気はない。総ては私の仕事に対する甘さから起きたのだ。 ワタルに、湖の淵に潜む龍が再び天に昇ったなぞと煽てられたのだが、その龍には眼が入っていなかった、つまり『画龍点睛を欠く』と、言うことなんだ。

睛のない龍はその大きな図体を持て余し、君も知ってのとおり数多くの判断の過ちを犯した。

否、私は龍と呼ばれるほどの人物ではなかった。

老大やロンの才能やあの気力が私には羨ましいが、所詮私はその器ではなかったのだ。

自分を龍に例えるのは烏滸がましいが、行き場を失った龍は再び湖の底へ戻らねばならない。

私はネパールのルンピニへ行くことにした。ルンピニは釈尊の生誕地であり、仏に仕える私の死に場所に相応しいと思ったからだ。

釈尊に許して貰えるまで断食をして、やがて即身仏になるつもりだ。この手紙を読んで私を捜しに来ないで欲しい。私はルンピニの山中奥深く、土中で読経をしているから無駄だと思う。

こんな我が儘な人生を送った私を釈尊が導いてくれるとは思えないが、許して貰えるまで頑張るつもりであり、今度は自分を甘えさせない気力はある。

もし仮に慈悲溢れる釈尊の許しを得ても、君や従業員から無責任の誹りは免れないことも承知の上だ。

君とはとうとう結婚することは叶わなかった。

君がもっと人生をしっかりと踏みしめている男と出会うのを心の底から祈っている。

天使の棲む街、バンコクに生まれ、あの騒々しい中華街で育った私は本当に幸せだった。

異邦人の私をタイの人は快く迎え、温かくつき合ってくれた。

今度生まれ変わったら私も天使の一員となって、その羽を翔かせ世界中を飛び廻ってみたい。

そして君ともう一度出会うことを願って止まない。

 

最後に私の全財産である貯金通帳とミリオネックスの株券を同封しておく。

君のマンションを担保にした借入金の一部に宛てて欲しい、又君が望むならこの会社を継いで欲しいとも思っている。

ロンも直樹も助けてくれるだろうし、君ならこの会社を立派に再建してくれる筈だ。

君は私に人を愛することの素晴らしさを教えてくれた。

私は君の愛に応えることなくこの天使の街を去って行くが、いつまでもいつまでも君を愛している。

暁蘭そしてプミポン国王に幸あれ

 

宋 薫華

 

 

「最後まで君とタイを愛してたんだ」

「私に一言相談してくれれば良かったのに、それが愛じゃないの」

「クンさんを責めるな、彼も辛かったんだろう。悩んだ末のことなんだ」

「あんな優しい心を持った人は事業なんかやっちゃ駄目なのよ。私のように多少は心に翳りがあった方がいいのよ」

二人の重苦しい雰囲気とは対称的にホテルのロビーは華やいでいた。

今しがた結婚式を終えたカップルの周りを友人達が取り囲み、楽しげに談笑しているのが否応なく目に入ってくる。

ランが長い髪を束ねているヘアクリップを外して大きく首を振ると、その髪が左右に波打って揺れた。

ランは左の指先で髪の先端を掴むと、涙の残る目の前にそれを持ってきて呟いた。 「マールボロの匂いが染み付いているの。この残り香が消えるまでクンを忘れないわ、でもいつまでも残っているのでしょうね」

直樹はそれには答えず、彼女の背中を優しく抱き車を呼び寄せた。

「ナオキさんもお元気で」

ランの立ち去った車寄せに一人立ち尽くす直樹は、確かにマールボロの匂いを嗅いだ。

 

 

あとがき

 

 この小説を書き終えた頃の東南アジアの経済発展は目を見張る物があった。

 しかし、日本のバブルが弾けた影響はこの経済圏にボディブローの如く効き始め、九七年末にはロシアの危機に端を発し、タイや韓国をIMFの管理下に置かざるを得ない状況まで追いやった。そしてそれはインドネシアのスハルト大統領を退陣させ、マレーシアの為替管理の強化を余儀なくさせた。

 現在紆余曲折はあるが、東南アジアの景気も底を打ったのではないかという観測が聞かれ始めている。アジアは嘗ての植民地時代のそれではなく、今や十分な底力を持つ国々であると信じてやまない。

 とりわけタイは欧米列強に植民地化されることなく独立を保ってきた東南アジアの中で唯一の国である。

ベトナムの共産国化で、東南アジア各国は倒れるドミノの牌の如く次々と共産圏に組み込まれてしまうのではないかと言われた時期があった。

やがてベルリンの壁が崩れ落ちると、世界の社会主義国家は自由経済の正当性に目覚め、経済発展の為のレールを敷くのに血眼を上げた。

アジアでも中国、ベトナム、ラオス、カンボジア、ビルマと次々と市場経済を採り入れ始めたが、元来独立を保っていたタイは一歩も二歩リードしていた。

嘗て、タイはインドシナ半島の中で唯一政治が安定している国であった時期が続いた、先進西側各国はタイへと雪崩をうって投資をし、経済を発展させることによってこの砦を共産化から護ろうとした。

タイ経済は投資額でこそ倍々ゲームを楽しんできたが、その貿易赤字は未だ解消されていない。西側の活発な投資がこの様な現象を招いたのも事実であるが、それによってタイがインドシナ半島の中で経済発展の常にトップを走ってきたのも事実である。

私はこの経済発展を続ける東南アジア各国に非常に興味を持ち、前回のインドネシアに続きタイを今回の題材として選んだ。

  前著「バリの宴」と同様一国の経済発展は、指導者の選んだ国家体制によってその大半が決まると私は思っている。

戦国時代、信長は『楽市楽座』の制によって商人達の自由闊達な市場経済に任せた。 中世の『座』とは一種の排他的な組合である、競争の自由が無い経済には、発展が無いことを信長は知っていたのである。信長の新しい城下町が賑わいを見せたのも当然の帰結であった。

住民の自治によって運営された堺の繁栄振りや、現在のフリーポート香港やシンガポールの発展振りを見ても、規制のない自由なる市場が如何に人心にやる気を起こさせるのかを歴史が証明している。中国の経済特区しかりである。

しかし東南アジアの発展を支えているのは、右の環境を与えられた華僑に負うところが多い。

アセアンの中でも、経済の発展の立ち後れが目立つフィリピンのその原因の一つは、国民性にも依るが、総人口に占める華僑の割合の少なさにも起因していると私は思っている。

私は職業柄多くの華僑ビジネスマンを友人に持つが、彼等のビジネスに対する積極性は貪欲さを通り越して驚異的である。

発展が始まったばかりの国家では、明治維新後の日本思い出せば解るが如く、何を始めても一番手であって、その殆どが成功する。彼等に言わせると、無人の地を駈ける抜ける虎の如く、面白いほどに儲かるらしい。

文中の龍華のような人物が、次々と成功を収めていくのは決して夢物語ではない。

  「バリの宴」でも、次々と新事業を展開していく華僑ビジネスマンを登場させたが、彼等にとっては儲かって当たり前であって、この環境内で失敗する奴は余程能力のない奴に見えるのである。

そんな華人社会の中で、仕事は正確であるが、心の優しさが故にビジネスマンに成り切れなかった主人公を設定してみた。

彼は私にとっても海外で初めて持った親友であった。彼の名誉のために言っておくが、文中の彼の行動は総てフィクションであるが、カトマンズ行きのタイ航空の事故でこの世を去ったことは真実である。

確かに彼は他の華人に比べて商売上の脇の甘さが目立ち、私もよく「クンさんは、優し過ぎるよ」とか「簡単に人を信用しちゃ駄目だよ」と、言った物であるが、逆に「梶浦は自分だけを信じているからね」と、皮肉を言われたこともあった。

事実は、彼には奥さんと幼い女の子が居た。私は今持って彼等や彼の兄弟とも交際しているが、クンさんの話題になると辛い物がある。

若くしてこの世を去ったクンさんを、私は幸福者だったと今でも思っている。

しかし、事半ばでこの世を去った友に、私はこの小説を捧げ彼の冥福を祈りたい。

 

 

 

              梶浦康一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       天使の街の華人達

 

 

 「アジアは多様である」

 これは一九九四年ジャカルタで催されたアジア太平洋会議(APEC)終了後参加国の高官が洩らした言葉である。

 「こんなに価値観の違う国家が集まって会議をしても、何も決まらない」

 こんな様な意味だと私は解釈した。

 概ねアジアとは、黒海からエーゲ海へ抜けるトルコのボスポラス海峡以東を言う。世界の先進地域であった欧州はこのアジアを欧州に近い方から、近東、西アジア、南アジア、東南アジア、東アジアそして極東アジアと呼んだ。

 ヨーロッパ人は、バスコダ、ガマやマルコポーロを筆頭として豊かなアジアを発見し、その富を本国へ運び込もうと企て、十字架を首からぶら下げたキリストの子供達は、その懐に短銃を隠し他の兄弟に遅れを取ることなく、一気にアジア諸国へ雪崩れ込んだ。

 新興国家であるアメリカも送ればせ乍ら太平洋を乗り越え、日本近海へと出没し始めた。

 彼等は、ランプ用の油を鯨から採るためそれを追って居る内に日本へ到達したのである。遠洋漁業である、水や薪が要る。彼等は鎖国の日本へ捕鯨の中継地としての開港を求めた。

 余談ではあるが、彼等は鯨の脂肪から油を採ると、肉や骨は棄てた。従って伝統的に捕鯨をする日本やイヌイット(エスキモー)とは鯨の利用目的が違い、自ずからその捕獲量も莫大であった。

 現在捕鯨禁止の旗振り役をアメリカが努めているが、この歴史を知れば彼等の説得力には限界があると思わざるを得ない。

 国家の主義主張、論理は人類の正義や真理を求めているのではなく、当該国家のある時点に於ける繁栄の為の理論である事が多い。

 旦て、「日本の総理大臣はトランジスターのセールスマンである」と言った欧米国家があったが、この時期のペリー提督は捕鯨組合の理事長と何ら違うところはない。

尚、この時代のアメリカ人漁師の多くが小笠原諸島に棲み着いて、その末裔達が日本に帰化し現在に至っている。

一方ヨーロッパ諸国はアジアの富を得る為に安い労働者を調達しなくてはならなかった。アフリカ人をアメリカ大陸へ送り込んだ様に、インド人、パキスタン人、中国人をアジア諸国へ植民した。

アジア諸国の多くは陸続きである、古来より漢民族、タイ族、ビルマ族、マレー人等数多くが年月を経るにつれて少し乍ら混ざりつつある状況であったが、ヨーロッパのアジアからの簒奪が露骨になるに連れて、このアジアの諸民族は更に強く掻き混ぜられた。

アジアの多様性の原因のひとつはこの植民政策にあり、もうひとつはトルコ以東を全てアジアと呼んだところにある。

アジアは少なくとも四地域に分類すべき広さを持っている。即ち、アラブ圏、イランから旧ソ連のイスラム国家迄のペルシャ圏、インド圏、中国文明の洗礼を受けた日本を含めた中華圏である。現在の日本人である私共が言うアジアとは、この中華圏と精々インド圏迄であるような気がする。

古来より中国はこの地域の先進国であり、この地域の文化の発信地であった。 周辺地域の国家は朝貢として様々な貢ぎ物を持ち中国皇帝に拝褐し、その見返りとして持ち込んだ貢ぎ物の数十倍に匹敵する土産物を拝領し、更に中国の新しい文明や技術を自国へと持ち帰った。

中国歴代皇帝は中国が世界の中心であると考え、それを「華」即ち中心の華、中華と呼んだ。海を越え、砂漠を越え僻地から国の体を成さない部族の酋長が何某かの貢ぎ物を持って従属の証しとして挨拶しに来る。

「可愛い奴め、何か奴らが見た事も無い物でも持たしてやれ」

右の国のひとつである日本を「倭」と呼んだ様に、「華」に属さない人々は人間ではなく蛮人であると考え、凡そ人間には用いないであろう漢字を周辺国家に宛てた。鮮卑、夷、戎 、蕃、狄、共に中華文明に浴さない野蛮な外国人(えびす)と言う意味である。

現代の韓国でも戦争体験のある年配者には日本人の事を「倭奴」と、蔑んで呼ぶ事がある。

 日本は千数百年来「日本」であったが、中国と言う国家は無く「秦」であり「漢」であり「唐」であった。現在の中国の版図に成ったのはやはり中原の王朝に朝貢と掠奪を交互に行っていた満州人に依って統一王朝が樹立されて以来の事である。

中国最後のこの王朝は漢民族ではなく、満州族によって建てられた「清」である。やがて清王朝が滅び、孫文、蒋介石、毛沢東が順次その版図を受け継いだが、この版図内に住んでいる人々は、漢民族としての自覚はあったであろうが、決して中国人民としての自覚は少なくとも清王朝以前は無かったと思われる。

日本人が「大和民族」を共通項にするように、彼等の共通項は「漢民族」であり「中華思想」である。漢字を使い、華文明に属している人々が同族なのである。何処からともなく現れて、勝手に造られた王朝、国家に対する忠誠心は無く、関心事は国家の繁栄ではなく同民族の繁栄であって、更に誤解を承知で言えば家族と個人の繁栄が彼等の人生の主眼である。

 新しい王朝が樹立される度に多くの漢民族が、家族、個人の、生活を守る為に、この国家を棄てて海外へ出ていった。

 清王朝から毛沢東の共産主義国家へと革命が成された時の夥しい移民は、現在のカリフォルニア、横浜、神戸、バンコク等に数多くの中華街の礎を築いた。この状況は幕末の日本にひたひたと押し寄せた欧米列強に対抗し、明治維新を成し遂げた日本人が、国家意識は少ないと雖も、その国を棄てる事は無かったのとは対称的である。志士と呼ばれる彼等の多くは国家の行く末に身命を賭して一生を捧げたのであり、太平洋戦争も然りであった。

 しかも中国と云う地域に住む人々の判断は日本人のそれとは違い、文化大革命の時も大量の教養人や経営者等の中流階級の移民を生んだ。

 繰り返し述べるが、この漢字を使う民族は中国と云う国家に支えられているのではなく、個人の利益を追求するところに価値観を見出している人々なのである。

 

第一章 旅立ちの夜

タイの首都クルンテプ、天使の都と云う意味があり、通称はバンコクである。 古代タイ族は現在の中国雲南省に源を発し、九世紀末頃より西へ南へと民族移動をし始め、一二世紀にはインドシナ半島の中央部へと進出していた。

タイの別名に「シャム」があるが、これはカンボジアの先住民族のクメール族によると「野蛮人」を意味するとの事である。

右の事が意味する様に古代タイ人はクメール人のアンコール王朝の支配下にあり、その民族は多方面に分散しひっそりと生きていた。現在も中国南部やカンボジア、ベトナム領内に少数民族として残っているのはこの時代や後のカンボジアとの版図争奪時代の名残である。

 アンコール王朝の衰退と共にタイ族は念願のタイ族による統一王朝をスコータイに建て、やがて山田長政で日本人にとっても馴染みの深いアユタヤへと王朝は変遷し、このアユタヤ朝はクメール文化や、この地域の先住民族モン族の優れた文化を取り入れその勢力を増し一八世紀までの長期政権を誇ったのであるが、しかし前述のビルマやカンボジアとの戦いに疲弊したこのアユタヤ朝も一七六七年ビルマに征服され、その永い歴史に幕を降ろす。

この時アユタヤ朝の武将に依りバンコクの対岸にトンブリ王朝が開かれるが、この王朝は一代限りであり、その将軍、後に有名なラマ一世が一七八二年バンコク王朝を建て、現在に至っている。

人口六〇〇万人のこの街には有名なチャオプラヤ河を中心として、大小様々な河川網が東西南北に走っている。

経済発展に伴ってバンコクは爆発的に膨張し、一九七五年には人口四〇〇万人余りの街であったのが、今や前述の人口に迄増え、それに従って種々の弊害が生み出されている。

高度成長期の日本にも東京へ人口が流入し定着する現象が見られたが、現在発展し続けるアジアの首都の全てにこの現象が見られると言っても過言ではない。

それに対応すべき交通網の整備等の行政は例外なく遅滞し、後手後手に廻るのは現実に即応出来ない官僚機構を例に曳く迄もなく、行政の宿命とも言えるべきものであり、バンコクも例外ではなく、主要道路は車で溢れ、世界で最も悪名高き交通渋滞を見せている。

地盤の軟弱さに加え、役人の賄賂の取り分の決定に時間が掛かると云う東南アジア的意志決定の過程で、地下鉄の建設も儘ならず、庶民の足としてこれら大小の河川群が利用されている。

そんな水上バスが行き交う大河チャオプラヤ河の畔には、仏教の都らしく黄金

煌めく寺院が聳え立ち、この王都に黄昏が訪れようとする頃人々は帰路を急ぎ、ラッシュが始まりだす。

この夕陽に映える寺院群の中の水上レストランに宋薫華が居た。

一九七八年のこの日彼はタイの名門タマサーク大学を卒業し、同じく幼な馴染みで、同大学卒業の莫龍華を待っていた。

名前からわかるように二人とも華僑である。

中国の男性の姓ではなく名前に「華」の一文字が付くのは珍しく、通常は女性の名前に用いられる漢字である。

薫華と龍華は「華」という珍しい漢字を共有し、バンコクの中華街で生まれ育った。

バンコクの中華街は、中心より西方に位置しサンペンと呼ばれる雑貨街を取り囲む様に繁栄し、この一帯の土地の所有者はタイ国王であって彼等は間借り人に過ぎないが、この間借り人達がタイの経済を動かしているのも紛れもない事実である。

このチャオプラヤ河に面している水上レストランは中華街から比較的近い所にあった。

レストランの座席が次々と埋まってゆく頃もうひとりの「華」龍華が現れた。

「クン、大分待たせた様だな」

慎重一八〇センチ近くの偉丈夫である。精悍な顔つきは両親が「龍」の一字を「華」に加えた事が自然に見える。

「いや、今来たばかりさ」

「クン、そこがお前の優しいところだよ。そこの灰皿の中にもう吸殻が一〇本はあるよ」

「何か興奮しちゃってさ、早い内に着いたのさ。それよりロン、早く注文しようぜ、俺は腹ペコなんだ」

「何だ注文まで、俺を待っててくれたのか。相変わらず人に気を使う奴だな」

ロンはボーイを呼ぶとテキパキと注文し、タイでは一般的なビール、シンハを頼んだ。

「流石にレストランのオーナーの息子だ。注文が早いね」

「知っているかもしれないが、このレストランは親父の店なんだ。今日の勘定は親父からの卒業祝いと云うことさ」

「最後の臑かじりか」

「そうさ、明日から俺は親父の世話には一切ならずに一人で生きていくつもりだ」

「やっぱり就職はしないで商売をするのか」

「まぁな。取り敢えず屋台でも曳こうかと思っている」

「タマサーク大学経営学部卒で屋台引きか、思い切った決断だね」

「知っての通り、俺は勉強はあまり好きじゃなかったし、出来もしなかった。この大学だって親父のコネで入ったも同然だし、特にプライドに傷が付くと云うわけじゃない」

中華街の幼な馴染みである二人は小学校より仲が良く、名前の通り大人しい クンは勉強はよく出来たが、よく近所の悪ガキに泣かされていた。そんな時決まって助けに来たのが大柄で喧嘩の強かったロンであった。

然し、勉強の面ではクンがロンを助け、静と動、智と力二人のコンビは他の友人からも二人は将来結婚するのではないかとからかわれる程の間柄であった。

ロンの父は、一九四〇年に中国共産党の力が大陸全土に及ぶに従って陸路ラオス、カンボジアを経てバンコクへ流れ着き、中華街へと身を潜めた。

苦力として、ありとあらゆる労働をしてやがて麺売りの屋台を借り独立した。

朝早くから夜中遅くまで身を粉にして働く彼に金銭が貯まらない方が不思議であった。一九五六年、ロンが生まれる頃には中華街の裏町で小さな飲食店を開業するに迄至っていた。文字通りの家業で、ロンも店内で寝食を専 らにし、小学校へ通う頃には店へも出て一端の料理見習い人程度の技は持っていた。

長男や次男は高等華人学校迄しか行かせて貰えなかったが、相次ぐ彼等の暖簾分けによって莫家の経済状態は日増しに良くなっていき、三男であるロンは、兄の援助も受け大学に迄行かせて貰った次第である。

右の事は移民一世の華人家庭によく見受けられる状況である。又、異国で成功を収めた華僑は、創業者の父を長男が継ぎ、経済的に豊かに成るに連れて次男、三男を医者や弁護士にするケースが多い。

彼等は異国人である。如何に子弟が有能でも官僚や政治家、又大企業の幹部への道は閉ざされていて、社会的にも尊敬され経済的にも恵まれる職業として前述の医者や弁護士を選んだのは至極当然であった。

然し、ロンの父には誤算があった。

ロンは既述の職業に就くには余りにも器が大きすぎた。更に、野心も常人では計りしれない物があった。

「親父も屋台引きからここ迄成り上がったのだから、俺もやってみようと思う。親父と違って基礎はあるのだから、そんなに苦労は無いとおもっているよ」

「ロンの発展家振りには頭が下がるよ」

「クンは成績も良かったから就職も楽だろう」

「成績は別にして、折角貿易の勉強をしたのだから貿易会社へ入ることにしたよ。お前みたいに出世は望まないが、大学で勉強した事をタイ国の為に役立たせたいんだ。それが我々華僑を温かく迎えてくれたタイ国民やプミポン国王に対する恩返しだと思ってね。それに俺の父は高校の教師だ、金も無い。独立するなんて夢の又夢さ」

タイの華僑の出身地は潮州 が主である。

潮州は台湾の対岸にある福州 や廈門のやや南方に有り、レース編みで有名な 仙頭の真北に位置する。

台湾の対岸の福建 省(ホッケンとも云う)は古来より海の民で海外移住者が多い。因みにシンガポールやマレーシアの華僑はこの福建省の出身者で占められている。

福建省の南部が、香港の位置する広東 州であり、各々に個別の言葉が存在するが福建、潮州 、広東語はお互いに全く通じない言葉ではない。

薫華も龍華も漢字は殆ど読み書き共に出来ないが、華僑の子弟として潮州語はどうにか話せる。

つまり広東人や福建人と会話がなんとか出来ると云うことになる。

余談であるが、東南アジアに棲む華僑同士は英語又は北京語で会話をすることが多いが、談論進むに連れて、自分の得意とする福建語や広東語が混ざってくるが結構それでも会話は繋がっている場合が多い。

漢字は表意文字であって、アルファベットの様に表音文字ではない。

従って彼等は正確に発音することには頓着していない。

韓国人名を日本語的読み方で発音し、物議を醸し出す様な問題は日中間で起きないのも右の理由に依る。

筆者も広州の銀行で両替をした時、漢字で姓名を記す欄しか無いので緊張して自分の名前を呼ばれるのを待った。果たして、窓口の銀行員が呼んだのは「レンポーカンイー」であった。梶浦康一である。事前にある程度推測はついていたので狼狽する事は無く無事に両替を終えた。

執拗にもう一例を挙げる。

中国の最高指導者を我々はトウショウヘイ( 小平)と呼ぶ。

華人と英語で話している時、彼の名前を出さざるを得ない状況になって困って「トウショウヘイ」と発音した。相手はそれには全く違和感示さず、「ティエンシャオピン」と続けた。つまり、私が「トウショウヘイ」と発音した時、彼の頭の中には「  小平」と云う漢字が浮かび、彼の発音で「テェンシャオピン」と云う肉声に変わったのである。

既述したように、彼等は漢字で話しているのであって、アルファベットのように正確な発音を気にはしていない。

蛇足であるが 小平は「デンシャオピン」とも「トンシアオピン」とも発音される。韓国の抗議に依って、最近はマスコミも韓国語の発音で人名や地名を発表するため、我々も日本語以外でこの人名や地名を喋る事が出来るようになり非常に助かっているが、依然として中国名については不便を感じている。

蛇足を続けると、韓国人は「大阪」をデハン、中国人は東京をトンチンと発音し、彼等も我々と同様の漢字の民のハンディキャップを抱えていると思うとマスコミや教育界による早期解決を願わざるを得ない。

然し、最新の研究に依ると、仮名やアルファベットのような表音文字を脳が認識する場合、画像パターン、音声化、意味認識の三段階を経るのに対し、漢字の様な表意文字のそれは音声化段階無しの二段階で処理を行うとの事である。

よって、トウショウヘイを脳が音声化する事無しに会話は繋がって行くと云う事である。

「クンの親父はバンコク生まれだったな」

「ああ、ウチは曾祖父が潮州生まれで、ベトナム、カンボジアが永くて、晩年祖父を引き連れてタイへ移住して来たらしい」

「宋家としては、十分にタイ国民に成りきっていると言う訳だ」

「俺の体には華人の血が流れてはいるが、自分は忠実な国王の臣下、タイ国民だと思っている」

「俺だって華人のプライドはあるし、人一倍タイ国民としての自覚もあるし、タイ国を愛している」

「ロンの愛国主義は学校でも有名だった。お互いに華人の誇りを持ってタイ国の為に頑張ろうぜ」

シンハビールがクンに急激な酔いを与え続けている。

「ロン遅くなって済まない。女の子の調達に時間が掛かってね」

虚ろな視線でクンが振り向くと同級生の嘉誠が三人の若い女の子を従えて立っていた。

「シン遅かったな。クンも出来上がっちゃてるんだ。早く座って、其方のお嬢さん方を紹介しろよ」

「先ず俺にも一杯飲ませて呉れよ」

嘉誠はビールを一気に飲み干すと、勿体をつけて話し出した。

「よく聞けよ。此方は名門チェラルコン大学に在籍中の深窓のご令嬢の面々だ」

三人は明らかに照れくさそうな素振りを見せたが、純粋なタイ人に見えた。

「固まって座っていないで、我々の間に入って下さいよ」

ロンは酔いも手伝ってか大胆だった。そして、クンの隣に座った女の子はランと名乗った。

三人の中で彼女だけが他の二人より色白で、深窓の令嬢にしては闊達である。

夜風に乗って運ばれてくるタイ料理は独特の香辛料と、ナムプラーと呼ばれる魚から作られる醤油の香りを放ち、若い六人の食欲を次々と満たしてくれる。

帰宅する人々も減り、水上バスが見えなくなった川面には食料品や果物や土産物を積んだ船が行き交い、観光客を見つけると巧みに小舟を操りレストラン間際迄近寄って来る・

クンは好物の鯣 を見つけると五枚ほど買いテーブルの上に載せた。

「クン、大丈夫か、酔っているんじゃないのか」

「大丈夫(マイペンライ)、心配ないよ(マイペンライ)」

「マイペンライはクンの口癖だな。これからは毎日聞くと言うことも無くなるな」

「何をしんみりしているんだ。景気付けにディスコでも行こう。最近オープンしたばかりのブルーハワイにアメリカの最新ヒット曲が沢山入っているらしいから」

「らしいわ。アメリカ軍からの横流しだって噂よ」

ランはその色白の顔に赤味を帯びているが、他の二人はコーラを飲んでいるだけでシンハーのグラスには口を付けていない。

経済発展が目覚ましい現代とは違い、七〇年代の後半のタイで衆人の中でアルコールを飲んだり、煙草を吸う女の子は皆目いないと言い切っても間違いは無い。

「よし、行こう」

若者らしく六人は勢いよく立ち上がった。

「一本頂戴ね」

ランはクンの胸のポケットからマールボロを取ると火を点けさせた。

六人は二台のサムロー呼ばれる三輪のタクシーに分乗した。三輪の座席は狭く通常は二人乗りである。クンにぴったりと体を寄せて来るランの熱い血潮の流れが、彼女の太股を通じて押し寄せて来るのがわかる

 南国の夜風ともランの体温とも区別の付き難い生温かい空気がクンの周りを包んでいる。

サムローは水上レストランから東へ向かい、シャム広場に隣接するショッピングセンターの角から南下すると、眼前にはバンコク最大の歓楽街パッポン通りが

広がっている。

「そこよ、そこを左へ入って」

ランは叫んだ。

「ランってパッポンに詳しいの。女の子はあまりここには来たがらないのに」

クンは訝しげに訊いた。

「まぁ、ちょっとね。あっ着いたわ」

ランは自ら先導して入っていく。

「シン、ランってここのディスコへはよく着てるのかい。ヤケに慣れている感じがするんだけれど」

「金持ちのお嬢さんなら来てるんじゃないの。いいから踊ってこいよ」

シンも多分に酔いが回っている。クンも強かに酔った。

 

夜半、喉が渇いて眼を醒ますと、ランが隣のベッドで軽い寝息を発てていた。

「クン、起きちゃったの」

「どうして君がここに居るんだ。ロンやシンはどうした」

「覚えていないの。皆酔っぱらってバラバラに帰ったみたいよ、ディスコを出て屋台でバーミーを食べたでしょ」

「覚えてないな」

クンは頭を強く左右に振った。

「あなた一人でフラフラしてるから、私が手を引いてこのホテルへ連れて来たのよ」

「そうか、それは済まなかった。

・・・・・・ひょっとして、俺、君に失礼な事をしなかったか」

「いいえ、失礼な事はしていないは、でも、楽しい事はこれからよ」

ランは束ねていた髪を一気にほぐすと、クンのシーツの中へ滑り込んできた。

二二歳のクンには情に絆される事無く、彼女を拒否する程の自制心が芽生えているはずもなくランの体を弄 り乍ら「マイペンライ、マイペンライ」と呟 いていた。

翌朝宿酔い気味の頭を指で押さえ階下のレストランで朝食を摂っていると、ランが意外な事を言い出した。

「私の本名は蘇暁蘭 。中国人の父親が居るの、でも母親はタイ人よ」

「道理で、色が白いと思ったよ」

「妾腹の子よ。驚いた」

「そんな事はないけど」

「でも、チェラルコン大学在籍中と言うのは本当よ。私は父に買って貰ったマンションで一人で暮らして居るの。父は私の所へも月に一度はやって来るわ。

勿論、授業料も父が払っているし、生活費位は貰っているわ」

「・・・・・何と言うか、・・・・・」

「わかるわ。でもクンも知っての通り、金持ちのタイの男って妾の二人や三人は持っているでしょ。タイの女ってそれを知ってて我慢し夫の為に働いているのよ」

「俺はしないよ」

「クンは真面目そうだけど男ってわからないよ。妾になる女の子の方もその方が楽なのよ、絶対に生活は安定するし、故郷にも仕送りが出来るしね。

でも私は母の様な道は選ばない。だから大学まで行ったのよ」

「人生、考えてんだ」

午近くになったレストランには多くの外国人男性とタイ人女性のカップルが入って来ている。

クンは次第にはっきりしてきた頭の隅でここが連れ込みホテルだとわかってきた。

「ゴメンネ。こんなホテルへ連れて来ちゃって」

 

頭の回転の速いランは、クンが気が付いた事を察している様であった。

「蘇暁蘭か。それでランなんだ」

 

ランは頷くと続けた。

「でもさ、私は中国人とは結婚できないよ」

「今は、中国人、タイ人の区別なんてないさ。現に君の様な混血も世の中いっぱいいるしさ」

「そうじゃないの。クンならわかってるじゃない。華人の家族って花嫁には処女しか認めないって」

「そういう家族も残っているらしいけどね」

「大半よ。クンだって親の勧める出自正しい家柄のお嬢さんを貰うんだから」

「俺は自分の女房は自分で決める。俺の家は金持ちでもないし、出自正しい家柄と言うわけでもないしね」

クンはマールボロを彼女にも一本差し出して火を点けてやった。

「まぁ、がんばってよ。それより折角の出会ったんだから、時々は会ってくれる。何だか、私クンが気に入っちゃたわ。

純だし、私の持ってない育ちの良さみたいな物にも惹かれるの」

「会うのはいいよ」

「でも結婚はしないって」

「そんな事は言ってない」

「駄目、顔に書いてあるわ、純だから」

ランは悪戯っぽく笑うと自分の食べた分だけテーブルに勘定を置き、返そうとするクンに「出世したら奢ってよ」と、言い、勢よいよく街へ出ていった。

バンコクは今日も気温が三五度には騰っているに違いない。クンは先程までのランとの会話は忘れたかの様に、強い陽射しを身に浴びて精一杯背伸びをした。

「旅立ちの夜にして幸先がいいのか、躓 いたのか。マイペンライ、マイペンライと云うところかな」

 

そしてマールボロの最後の一本に火を点けると、その空になった箱を天に向かってポーンと放り上げた。

 

第二章 老大

 

クンは大盤谷貿易有限公司、通称GBTの繊維輸出課へ配属された。

「紹介しよう。宋薫華だ。潮州語と広東語が少し出来るそうだから、香港を担当して貰う。」

直属上司のナロング課長が課員にクンを紹介した。

「クンと呼んで下さい。皆さんの仕事の邪魔をしないよう、一日も早く仕事を覚えようと思っています。いろいろ教えて下さい」

「クン、そんな消極的な事でどうする。我が社はチャロン、ポカパン、CPグループの貿易部門を担当する将来性大の会社なんだ。日本のソーゴーショウシャを目指して躍進に継ぐ躍進をしているところなんだ」

 

CPグループの総帥であるタニン、チャラワノンは華人であり、クンと同じく潮州 の出身であって、タイの財閥系商社として発展の一途を辿っている。

「わかりました。頑張ります」

「チャムロン君、クンを預かってくれ」

ナロングは先輩格にあたるチャムロンを紹介した。

「君は広東語が出来るんだって、それはいい。私はタイでは少数派の福建出身系だから福建語はできるのだけど、香港担当に廻されて困っていたんだ」

「出来ると云っても日常会話程度ですし、漢字は書けません」

「私の福建語だって同じ様なもんさ。香港人としようと思うと接待が重要なんだ、そんな時君の広東語が役に立つという訳さ。早速、今夜接待があるからついて従いて来てよ」

夜の七時を廻った頃のバンコクのレストランはどこも満席に近い。

バンコクのレストランは二四時間オープンに近く、日本のように昼食時、夕食時と云うピーク時間はなく、いつ何時でも客で混雑している。

香港人は二人で来た。

「チャムロンさん、お招き頂いてありがとうございます。今日はお若い方もご一緒ですか」

「クンと言います。最近入社したばかりですが、香港担当に配属されましたので連れて参りました。潮州 系の華人です」

「未熟者ですが、精一杯やりますから、宜敷お願い致します」

「まぁ、固い挨拶は華人同士だ省きましょうや。こちらも若い人を連れてきましたので、紹介しましょう」

郭と名乗った初老のバイヤーはその左隣に座っている若者の方を向いた。

「彼は江本渡海。日本人なんですよ」

香港人の彼は広東語ではなく、普通語でリューベンと言った。江本と紹介されたその日本人は英語で自己紹介をした。

「私は日本のアパレルメーカーを二年程前に退職致しまして、現在フィリピンで洋服を作らせて日本のメーカーや問屋へ納めているんですよ。フィリピンだといろいろ付属品が不足していまして、日本の高品質の要求へ応える事が出来ない状況が多々ありまして、そんな時郭さんから輸入してフィリピンで使用していると云う状態なんです」

「日本人にしてはかなり巧い英語でしょ」

日本人はカタカナで話している事は既に述べた。

古代日本語が朝鮮古語から独立し一人歩きを始めた頃、日本文字と言える物はなく租税の記録や役所の取り決めを残しておくには無理があった。

これも朝鮮に倣って漢字を大和言葉に宛てた。やがて、それが簡略化され片仮名から平仮名へと変化していったのは衆知の事である。

従ってカタカナは表音文字であるが、アルファベットの様な柔軟性は全くなく、その時代の日本語には十分であったがかもしれないが新しい特異な発音の言葉には対応できないという欠点がある。

例えば、『V』『F』や『TH』等の発音には『ブ』『フ』『ス』と表記するが、これを元のアルファベットに戻すと『BU』『FU』『SU』となり、全く別音となる。

又、日本人には『L』『R』の発音が区別出来ないと言われるのも右の事に原因があるとすれば納得がいく。

典型的な例にフリーマーケットがある。フリーは『自由』であり、そのまま訳せば自由な市場と、なるが、欧米の広場で盛んに見られるフリーマーケットは蚤の市であって、FREEではなくFLEA(=蚤)である。

同じく、LOVER(恋人)ROBBER(泥棒)RUBBER(マッサージ師、消しゴム)の発音の差異も日本人にとって苦痛な例である。

言うまでも無く、右の文字はカタカナで『フリー』『ラバー』と、何ら区別なく表記される。

カタカナが日本語の表音文字として採用された時、日本人の語学下手は宿命的なものとなり今日まで続いている。

「私はフィリピンで英語をマスターしましたので、多分訛がありますが」

「フィリピンなら英語は公用語だ。殆どの人が公式的には英語で話しているからね。だが、香港の英国式英語 と比べると乱暴と言うか、やや品位で劣るがね」

郭は香港の英語に誇りを持っている様であった。

「我々タイ人の英語も語尾が曖昧で、初対面の人には聞き取りにくいとよく言われます」

「世界中には国の数だけ英語の種類があると思っていいのじゃないかな。シンガポールの人はシングリッシュを話すと堂々と自分達で言っているのだし」

「流石に郭先生 は国際人ですね」

チャムロンは「ミスタークァ」から「郭先生」へと敬称を代えた。

この敬称は中国では一般的に使われ、特に偉大なる人物に付けるものではないが、日本の「様」よりやや呼ぶ側の軽い尊敬の念が込められている。

私の中国に於ける経験であるが、日中国交回復前に広州に滞在した時宿舎に数人の人民解放軍の兵士が入ってきた事があり、通訳によると、彼等は外国人の宿舎に現れては海外情報の収集をしているのだと言う。

私の所へ来た兵士は日本の自動車の免許制度に付いて質問を浴びせかけた。私はくどくどと運転テクニックの事を説明するのではなく、そんな技術的なものは練習すれば誰でも一定水準へは到達する。寧ろ運転者の心構えの方が大切であり、其れによって妨げる事故は計り知れないと述べた。

今から思うと若気の至りで当たり前の事を大上段に構えて言ったものだが、その若い兵士はいたく感心し以後私の事を「先生 」と呼ぶようになった。

この事からもわかるように、自分より年上で多少は物事を知っている人に「先生」という敬称を付ける。

郭は少し恥ずかしそうに続けた。

「私は既に老朽だ。これからは君たちの様な若い華人がリーダーとなって、アジアの国々を日本や欧米先進国に負けない位のレベルに持ち上げて欲しい」

老朽と云うところだけは英語に訳せない様子であった。

『老いぼれ』と云うくらいの意味である・

「今までの華人は同国内や外国に住む華人同士でネットワークを作り事業を成功させてきた。それは先祖が同郷であったり、言葉が通じるという理由からだった。

しかしこれからの君達は狭い華人社会だけではなく、欧米や日本の資本や技術と組んでいかなければならない。

華人だけのムラ社会では発展の度合いは限られているからね」

「郭先生、同時に我々華人は華人社会の発展だけでなく、我々に生活の基盤を与えてくれた国家、いやその国民の生活向上にも力を貸さなくてはならないと思っています」

クンが珍しく持論を述べた。

「そうなんだ。君達のタイ国の中で華人は何割いると思う、一割弱だ。然し華人系四大銀行が商業銀行総資産の六割以上をにぎっている。インドネシアなどでは三%の華人が大企業上位百社中六〇社を占めている」

「フィリピンでもタバコ会社、航空会社、食品、紡績、不動産と、あらゆる産業がタン氏を始めとする華人達に依って運営されていますよ」

江本もフィリピンに於ける華人パワーの凄まじさには眼を見張る物があると言う。

七〇年代後半の華人パワーは未だ地域ナンバーワンの域を出ていなかったが、やがて後述する九〇年代には日本のバブル崩壊も手伝って、世界的なパワー連合として大飛躍する事になる。

しかし同時に各国民族の中にも華人資本に対する不満が燻り始め、インドネシア等では中国共産党に対する不安感も重なってしばしば華人社会を襲う暴動が起きていた。

「クン氏の言う通り、我々華人も最早華人社会の繁栄だけを考えている時代ではないと云う事だね。更に言えば、世界の人民の繁栄と幸福の為にその蓄積しつつある富を使うと云う事さ」

クンは黙しては居たが、何か自分の求めている物に突き当たった気がした。

「話が堅くなってしまったね。旨そうな料理が並んでいるじゃないか」

「郭先生、江本さんもどんどんやって下さいよ。タイ国は見た目貧しい国ですが、食料に関しては決して先進諸国に負けません」

チャムロンも上機嫌であった。

「これは旨いですね。何ですか」

「ミスター江本、それはオースンといって牡蠣と葱を炒めて卵と片栗粉で綴じたタイ風のオムレツですよ」

クンが我に返ったらしく説明した。

「そうなんですよ。不思議なことに日本の方は皆この料理を好むんですよ。江本さんもやはりそうですか」

「チャムロンさん、クンさん、私の事はワタルと呼んで下さいよ。これからも親しくさせて頂けそうだし」

「オーケー、ところでワタルは何歳ですか。私は二二歳なんですが」

「私は一九五二年生まれの二六歳ですよ」

「じゃあ私と同じ年だ」

チャムロンは同年代の友人を見つけて嬉しそうだった。

「若い時はいい。ワタルもフィリピンで成功したらバンコクにも手を伸ばすがいい。この国の将来は東南アジアの中でも抜群だ。何しろ欧米列強の時代に植民地にならなかったのはアジアでは日本とタイだけなんだから。まぁ台湾と韓国は欧米にではなく日本に植民地化されたんだけど」

郭はちらりと江本の方を向いたが、江本は気に留めていない容子であった。

「それも我が国王の聡明さのお陰です」

クンは間髪入れずに返答した。

「じゃあ、エリザベス女王とプミポン国王に乾杯だ」

郭はもう一度江本の方へ振り向いたが、江本に「天皇陛下万歳」と言う発想は無かった。

「私は老人だから、そろそろ帰らして貰うよ。大丈夫、帰り道はわかっている」

「晩安」と郭は言うと、しっかりとした足取りで去っていった。

「老朽なんてとんでもない。郭先生は老大と呼ぶに相応しい華人の誇りの様な人ですね」

クンはやや感動気味に呟いた。

 

数週間後クンはロンの安アパートを訪ねた。

「どうだい、屋台引きの商売は巧く行っているかい」

「順調さ。仲間の多くは小金が貯まると女房に屋台を任せて自分は博打三昧だから、競争相手なんて無いに等しいよ。それよりお前の方はどうなんだ。CPグループの社員ともなると大変だろう」

「先輩や仲間にも恵まれているし、香港貿易を担当しているんだがお客様も尊敬できる人が多いし、今は勉強に明け暮れている時かな」

「香港か、広東人には気を付けろよ」

「大丈夫。先日も立派な老大人とも言える人に会って感銘を受けたばかりさ」

「クンは人を疑る事をしない奴だから心配なんだ」

「それよりロン、真逆このまま屋台を引いて一生を終えるわけじゃないだろう」

ロンの住むアパートは人が歩く度に家鳴りがしている。クンも彼の部屋を見回してはこの様な質問をせざるを得ない心境になっていた。

「ここは仮の住居さ。今に大儲けをして親父以上の豪邸に住むつもりさ」

「先程話した香港の老大人も言ってたけれど、これからはアジアの時代だ。其れには我々の様な教育を受けた若者が国家の為、国民の為に働かなければならないんだ。自分の金儲けの事ばかり考えていてはいけないんじゃないのかな」

「クンはいやにその香港人に執心したんだな。俺だってわかっているよ。俺の商売が大きくなれば、それだけタイ人の職場が増えると言うことさ。小金を貯めて博打を打っていてもタイ経済は発展しない。各々の産業を大きくして、日本や欧米に追いつかないと、バンコク以外の地方には喰えない農民がゴロゴロいるんだから。

俺はそんな連中が娘を売らなくても喰っていけるタイにしたいんだ」

「ロンがそんな大きな事を考えているなんて知らなかったよ」

クンは気恥ずかしそうにマールボロを吸い込んだ。

「この商売を始めて一ヶ月近く経つが、一台の屋台では効率が悪いって事がよくわかった。俺は予め金があったから自分の屋台だが、他の連中は親分から借りているんだ。

売上の半分弱が屋台の借り賃さ。その上屋台を借りる時に麺やら肉、野菜全ての材料もそこで買わされるんだ。一日が終わって幾ら手元に残ると思う」

「ひどい話だ」

「親分と言われる奴等のほとんどが華人さ、俺の親父も一時はやっていたみたいだけど」

「それじゃあ必死に働いてもその親分だけが儲かる仕組みなんだな。博打に走る感情もわかるよ」

「そうなんだ。商売を大きくする資本を増やす仕組みを作らなくてはやっていけない」

「それが経営学部卒の仕事だと云う事か」

「まぁね。俺が今考えているのは、信販系の会社と組んで屋台引きを独立させてやろうという事なんだ。独立したい奴等に自分が買う屋台を担保にして融資する。それ以外に担保は無いだろうから利息は銀行に比べると高いのは止むをえない。が、しかし売上の半分を納める事に比べるとバカ安さ。そして俺は食材の共同仕入センターを作る。支払いは現金だが、親分の所で仕入れるよりは格段に安い。大量仕入だからね」

「屋台の総合コンサルタントか、凄いね、お前って奴は」

「クン、俺と組まないか、お前の頭脳が要るんだ俺には」

「俺は無理さ。商売に向いていない事は自分が一番知っている」

「やっぱりそうか」

ロンは一瞬落胆の色を見せはしたが、商売のドロドロした世界へクンを引っ張り込んだりしてはいけないと自分に言い聞かせた。

「俺自身も屋台を増やして、独立する勇気は無いが一儲けしたい連中に歩合制でやらそうと思っている」

「歩合制」

「そうさ、売ったら売った分だけ給料がふえる方法だ。ヤル気もでるだろう」

「売上の管理が難しいよ」

「わかっているよ。売上を誤魔化すと言いたいのだろう。そこは考えた。バーミーナム(ラーメン)一杯に一個だけ入れる具を決めるんだ。

そしてそれをこのバーミーの売り物にするんだ。その具が入っていないと客は文句を言う、販売員は必ず一個それを入れなければならない。

具の無くなった数がバーミーの売れた数と云うことさ」

「考えたね。それは、しかし麺の数を数えればいいことじゃないか」

「甘いよ、クンは。十人前のバーミーを作るとき九個の麺玉で作られたらどうするんだ。客の評判は落ちるし、一人前の代金は販売員のポケットへ入ってしまう勘定じゃないか」

 クンは小学校時代から大学時代を通じて、この様なロンの輝いている姿と理路整然とした話し振りを見た事がなかった。

「その一個しか入れなくて、プロモーシヨンにもなる具と云うのは」

「せれは悪いけれどクンにも秘密さ。秘密と言うより、未だ確定する程自信が無いと言った方が正確かな」

「期待しているよ」

「それより、あの夜クンとどっかへ行っちゃたランとか行ったけ、彼女とはどうなっているんだ」

「知ってたのか」

「皆知ってるさ。ランは皆バラバラに消えて、俺達だけが残ったと言ってたけれど」

「ディスコで踊っている内にお前達が消えたと言う方が真実に近いな」

「そうだったのか、何しろ俺は相当酔っていたからな。じゃあランが・・・」

クンは何故ランが嘘を付いたのかわからなかった。

「まぁ、それはいい。で、どうなんだ」

クンはあれ以来ランとは屡々会っていた。彼女のペースと言っていい程、ランは積極的だった。

気儘な独身暮らしのクンに彼女の接近を拒む理由はひとつもない。誘われるがままに会い、持て余す二二歳のエネルギーを消費する対象とした。

「会ってるんだな。シンに聞いたんだが、あの時三人の女の子が居ただろう。他の二人はランとは初対面だったらしい。偶々校内で話をしている時、シンが数合わせに誘ったらしい」

「シンも三人捜すのに苦労したんだ」

「ところが、シンが最近ランを見たと言うんだが。何処だと思う、外国人相手のカラオケバーなんだ」

「カラオケバー・・・・・・・・」

「そうさ。気に入った客とはホテル迄従いて行く、あれさ。街の何処にでもあるマッサージハウスの様に客に指名されれば誰の相手でもするのとはわけが違うけれど」

「まさか」

「シンが外国のお客さんを連れていったら彼女が居たと云うことさ。尤 も、彼女は別の席に坐って居たからシンには気付いていなかったらしいが。

クン、それを知っていて彼女とつき合ってるんじゃないだろうな」

「俺は知らなかった。他の二人に比べて彼女は遊ぶ所をよく知っていたし、ビールもタバコも飲るのには驚いたけどね」

「結婚するつもりは無いだろうけど、彼女には深入りしない方がいいと思うね」

「ああ」

クンは曖昧な返事をするより術はなかった。

「どうだい、俺はこれから酔客相手に屋台を引きに出掛けるが従いて来ないか」

「お前の仕事ぶりも見たいけど、今日はやめておこう。明日香港人を送って空港まで行くのが早いんだ」

「老大か、クンの尊敬する人と言う訳か」

「大事なお客様でもある」

本当の理由は今夜もランに会う約束をしていたからである。

「そうか、じゃ又会おう。今度は屋台のチェーン王になっている俺を見てくれよ」

「頑張れよ。俺も早く一人前になるから」

自分は仕事も半人前なのにランとの情交に毎夜の如く耽っている、反面その間ロンは日毎大きく成長してゆくような気がする。今度ロンと会うとき自分は真面に彼を見つめる事が出来るのだろうか。

このまま貿易会社の一社員として日々を徒に過ごしていて、あの老大の様な国際ビジネスマンに成れるのだろうか。

クンは滅入ってゆく感情を殺し、精一杯の元気を装って別れを告げた。

 

第三章    巫山の夢

 

クンがG・B・Tに入社して一年近くが過ぎた。

既に老大を始めとして幾人かの香港人バイヤーを任されている。

或る朝いつもの様に席に着くと一枚のFAXが机の上に置かれていた。

この香港の会社は香港裕華時装有限公司と云い・中国やタイで作ったファション関連グッズをアメリカへ輸出している会社であった。G・B・Tとのつき合いは永くはない。

問題もなく、取引額も大きくないという事でチャムロンの担当とされてはいたが、実務はクンが仕切っていた。

「チャムロンさん、裕華からですが先日注文を出した分のL/Cが遅れそうだけど、生産は遅らせないでくれと言ってますがどうしましょう」

「何故L/ Cが遅れるんだ」

「理由は書いてないのですが、銀行との交渉が長引いているのと違いますか」

「総額は幾らだった」

「九〇セントのTシャツ一〇万枚ですから九万ドルです」

「ちょっと大きいな。ナロング課長に相談してみてくれ」

「私がですか」

「そう、君の担当だろう。私は別件で忙しいのでね」

「わかりました」

ナロングはシンガポールへ出張中だったのでクンは仕方なくその日に結論を出すことは諦めた。

数日後血相を変えたチャムロンにクンはよばれた。

「例の裕華の件はどうなってるんだ。先方から私を名指しでFAXが入っている。返事を早くしないのならこの注文はキャンセルすると行って来てるんだ」

「しかし、あの時は・・・・・」

「しかしじゃ無いよ。生地の手当は済んでるんだろう。今更キャンセルされたらどうするんだ。早く課長に相談して来いよ」

ナロングは二・三の質問をしたが結論は出さない。

「裕華なら大丈夫だと思うけど、一応念の為調べてみよう。裕華にも何時ならL/Cがオープン出来るのか訊いてみてくれ」

L/ Cとは銀行の支払いを保証するシステムである。L/Cも届いていないのに生産に入ってしまっては、確実な支払いの保証も無いまま商品が宙に浮く可能性がある。

通常国際貿易では、船積みはL/C到着後OO日後とする契約が多い。

「チャムロンさんどうしましょう。工場からは裁断 を始めていいかと連日問い合わせが来ていますが」

「船積みが遅れても困るし、カッティングはいいだろう。工場へはオーケーを出してくれ」

クンは香港へ幾度となくFAXを流し、L/Cのオープン時を尋ねたが「もう少し待ってくれ」の、一点張りであった。

「チャムロンさんどうしましょう。裁断も終わってしまいそうですし」

クンはチャムロンの許可を得ているとはいえどこか気掛かりである。

「課長は何て言ってるの」

「調査中だからもう少し待てと言うだけなんですよ。シンガポールのお客さんとトラぶっていて、裕華どころじゃないみたいですね。あっちの方が取引額が多いから」

「課長が担当してるんだからビッグビジネスだろう。裕華の件も課長の承諾もなく生産を始める訳にはいかんだろう」

「ですがカッティングが・・・・」

「わかっているよ、布なら原価で売れるが製品となるとバッタ値段にしかならない」

「そうなんですが、そろそろ縫製に入らないと船積みには間に合いませんよ」

「わかっているよ」

チャムロンも苛立っているようで、つい大きな声を出した。

「済まない。もう少し待ってみよう」

更に二週間が過ぎたがナロングは相変わらず沈黙を守っている。

そんな時だった。銀行からの電話で裕華からのL/Cが届いたという連絡が入った。

「クン、オーケー大至急縫製に入ってくれ」

クンは工場へ縫製開始の指示を出すと、銀行へL/Cの書類を取りに行った。

L/Cの条件を見たクンは少し不安になった。船積みの日が約束の日より一週間早くなり三月三十日となっている。帰社すると香港へFAXを流したが、その返事は冷たい反応でしかなかった。

「今回は日本向けのTシャツなので、日本のゴールデンウィーク迄に納品しなくてはならない。何とか間に合わせてくれ」

余談であるがゴールデンウィークは和製英語であって世界には通用すべくもないが、不思議な事に東南アジアでは通じる事がある。日本人が長期の休暇を取ることが珍しく人々の口の端に乗り流通しているのかも知れない。

「日本向けか、世界で最も納期にうるさい国だ」

チャムロンのその言葉にクンの不安は一層深まり、多少の延長を頼むつもりで裕華へ電話を入れた。

「私達も出来るだけ三月三〇日に船積みをするよう努力するが、何とかL/C上の船積み日を四月一〇日にしては貰えませんか」

裁断は終わっているとは言え、今日は既に三月一〇日である。

「後は縫製だけなんだろう。二週間もあれば十分だと思うけど」

「縫製はいいのですが、検品、袋詰め、それに問題は輸出検査です。ご存じの通り我が国の役人がすんなりと許可を出す事は皆無に近いんですよ」

タイが如何に近代化されてきたとは言え、未だ役人が幾許かの金銭を要求せずに民間の業務を許可する事は少ない時代である。

こんな話がある。

バンコクの街中で火事が起きている時消防車は既に到着しているのだが消火活動に入っていない。不思議に思った或る外国人がタイ人に尋ねた。

「消防隊は何故火を消そうとしないんだ。水が無いのかね」

「ご覧なさい。火事の前で消防隊の隊長とその家の持ち主が話し合っているでしょう。あれは消火の報酬額について交渉してるんですよ」

これは伝説的な笑い話であるが、一事が万事右の様な役人の対応振りであるという好例である。

「輸出のライセンスを取るのも君の仕事だろう。我々は四月の朔日に荷物を受け取ってからプリント作業に入るんだ。

相手は日本人だ。一日の遅れも許さない完璧主義の連中なんだよ。

その上日本の流通機構は複雑だから、早目に納品しないとゴールデンウィークには間に合わないと言う事さ」

「わかりました。やってみます」

クンは受話器を置いたが自信は無かった。

仕事に追われ、疲れを癒す為にランを抱いた。

抱いていても納期の問題は間断なく彼の脳裏を襲ってはそれを占領した。

「クン、何か心配事があるんじゃない」

ランはいつもの様に長い髪を掻き上げ乍ら尋ねたがクンの返事は何時も同じであった。

「何もない。心配ない。マイペンライ」

が、しかし本心クンは仕事も忘れ、このままランの中に入ったままで世に出る事も無く、忘我の内を彷徨っていたい心境であった。

無情にも三月三〇日は足早にやってきた。

久し振りの雨の朝である。雨は沛然として降っている。

CPグループの保有するビルの窓外を漫然と見ているクンの肩を叩く者が居た。ナロング課長であった。

「クン、どうした心配そうだな」

「実は裕華の船積みが今日なんですよ」

「そうか、それで上手くいったのか」

「梱包までは全て終わっていますが、税関の輸出許可が降りません」

「降りないって、それでどうするんだ」

「たぶん今日許可されるだろうと言われているので」

「だろうって、許可されなかったらどうするんだ。船積み期限に間に合わなければL/Cに依る支払いは受けられないぞ」

「わかっています」

「どうしてもっと早く生産にかからなかったんだ。今まで何をしてたんだ」

「課長に事情は説明してある筈ですが、お忙しそうで相談に乗って頂けなかったので・・・・・」

ナロングは一瞬気まずい表情を見せたが狼狽えることなく言い放った。

「俺のせいにするな。俺だって忙しい。こんなちっぽけな商談程度は君とチャムロンで出来る筈だ」

「しかし」

「しかしじゃない。まぁいい。税関には手を打ってあるのだろうな」

「手と言いますと」

「そんなこともわからないのか。こんな時の為に、普段奴等に飲み食いさせてあるんじゃないのか。ちょっと金を握らせばいいんだ、してあるんだろうな」

「いえ、そんな事は」

「何を考えているんだ。早く税関へ行って許可を貰って来い」

クンはチャムロンと雨の中をサムローを飛ばして税関へと急いだ。

「クン、今日の許可は無理だと思う。知り合いの輸出代理業者に頼んで、飛行機のスペースを確保するだけでなく、B/Lの発行を急いで貰おう」

「船積みも確定していないのにB/Lですか、それは無理ですよ」

「B/Lの日付が参月三〇日ならL/Cの条件は満たしている。銀行も金を払ってくれる」

B/L、正しくは航空機に依る輸出であるからAIR・WAY・BILLと言う。

船便のB/Lは有価証券であるが、AWBは単に荷物の送り状程度に考えてもよい代物である。しかしL/Cに依る支払いを受けるには、このB/Lの発行日がL/Cの条件である船積み日以前でなければならず、 後進地域の輸出業者の中には実際の船積み以前にB/Lを発行させ、L/C条件を満たす輩が多い。

「クン、お前はエージェントへ行け。俺は税関に行く。俺だってこんな時の為に飲み食いをさせている連中を持っているからね」

クンは大きく頷いた。

三輪の両サイドにドアはなく、二人の身体を目掛けて容赦なく雨が打ち続けていた。

 

G・B・Tへ戻ったクンは香港裕華時装有限公司へFAXを流した。

『船積み三月三〇日,B/LナンバーOOOOOO、便名キャセイOOO便,ALL DOCUMENTS AS FOLLOWS』

キャセイ航空は四月三日にバンコクを飛び立った。

その飛行機が香港へ到着した頃、クンとチャムロンはドンムアン国際空港近くの屋台に居た。

二人の間にはメコンと呼ばれるタイ特産の安いウィスキーの小瓶が置かれていた。タイのレストランはアルコール類の持ち込みは許されている。

氷 と水を注文した二人は一様に安堵の表情を見せていた。

「しかし三月三〇日に出航とFAXを流しておいて、着荷が四月三日では相手も怒るんじゃないですか」

チャムロンはメコンを一気に煽って言い放った。

「エージェントは三月三〇日のB/Lを発行した。我々は三月三〇日に荷物は飛行機に乗ると思わざるを得んだろう。だったら当然相手方には三月三〇日と連絡もする」

「しかし」

クンの手はメコンのグラスを持ったまま止まっている。

「しかしですよ」

「クン、飛行機が混んでいて、そいつが四月三日に飛び立っても俺達の関与すべき事じゃない。そうだろう、俺達には飛行機を飛ばす権限なんてないのだから」 「何か道義的な責任を感じますね」

「若いからな。そう思うのも仕方がないが、一々そんな事で考え込んでいては貿易屋にはなれないぜ。これも貿易のテクニックのひとつと割り切らないと」

クンは無言でグラスを口元へ運んだ。

「仕方ないさ。始めからボタンの掛け違いがあったんだ。

それにしてもナロング課長も冷たかったよな。もう少し親身な対応があっても良かったと思っているんだが」

「私には何とも言えませんが」

「課長、今回のシンガポールとのビジネスで会社へ大儲けをさせたらし

く、タニン会長から直々の表彰を受けるらしいぜ」

「凄いですね」

「凄いもんか。あの件だって突破口は課員のステープが作ったんだ。ビッグビジネスになると睨んだナロングがそいつを横取りしたのさ」

安酒のメコンの廻りは早い。その上チャムロンはストレートで飲っている。

知らず知らずにナロングと呼び捨てにしている自分に気が付いていないようであった。

「チャムロンさん、何か食べたほうがいいですよ。メコンばかり飲んでいると体をやられてしまう」

「クン」

チャムロンはクンの制止も聴かずに、相変わらずメコンだけを煽っている。

「俺はG・B・Tをやめようかと思っているんだ。今回の件だけじゃない。ナロングとは反りが合わないと言うか、従いて行けないというか、兎に角彼の下風には立ちたくない」

チャムロンが料理を注文しないので、所在なくクンはピーナッツだけを啄んでいた。

華やかな空港と高速道路一本隔てただけのこの界隈の汚さには天と地の違いがある。空港での仕事を終えた連中達の溜まり場でもある安酒場が多くあり、又ひっきりなしに聞こえてくる飛行機の離着陸の音も耳を劈 くが、それ以上に付近の溝から発する悪臭と何処からともなくやって来る蚊の襲撃にクンは往生していた。

チャムロンはそんな劣悪な環境にも意を留めずに話し続けている。

「やめてさ、独立しようかと思うんだ」

「独立って何をやるんですか」

クンは腕に停まっている蚊を叩き乍ら訊いた。

「貿易さ。輸出だよ。何年かG・B・Tに居る間に海外バイヤーや工場側の人脈も出来た。その仲介をするのが貿易屋じゃないか」

会社に勤めた事に依って得た経験や人脈を使って独立する事は彼等にとって至極当然であり、寧ろ日本人の様に自分を育てて呉れた会社に弓引く事は出来ないと思う方が国際的に見ても不自然な考え方だと思われている。彼等にとって会社とは労働を売って対価を得ただけの相手であって、何ら恩義を感ずる対象ではない。

「上手くいきますかね」

「わからないが、今よりはいい。そこでクンにも手伝ってほしいのさ」

「私にですか」

クンにとって将に寝耳に水の話である。

「あの香港の老大も言っていただろう。俺達若者が世界を相手に勇躍しなくて誰がやる」

クンの脳裏に老大とロンの顔が交互にフラッシュバックした。

『老大の様な人物に成りたい。ロンの様に自分の夢を実現させたい

「今がチャンスだ。俺達は若い、失う物も無い。貿易会社なんて事務所と机と電話にFAXがあれば出来る。要は語学力と人脈で成り立っている商売だ。クンが一緒にやってくれるのなら、俺も勇気百倍さ」

二人の卓子の周りには次々とチューインガムや宝クジを売る少年達がやって来るが、チャムロンの気迫に押され何も言わずに帰ってしまう。

「どうだ景気付けにマッサージルームでも行くか。いつもの所にチェンマイから新しい女の子が大分入ったらしいぜ。十二歳から十五歳の娘が大半らしい」

「いや、今日は止めましょう。チャムロンさんから大変な宿題を貰っちゃったから」

「宿題、何だ今返事出来ないのか、度胸のない奴だな」

「無理ですよ。一生の事ですよ、少し考えさせてください」

クンはマールボロに火を点けると眼を中空に向けた。

「わかったよ。俺はマッサージに行くからお前はもう少し考えてみたらいい。ここの勘定は払っておくよ」

チャムロンは持ってきたメコンの小瓶をポケットへねじ込むと一人屋台を出て行った。

一人残されたクンは辛子の効いたスープとライスを頼むと、ライスを丸ごとスープの中へ放り込み、一気に口の中へ流し込んだ。

「ランに会いたい」

クンの呟きは小さな声ではなかったが喧噪の中に忽ち消えていった。

 

ランのマンションに辿り着いたのは夜も十二時を廻っていたが、彼女は覚きていた。

「何故かクンが来る予感がしたの。それで寝ないで待ってたの」

クンはそれには答えずがむしゃらにランをベッドへ押し倒した。

「クン、待ってよ。今日のクン変じゃない。最近ずっと怪かしかったけどどうしたのよ一体」

相変わらず黙ったままのクンは彼女の髪を止めているバレッタを外すと一気に着衣を脱がし始めた。

「待ってよ」

ランの悲鳴にも似た懇願には耳も貸さず、全裸になった彼女の中へクンは躊躇なく入っていき、 息も絶え絶えになったランを横目にクンは果てた。

「強姦じゃない」

半ば眼を閉じたまま叫ぶランの髪を優しく撫で、クンは自分の唇を彼女の唇へと合わせにいった。

「ラン、君を愛している。やっとわかったんだ。結婚して欲しい」

「結婚」

「そうさ、俺は独立する事にした。G・B・Tは退職する。君の力が必要なんだ」

「待ってよ」

ランは自分でも何か可笑しくなって、

「今日の私って『待ってよ』ばかり言ってるみたい」

クンも少し笑ったが、直ぐに真顔に戻るとランの手を強く握った。

「待ってよ。順番に言ってよ。独立するから結婚したいってどう云う事」

「結婚したいんだ」

「私の事よく知っているの」

「知ってるさ、ほとんど毎日会ってるし」

「私って大学生だけど、違う世界にも足を踏み込んでるのよ」

「朧気には聞いている」

「知ってて結婚しようなんて言ってるの。クン、酔って言ってるんじゃないでしょうね。

それに私って妾腹の子よ。あなたの両親が許す筈はないわ」

「俺と君が結婚するんだ。君の両親と俺の両親がするんじゃない」

「あなた世間しらずの坊ちゃんなのよ、結婚なんてそんな簡単な物じゃないわ。 ご免なさい。そんなつもりで言ったんじゃないの」

「わかっているさ。俺も自分が世間知らずだ思っている。しかし挑戦したいんだ。変えたいんだよ人生を」

「あなたの人生を変えるために私を利用するわけ。

又、私 悪いことを言ってしまったわ」

「いいよ、気にするな」

バンコクの歓楽街パッポンに近いランのマンション近辺は、夜の二時を廻ったとは雖も車の鳴らす警笛の音が途切れなく続いている。

以前クンは、何故彼女がパッポンの近く住んでいるのかと疑問に思った事があったが、今夜はそんな事はどうでもいいと思っていた。

「取り敢えず待ってよ。又、言ってしまったわ」

ランはクスリと笑い、クンもつられて笑いだした。

「近く親父の誕生パーティがある。親戚も集まるしその時に君をお披露目したい。

ランもランなりに心術を算段しておいてくれ」

クンには珍しく有無を言わせぬ台詞であった。

「わかったわ。私もクンとの出会いを巫山の夢で終わらせたくないわ」

ランの言った『巫山の夢』とは中国古代の楚の懐王が夢の中で巫山の美女と交わった時の話である。

その美女は王との別れ際、

「これからは朝には朝雲、夕には降る雨となってお目にかかりましょう」と、言った。夢から醒めた王は彼女が神女であった事を知り朝雲廟を建て、毎日彼女に会いにそこを訪れたと云う故事である。

この話からもわかる様に、ランもクンとの事は一時の遊びとは考えていなかった。

翌朝、クンはチャムロンに返事をした。

「宜敷くお願いします。私も自分の夢の実現の為一所懸命努力致します」

「決心してくれたか」

「はい。いろいろと」

チャムロンは深く詮索する事もなくクンの返事を了とした。

 

第四章 客家の壁

 

二人が独立をして三ヶ月が過ぎた。

この三ヶ月間二人は仕事に忙殺されていた、という事はなかった。

時として注文が入るが、精々サンダル一〇〇足送れとか、帽子を二〇〇個作ってくれという類の注文であり、何とか日々の生計を凌いでいる状況であった。

バンコクの繁華街のひとつであるパトナムマーケットから東へ延びるラマ二世通りを中心から五キロ程行った所に二人の事務所はあった。

中心よりはやや離れるが、空港へ荷物を運ぶ時等渋滞するダウンタウンを迂回する事が出来るので便利ではあった。

社名は「ワールド・エキスプレス」、有りがちなネーミングでもあった。

そんな事務所へ、或る日の午後一本の電話が入った。

「クンさん。チャイライです」

パトナムマーケットは洋服関係の問屋街である。彼女もそこで五坪程の店をやっている女主人であった。

「チャイライさん久し振りだね」

以前、チャイライの店へふらっと買い付けに来たアラブ人の輸出の代行をしたことがあり、クンは彼女を覚えていた。

「独立したんだってね。そこでちょっとした仕事を頼みたいのだけど。

昨日ね、日本人が来て周りの店も含めてかなりの買い物をしたのさ。勿論商売上の仕入れなんだけれど、L/Cじゃなければ支払いは出来ないの一点張りなのさ。

私達の様な小さな商売でL/Cなんか受けられないしさ、又受けても税務署に売上の全てを捕捉されても困るし、クンさんの会社でL/Cを受けてくれないかね。勿論バックコミッションは払うからさ」

チャイライは一気に捲し立てて言った。

「いいよ。品物は洋服なんだね」

「今日、その日本人が来るから五時頃来てくれないかね」

クンはチャムロンに事情を説明すると、ひとりパトナムへ向かった。クンが彼女の店へ着くと、その日本人は既に待っていた。

「遅れてすいません」

「いいえ、私が早く来過ぎたんですよ。日本人の習性ですから」

完璧な英語だった。

年の頃は二七、八歳、長く伸ばした髪を後ろで束ねている。

更に、鼻の下には立派とは言えないがモンゴル風の髭を蓄え、インドから戻ったばかりらしくその民族服のクルタとパンツであるピジャマを着て、足にはガンジーサンダルを履いていた。

『何だ、ヒッピーか』クンは日本人バイヤーと聞いて飛んで来た自分を恥じた。

「五日市直樹と言います。名字は発音しにくいからナオキと呼んで下さい」

『ヒッピーにしては上手い英語だ。ヨーロッパが永かったのかな』

七〇年代後半のバンコクはインド帰りの欧米や日本のヒッピー旅行者が屯していた。クンもこの汚い姿形をした若者達は知ってはいたが、実際に話すのは初めての事である。

『意外と真面なんだな』

「このパトナムで色々仕入れをしたのですが生憎現金がありません。こちらのチャイライさんに相談すると、L/Cを受けてくれる会社があると聞いて早速お願いしたのです」

「L/Cは受けられますが、総額は幾らくらいになりますか。余り額が大きいと面倒な事が有りますから」

「一〇万ドルくらいです」

クンは唖然とした。一九七九年後半の一ドルは約二二〇円であり、一〇万ドルは邦貨にして二二〇〇万円になる。

このヒッピーのような奴が平然と一〇万ドルのL/Cをオープンすると言う。

「日本人のあなたには一〇万ドル位訳も無い金額でしょうが、タイ人にとってはひと財産です」

「駄目ですか」

直樹と名乗った男は落胆の色をみせた。

クンはタイ語でチャイライに尋ねた。

「小母さんやその他の店への支払いはL/Cの銀行の買い取り、つまり銀行からお金を貰ってからでもいいのでしょうか」

「いいとも、クンさんなら信用出来るし、ウチの子はクンさんのお父さんの教え子になるしね」

クンはこんな所で親父が仕事を助けてくれるとは思わなかったが、それなら可能だと答えた。

直樹の買付は商品は多岐に渡っていた。

「実に細かい仕入れですね。型数は多いが一型あたりの数量は多くは無いのですね」

「そうなんですよ。だから工場へ発注する事も叶わず、こうして出来るだけ多くの問屋から買っているわけですよ。クンさんも若そうだけれど、貿易会社を経営しているのですか、凄いですね」

「いいえ、パートナーシップですよ。社長と副社長、つまり私ですが、それに秘書の女の子だけの会社です」

直樹の人懐っこい人柄にクンも言わずもがなの事を言った。

「クンさんは正直な人だ。信頼ができる。安心してL/Cをオープンしますよ」

直樹も彼なりに雑談を装って相手を観察していたらしい。L/Cをオープンする事は相手を信用する事である。

オープンされたL/Cはその条件を満たしていれば、如何なる状況が起きようが、船積みされた商品に対する支払い義務を免れる事はない。

極端な例であるが、石ころを船積みされても輸出審査を通過していれば、後日裁判を起こすにせよ一旦は支払いの義務は生じる。

直樹は親指と中指でモンゴル髭を左右に分けると言った。

「クンさん、時間も時間ですから、よかったら食事でもどうですか」

「いいですよ。喜んで私が御招待します」

自分でも興奮している事をクンは感じていた。

「小母さん。この件はワールドエキスプレスに任せてよ。明日又来るから、ナオキさんの買付リストを他店のも含めて作っておいて」

チャムロンに電話を入れ会社には帰らない事を告げると、直樹を促すようにタクシーを拾い乗り込んだ。

行き先はタマサーク大学であった。

タマサーク大学の外塀沿いに海鮮料理店が軒先を連ねている。

「ここは私の出身大学なんですよ。ここら辺のシーフードレストランは学生時代よく来た所で懐かしくてね」

クンにとってはランですら連れて来た事のない取って置きの場所であった。

「美味そうな臭いがするね」

「日本人は魚をよく食べるからIQが高いってタイでは言っていますよ」

「真逆、日本人は魚臭いと言われているのは知ってますけど」

直樹は苦笑せざるを得なかった。

クンは賓客をもてなすが如く山海の珍味を取り寄せ、卓子のうえに所狭しと並べた。日本で云う赤貝の刺身、これはレモンをかけて食べる。車海老の焼き物、直樹は日本人らしく醤油を付けた。

渡り蟹とその卵巣の炒め物、絶品である。最後の伊勢海老は圧巻であった。その肉の部分を蒸して殻に詰め直し、椎茸と葱とタイ独特の香草を炒めてあんかけにし添えてある。

直樹も満足気に次々と料理を口へ運び、その健啖家振りを見せクンを驚かせた。

「先程の日本人のIQの話に似ているようですが、『味の素』が美味しいばかりでなく、頭を良くするし色々の病気に効くとタイでは信じている人が多くてね、田舎へ行くと風邪や腹痛でも味の素を飲んじゃうんですよ」

「タマサーク大学卒のクンさんがそれを信じているとは思わないが、よく聞く話ですね」

筆者も一九九〇年代の半ばにもこの話を信じている人に会った事がある。

「日本に就いては良い噂も悪い噂も色々東南アジアに溢れていますよ」

「それも日本の信じられない大戦後の復興振りに由来するのじゃないですか、この成長や発展は世界の脅威です。戦前生まれの華僑には、日本人を悪く云う人達が多いのですが、我々戦後生まれの世代には寧ろ尊敬と言うか、奇跡に近い感じがします。

実を言いますとね、私も日本人に会うまでは日本人の事を恐ろしい人間だと思いこんでいました」

右の事も東南アジアでは、特に華僑の子弟からはよく聞く話である。

「日本人に会ってみて、日本人も我々と同じ人間なのだ、決して怖い者ではない事がよくわかった」と、若い世代の華僑から聞いて驚きを感じた経験を私も数多く持っている。

「クンさんのお父さんやお母さんは辛い体験をしているのでしょうね」

「タイは中立国だったから、シンガポールや香港の華人程ではないでしょう」

「タイの外交政策は東南アジアでも群を抜いて素晴らしかったと聞いていますよ」

事実、欧米列強の植民地政策の餌食にならなかったのは、アジアでは日本とタイだけである事は既に述べた。

東南アジア諸国が下手な外交や贅沢な暮らしをする中で、タイの歴代の国王が賢明であり続けた事が以上の結果をもたらした要因である。

例えばラーマ四世、モンクット王はインドやビルマがイギリスの手中に陥ちた際にも、イギリスと友好通商条約を結んだり、イギリス人を家庭教師として王族子弟の教育を欧風化させたりもした。

これがミュージカル『王様と私』の原型と成ったのは有名な話である。

この例でもわかるように時にはイギリスと組み、更にフランスとも外交関係を持ち、日本が東南アジアに進出するとみるや、中立関係を保ったりするタイの列強諸国間の遊泳術は、続くラーマ五世やチュラロンコーン王への歴史の中で他のアジア諸国に比べて一際抜きんでいたと言わざるを得ない。

「タイ国民の多くは聡明なプミポン国王や歴代の王を尊敬しています」

「らしいですね。私がここで映画館に入った時、上映前に観客全員が起立するのでびっくりしましたが、スクリーン上に現在の王様が映っていたのにはもう一度驚きましたよ。

それが戦後の日本のように強制的に行われているのではなく、人々の自然の心のままで行われていたのが素晴らしいとおもいましたよ」

筆者もこれを体験した時は、他のアジアの独裁国家の専制君主にありがちな強制的パフォーマンスだと思ったが、後年タイ国民のプミポン国王に対する親しみと尊敬の念を知るに連れてこの考えを改めたものである。

「ナオキさんはタイは詳しいですね。他の観光客とはちょっと違うみたいですが、タイには何回もいらっしゃてるのですか」

「ええ、回数だけは多いのですが、インド、ネパールが主な仕入先でね、往きと復りにバンコクに寄るだけですよ。直行便より安いので、ここで乗り継ぐのですが、折角寄るのだから何か買付でもしようと、今回初めてパトナムへ行ったのです」

「ネパールか、お釈迦様の生まれた国ですね。私達タイ人はインド文化の影響を強く受けている割にはインド人が嫌いなんですよ」

「タイの人達は敬虔な仏教徒じゃないですか」

「インドじゃありません。インド人が嫌いなんですよ」

タイにはこんな言葉がある『インド人とコブラを見つけた時、どちらを先に殺すか』、クンはニヤリと笑うと付け加えた。

「もうひとつ言うと、パキスタン人も嫌いです。私達は『パキ』と呼びますが」 直樹は何となくわかる気がしてそれには答えず、

「フランスには、『小母さんとゴキブリを見た時どちらを先に踏み潰すか』と言う言葉がありますよ」と、言葉を濁した。

クンは大きく笑うと話題を元に戻して言った。

「でも釈迦の生誕地ネパールは一度行ってみたいと思っています」

釈尊の生誕地に就いては色々な説があるが、一応の定説としてルンピニーと言われている。インドとの国境に近いネパール側の小さな町である。

父は浄飯王(スッドーダナ)、母は摩耶(マーヤ)である事は良く知られているが、その二人の間に生まれた釈迦族の王子がシッダールタ、つまり釈尊である。

特筆すべきエピソードとして釈尊はマーヤの右脇腹から生まれたとされている。

これはインドでは右を尊び左を汚れた物とする思想から来ているらしい。

恐縮する話であるが、事実彼等は右手で食事を摂り、左手で用便後の後始末をする。又、日本では幼児を背中に背負うが、インドでは右脇に布で包み吊り下げている事も右の事柄に関連するのであろう。

その他、釈尊は生まれるや否や七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったとも伝えられており、この『七歩』にもインド的な意味があるのだが、本文より逸脱が過ぎるのでここでは省く。

「クンさんも仏教徒ですか」

「タイの男子なら一生に一度は仏門に入ろうと思うものです」

「日本人も一応仏教徒ですが、御存知のとうりタイの人の様には熱心ではありません」

「ナオキさんは・・・・・」

「ナオキでいいです」

「じゃあ、ナオキはどうしてそんなに英語が上手なんですか。又一〇万ドルのL/Cをいとも簡単にオープンする事が出来るのに、そんなヒッピーみたいな、あっ、スイマセン」

「オーケー、気にしないで。ビジネスマンに見えないと言うのですね。

私はバンコクにもいっぱい居るあのヒッピーね、あれでした。横浜から船に乗ってソ連まで行って、後は汽車でシベリアからヨーロッパと巡って、中近東やインドをバスを乗り継いで、勿論東南アジアも殆どの国を廻りましたよ。

又、カナダからアメリカを経て中南米にもバスや汽車でぶらぶらしていました。

全部で六〇ヵ国位は行きましたね」

「六〇ヶ国・・・・・」

「大学在学中ですから、クンさんのようには勉強はしていません」

直樹は照れくさそうに笑うと更に続けた。

「就職しないで、在学中から海外の物を仕入れては日本の道端で露店の様に売っていたわけですよ」

「折角日本の大学を出て就職しないなんてご両親は怒りませんでしたか」

「諦めていたのでしょう。日本にない安い物を探してくる、又或る国で払底している物を日本から持っていく、これが貿易の基本だと思ってね。貿易ほど私にとって面白い物はありません」

「そうやって古来人類は互いに往き来して貿易を発展させ、文化を伝播させて来たのだと思いますね。

私も貿易には興味があり、こんな面白味と言うか妙味のある仕事は他に類例が有りませんね。

皆が見た事も無い物を他の国から持って来る、その国ではありふれた物でも他国では珍重され高く売れる。危険を冒してでも未知の国へその商品を探しに行く、これは男のロマンを満足させてくれる仕事だと思っています」

「クンさんが貿易会社をやっているのもその辺 の夢からですね」

「今は単に輸出の代行が主な業務ですが、将来はナオキさんのようにリスクを冒してでも自分で選んだ商品をタイへ紹介する事をやってみたいと思っていますよ」

クンには大言壮語癖はない。直樹と云う良き話し相手を得て、漠然とした将来の願望が口を突いて出たのであろう。

直樹も酔いがそうさせているだけでなく、クンの前では珍しく饒舌になっている。

「私は大した事はやっていません。ヒッピー旅行の延長線上に生活の糧を得るため、貿易をやっている位のものですよ。それに自分のやりたい事が未だ掴めていないのが本心かな」

「でも羨ましい人生ですね。人が生きたいように生きることはむつかしい。特にタイのような後進国では先ず喰うことが先決です。」

「そう言われると恥ずかしいが、クンさんとはいい友達になれそうだ」

「私もです」

クンは老大のみならず、直樹からも世界を相手に貿易をする醍醐味を知らされ、益々自分の人生を貿易に賭けてみようと決意した様であった。

「MRクンではなく、これからはクンsanと呼んでいいですか」

「sanとはどういう意味ですか」

「日本語の軽い敬称です」

「では私もナオキsanと呼びますよ」

「いいや、ナオsanと短く呼んでください。私の友人は皆そう呼んでいます」

「オーケー、ナオsan」

二人は今宵を始まりとして莫逆 の友となり、文字通り心に逆らう事莫く意気投合し相与に友人となった。

翌日はランと約束していたクンの父の誕生日であった。

前述したが宋一族は中華街の中のサンペンに居を構えている。

功成り名を遂げた華人達の多くはサンペンには仕事上の家屋のみ残し、一族を連れて郊外に大邸宅を建てそちらに住んでいるが、一介の高校教師でビジネスには縁のないクンの父は先祖より引き継いだ古い家に依然として住んでいた。

世界中のチャイナタウンがそうである如く、ここバンコクのそれもお世辞にも清潔とは言えず、活気があるのは事実だが、道路のいたる所に露天商が店を出し、通行人の往来を妨げている。

クンは緊張の容子を隠せないランの背中を抱いて父に紹介した。

「サワディカッ。よく来てくれました」

今日五八回目の誕生日を迎える父は上機嫌であった。

「親戚の人達もお揃いだ。暁蘭 さんを皆様に紹介してさしあげなさい」

ランもようやく緊張の糸が解けたらしく、クンも同様に案ずるより産むが易の心境になっていた。

「母さんも生きていたら、お前のガールフレンドを見たかっただろう」

その言葉を聞いて、二人とも父親の許しが出たと悟った。

「ランさん、実は宋一族は客家でね。ほらあそこに見える婦人、ワシの叔父の未亡人なんだが、彼女が一族の長老で彼女を中心として一致団結しておるんじゃ」

ランは客家と聞いて悪い予感がした。

客家、北京語ではクーチャーと発音する。

人口は現在四千五百万人と言われていて、全華人の人口に比べれば少数民族であるが、その団結心や進取の気質では他の華人に抜きんでいる。

彼等は文字通り『客の人』であり『余所者』であるが、元来中国大陸の北方に住んでいた歴とした漢民族であり、歴代の中原の戦乱の度に集団で南下し、現在に到っても古い北方の言語や文化を保ち、一般には客家語と呼ばれている言語を伝えている。

文化、伝統保持に熱心で、教育にも力を入れ、又女性の勤勉性も高く、その勤勉性を表す事柄としてひとつの例がある。古来中国人女性は美しさの表現として、足に幼い頃より布を巻き付けて大きく成長するのを嫌った。纏足である。

しかし客家の女性達は労働の妨げになるその纏足をする事はなかった。ここにも客家精神の合理性を見出すことが出来、その上伝統文化の継承を重んじる彼等は、清の時代に入っても明朝時代そのままの服装で通したと伝えられている。

清朝は北方からの征服王朝であり、彼等の服装は所謂旗包と呼ばれ、チャイナドレスに代表される様に詰め襟で裾が割れているが、明朝のそれは唐装 と呼ばれて、襟無しの右脇で合わせ紐で結ぶ服装であった。

更に特筆すべき葬礼方法に、一度埋葬された死者を四、五年後に掘り起こし、その遺骨を椿油で清め再び甕に納め埋葬する儀式がある。この第二次埋葬の古俗は中国では既に失われてしまった習慣であるが、客家人の間では現在尚守り続けられている。これは流浪の民として先祖の遺骨を持ち運び易い形に保っておく為にも必要であった。

又少数民族であり、他の民族による圧迫から逃れるには強烈な団結が必要不可欠であり、その為彼等は囲屋 と云う大家族用の集合住宅を建てた。形は様々であるが、NHKでも放送された円楼 が有名であり、直径は一〇〇メートル程あり三階建てで数百人が起居する事が出来る。

右の例から、客家の際立った特徴をタイガーバームガーデンの胡文虎の言葉を借用して整理すると以下の如くなる。

一、刻苦耐労 二、剛健弘毅 三、創業勤勉 四、団結奮闘

客家で有名人を挙げろと言われれば数限りない、代表的な人物としてはトウショウヘイ、李登輝(台湾総統)、李光耀(シンガポール上級相)、孫文(辛亥革命)、葉剣英(人民解放軍元老)、洪秀全(太平天国の乱)と枚挙に

遑 が無い。

どんなに苦しい環境や状況に置かれても客家人は自分達を自家人ー同胞として団結し苦労に耐え、勤勉を重ね革命や事業を成し遂げてゆく偉大で誇り高き民族である。

 

ランの表情からは微笑みが消えていた。

「クン、あなた客家だったの」

「黙っているつもりはなかったけれど、話す機会がなかったのさ」

「私、自信がないわ」

「兎に角、大叔母を紹介しなければ何も始まらない」

大叔母と呼ばれた老婦人は客家料理の代表的な醸 豆腐を食べていた。

醸豆腐とは薄く切った豆腐の中に肉あんを入れ油で揚げて煮込んだ物で、客家の正月や祝日等の特別な席には欠かせない料理である。

「あなたも客家なの。蘇暁蘭 でしたわね」

「いいえ、私は違います」

「客家の嫁は大変よ。頑張ってね」

出席者に紹介する度に同じ様な会話が続いた。

「クン、可愛いお嬢さんね。そう、客家じゃないの」

ランはそう聞く毎に、自分だけ一人場違いの所へ入り込んでしまっている感じが募り、クンはそんな彼女を気遣って早々にパーティ会場を去った。

数時間後、 二人は黙りこくったままシャム広場のカフェに居た。

「ラン、大丈夫だよ。客家以外から嫁を迎える客家人は多い。現にあの長老の大叔母だって客家じゃなかった」

「今は客家そのものじゃない」

「客家に成る努力を人一倍した結果が、彼女をあんな風に変えたのだろう」

「私は無理だわ。厳格な客家の一族の中へは入って行けないわ」

「今は時代が違うよ。結婚したら二人でマンシヨンを借りよう、俺が君の所へ転がり込んでもいい」

「あなたのお父様が許す筈無いわよ。私の素性を話したの」

「いや、未だだけど」

「怖くて話せないのでしょう」

「自分をそんな風に責めるんじゃないよ」

クンはしかし、後の言葉に詰まってマールボロに火を点けた。

「あなたもそう思っているのでしょ。私今日は悪いけど帰るわ。でもクンを愛している気持ちは変わっていないわ」

ランは立ちこめるマールボロの紫煙を横切り、足早に去っていった。

数週間後、食事を終えた後にクンは父の寝室に呼ばれた。

子供の時以来入った事の無い父の寝室である。クンは話題はわかっていたが緊張した。

「まぁ、そこに座れ」

父の寝室は狭いながらもよく整理され、父の性格を如実を表していた。

寝台の頭の部分には母の遺影が飾られ、その額のガラスもよく磨かれている。 「一杯飲むか」

父が寝酒にしているメコンの小瓶がテーブルの上に置かれていた。父は既に飲んでいたらしい。

「少しだけ頂きます」

「今夜は、母さんと一緒にお前に話をしたいと思ってな」

母を亡くした後の父は以前より一回り小さくなった様に見受けられる。その小さくなって皺の増えた手でメコンを注いでくれたが、気のせいかやや震えているようにも見えた。

『俺はこの父に又も心配を懸けたのか』

メコンの入ったグラスを口に付けると、いつもの味とは違う苦みが感じられた。

「ランの事じゃが」

父はゆっくりと話し出した。

「お前には悪いと思ったが色々調べてみた」

「・・・・・・」

「お前は知っているのだろうが、驚くべき事実がでてきてね」

「何ですか」

クンは父は何処まで知っているのだろうと探りを入れた。

「客家でない事はいい。大叔母も敢えて反対はしなかった。妾腹の子には問題が残るが、頭が古いと言われてもな。

問題はその次だ。お前はランがパッポンで働いていた事を知っているのだろう」 「以前友人から聞いた事があります」

「そこのカラオケバーのオーナーも華人で儂もよく知っている。外国人専門の高級店だ。気に入った客とは寝所を共にするらしい」

父はそこまで言うとメコンを一気に飲んだ。

愛する息子には話したくない事を、今夜は言わねばならない。

「ランも・・・・・と、言いたいのですね」

「そうじゃ。間違いは無い。そのオーナーから直接聞いた話じゃから」

「そうですか」

クンのグラスの中の氷は、強く握りしめていたせいか、とうに溶けてしまっている。

「駄目なんですね」

「辛いが、儂には親戚全員を敵にして迄お前を庇う度胸はない」

「客家の団結を乱すと言う事ですね」

「そうじゃ。許してくれ」

「一族の意見はよくわかりましたが、私はランを愛しています。ランも同様です。結婚は諦める訳にはいきません」

父は頭 を大きく振ると溜息をついて続けた。

「お前も男だ。遊び相手の女が何人居ようと儂は文句は言わん。じゃが結婚は諦めろ」

「ランは遊び相手ではありません。正直言うと最初はそうでしたが」

「そこが女の怖いところだ。目を覚ませ、クン」

日頃の父には見受けられない程の強い語気であったが、クンはそれには怯まず反論した。

「私は正常です。ランの素性に問題があるのはわかっていますが、彼女を遊び相手のままにしておくことは到底できません。お父さん、私の我が儘を許してください」

「お前は小さい頃から手を焼く事のない素直ないい子だった。多少の我が儘なら聞いてやりたいし、母さんもそう言うだろう。

しかし、この件はべつだ。父としてお前がみすみす不幸に成るのを放って置くわけにはいかんのじゃ」

「結婚が不幸ですって」

クンも父には悪いと思いながらも大きな声を出した。

「一族の反対する結婚が幸せをもたらすとは考えられない」

「わかりました。平行線ですね」

クンは温くなったメコンに口を付けると「御馳走様でした」と、ひとこと言いグラスをそっと置き、父に一礼をして部屋を出て行った。

 

第五章 猫族の娘

 

 一九八一年、タイの経済は他のアセアン諸国同様発展の一途を辿っていた。

ワールドエキスプレスの取り扱い高も、クンの信望と仕事の正確さで飛躍的に伸びていた。

勿論、度々訪タイする直樹への輸出も増え、順風満帆の日々が続いている。

「そんな事があったのか」

三ヶ月振りに直樹と飲んでいるクンはランとの結婚話を打ち明けた。

「ランも一時はショックを受けたみたいだったが、予め覚悟は出来ていた事だし、今では以前通りつき合っているよ」

「で、どうするんだ。彼女とは」

「結婚したい気持ちに変わりはないが、焦る事もないだろうし、今のままでいいとも思っているよ。人生全てマイペンライさ」

「クンさんらしいね」

「ナオさんも未だ結婚してないんだろう」

「かっこよく言えば、俺にはまだする事がいっぱいあって、結婚はずっと先の事だろうね」

直樹も二七歳である。結婚を考えた事はないと言えば嘘になるが、まだ真剣な問題とは思っていない。

「クンさんだって二五歳だろう。早いよ結婚なんて、ランも大学を卒業したば

かりじゃないか」

大学を卒業したランはパッポンでのアルバイトは止めて、一流と言われる金融会社へ入社していた。

「ランがそんなアルバイトをしてたとはね、彼女って知性的な顔立ちで美人だし、クンさんも心配だろう」

「二人は愛し合っているし、信用してるさ」

クンは直樹の冗談にも生真面目に答えた。

「凄い自信だな。今日はクンさんの奢りだよ」

「オーケー。でも二軒目はナオさん持ちだよ」

二人はサムローを拾うとパッポンへと向かい、観光客でごった返す路地へと足を踏み入れた。路地の中央には所狭しとお土産屋の店が軒を連ね、両脇には怪しげな店が多くの呼び込みを伴って営業している。

クンは『リップスティック』の看板のある店へと直樹を誘った。

店内は暗く、ボーイの照らすペンライトだけが頼りである。店の中央に四角く囲ったカウンターがあり、そのカウンターに向かって座席が壁際に張り付いている。

直樹は当初全ての座席が店の中心を向いているのを訝しがったが、やがてその謎は氷解した。

数曲毎に女達が入れ替わり、カウンターの中に設えられたステージで全裸で乱舞する。直樹は壁を背にした座席でクロスタービールを飲んでいたが、次々と薄物を纏った女達が舞台を終え飲み物を強請にやってくる。

暗さにも目が慣れてくると、女達と言うより少女に近い事が分かってきたが、酔った勢いでドリンクを頼んでやると今宵の供を願って止まない。

ステージではオートバイがいつの間にかセットされ、如何にもベテラン然とした一組のカップルが男女の営みを見せていた。

「ナオさん、好みの女の子がいたら連れていってもいいよ」

「この子達はこの仕事に見合うだけの収入を得ているのかな」

クンは直樹の質問には理解を示さず、既に今宵の相方を膝の上に坐らせている。 直樹も前述したように二七歳である。薄物を通して視野に入ってくる幼い乳房や、熟成しきっていない腰の線に抗うことは困難に思えた。

「クンさん、俺帰るよ」

「誰かに決めたんだな」

「折角だけど、今度にするよ」

ステージの少女達の表情は唯虚空を見つめ、気だるさを音楽に乗せているだけに見えた。

宿酔い気味の重い頭で出社するとチャムロンが待っていた。

「クン、例のロスのバイヤーだけど、チェンライの山岳民族の織物のサンプルを集めてくれと言ってきているが、担当してくれないか」

「タイ系アメリカ人のロジャーでしたね」

彼は今までタイへ来ると、言葉が出来るので一人でチェンマイやチェンライへ行っては注文を出してきて、その後の船積みの処理だけをワールドエキスプレスへ頼み幾許かの手数料を上乗せして、帰国後アメリカから送金してきた。、

「今度は来ないのかな」

「急に新しい店を出すので、商品が要るらしい。我々なら彼の好みを知っているのでサンプル集めを依頼してきたのさ。今回は手数料ビジネスではなく、現地価格に我々の利益を乗せたFOB価格でいいと言っている」

「それならチェンライまでの旅費を出しても合うね」

「クンに頼むよ。行ってくれ」

クンはバンコク発、チェンマイ行きの夜行列車に乗った。

八〇〇キロの長旅である。

チェンマイは麻薬の集積地、ビルマとラオスに囲まれた黄金の三角地帯に近い。 又、北方なので中国系の血が入った色白の美人の産地としても有名である。

クンは高校時代山岳民族のひとつである苗族の家で一ヶ月程寝泊まりした事があった。

自分では気が付かないが、クンのテンションは何故か騰がっている。

朝早くチェンマイ駅に着いたクンはバスに乗り継ぎ、更に一五〇キロ北方の国境沿いの町チェンライへ入った。

現在は中国の雲南省やビルマ、ラオスに迄タイの通貨であるバーツ経済圏が拡大し、バンコクからチェンライ迄タイ航空の直行便が飛び、ゴルフ場やホテルが整備され一大観光地化されている。又、国際空港が既に完成し、ここから雲南省の昆明迄タイ航空で行くことが出来る。

 八一年のチェンライは、黄金の三角地帯と呼ばれる所に少しの旅行者用のコテッジと土産物屋が並んでいる程度の辺鄙な観光地であった。

苗族やリス族やアカ族等の多くの部落は、山中に各々独立した生計立て点在している。

クンは部落間を精力的に動き回りサンプルを集めた。

タイ国と中国雲南省に跨って住んでいる少数民族も、中国共産党に追われて来た者が多い。

中国領や他のインドシナ領内にも同族が分かれて棲んでいるのも右の理由により、筆者の体験でも他のタイ人より眼が細く中国系に近い感じがする。

クンは高校時代に泊まった事のある民家へ投宿した。

「クンじゃないか。これは珍しい人が来た」

苗族の長老は久し振りの再会を心から喜んでいるようである。

「御無沙汰しております」

「立派になったなぁ。まぁ、娘のノイにも会ってやってくれ」

クンが振り向くと、そこには待ち構えているかのように色白で小柄なノイが立っていた。

「兄ちゃん、元気だった」

「大きくなって、その上綺麗になったモンだ」

クンがこの地に居た頃、彼女は九。一〇歳位の少女だったのを覚えている。

「兄ちゃんにはよく遊んで貰ったわ」

「まぁ、地酒でも飲んでくれ、今バァさんが地鶏を潰しているから、追っつけ料理も出来るだろう」

「それにしても懐かしいですね」

クンはノイの方を向くのが眩しく思えた。

「兄ちゃんは結婚したの」

「未だだよ、仕事が忙しくてね」

「兄ちゃん、私をお嫁さんにして呉れるって約束覚えてる」

クンは一七、八歳の娘から突然言われた言葉にどぎまぎしたが、気を取り直して言った。

「そんな事もあったね」

心なしか、酒を注いでいるだけのノイの顔がピンク色に染まっていくのをクンは見た。

クンは話題を変えようと長老の方を振り向いていった。

「けしの栽培は続いているのですか」

「最近じゃ政府の取り締まりも厳しいし、国王の指導のもと都会向けの野菜栽培が盛んでのう。野菜の買付は政府によって行われるもんで、儂らミャオも現金収入が安定するわけじゃ。今、けしを作る物は殆どおらんのじゃないかのう」

けしー漢名は罌粟と書く。

密教の山伏が護摩を焚くときに用いる『芥子』と混同されることが多いが、今話題になっているけしは『芥子』とは違い葉も白っぽく四弁の大きな花を付け、その未熟な実の乳液から阿片を採る。

長老が述べた如く、今でこそプミポン国王の尽力に因り、けし栽培は殆どその姿を消し野菜の促成栽培地域となっているが、以前はけし栽培でここら一帯はその生計を立てていた。

付け加えて言えば、革命政府に反抗するビルマのゲリラの資金源としても有名であった。

精製された罌粟、つまりヘロインの類はバンコクから世界中へ流れ出し、又雲南ルートを経由して中国から日本へも多く入ってきたものである。一時期バンコクがヒッピーの溜まり場と化したのも、右の事柄が深く関わっていたのかも知れない。

バンコクでヘロインを安く仕入れ、マレーシアやシンガポールへ運び込んだヒッピーの数多くが獄中に繋がれている状況は衆知のことである。

「私がここにいる頃は周りはけしだらけで、紅や紫、白の花が咲き乱れていましたね。実に美しかった」

「いい時代じゃった。タイ政府もここまでは来んかったしのう」

クンは痛飲し、学生時代とは違うこざっぱりした小部屋へと案内された。

夜半咽の渇きを覚え眼を醒ますと、夜陰に隠れて女が立っているのが眼に留まった。

『ラン、そんな馬鹿な』

クンの頭の中には未だアルコールが重くのし掛かっていた。

「ノイだよ。兄ちゃんの所へ行ってもいいでしょ」

「ノイだって。そんな所で何をしてるんだ」

「お父さんが兄ちゃんが淋しいだろうから行ってこいって言うんだモン」

日本でも江戸時代の半ば頃迄は山中奥深い部落に宿を求めた場合、右の様に自

分の妻や娘を旅人に差し出す習慣が残っていた。

これらは限られた村落や民族内ではその血が濃くなり過ぎる傾向があり、血縁関係のない新しい血を自分達の中に採り入れる為の必要な手段であった。

勿論子を成すのが目的である。

但し、建前上は『この様な山深い里では満足な御馳走もお出しすることも叶いません。どうか、この娘で一夜の無聊をお慰め下さい』と、した。

ノイは黙っているクンの前に近寄ると着衣を解き始めた。

北国育ちの肌は夜目にも純白に輝いて見えた。

長く伸びた細い手足、実の母の眼にも触れさせた事の無い可憐な乳房が、月明かりの中に美しい錘形を浮かび上がらせている。

クンは彼女を真正面から見据える事は出来なかったが、本能は意に反して既に反応していた。

彼はそれを恥ずかしいと思ったが、男の性はその理性を奪うのには十分なものであった。

 

翌朝眼を醒ますとノイの姿は既になく、やがて屈託のない彼女の朝餉を告げる声が聞こえてきた。クンは目を合わす事も無く「おはよう」とだけ言った。

「兄ちゃん、夕べはよく眠れた、未だお酒が残ってるんじゃないの」

『夕べ・・・・何を言ってるんだ。昨夜のことは覚えていないと言うのか」』 「何ぶつぶつ言ってるの、温かい内に食べて。お父さん達はもう畑に行っちゃたわ」

家の中はノイと二人きりだと言う。

「ノイ・・・」

「何」

「いいや、何でもない」

「変な兄ちゃん。今日はおかしいわよ」

早々に朝食を摂ると辞去する意を告げた。

「もう帰っちゃうの、又来てね。私もバンコクへその内遊びに行くわ」

「お父さんにも宜敷く言っといて」

クンは夢か現かわからぬ儘にチェンライを去った。

一ヶ月ほど経った頃、クンのもとへ珍しい来訪者が現れた。

「ロンじゃないか、会社へ来るなんて一体どうしたんだ」

久しぶりに会うロンは身なりもこざっぱりして、実業家の風貌がどことなく漂っている。

「男子三日会わざれば刮目して見よ、と言うが随分と立派に成ったな」

「そうかな自分では何も変わっていないように思えるが。唯、形振り構わず屋台を引っ張ってきたがね」

「まぁ坐れよ、やっとチェンライからサンプルが着いてね、これをアメリカへ送っちゃうから待ってくれ」

「すまんね、忙しいところに突然来てしまって」

クンは手早く梱包を終えると、スタッフに郵便局へ持っていくように指示をしてソファに身を沈めた。

「どうだ商売の方は」

「順調にいってるよ」

「共同仕入れセンターはどうなったんだ」

「色々紆余曲折はあったが、屋台の組合を作って、阿漕な屋台のオーナーから皆を解放してさ、その仕入れセンターから食材を調達させているよ」

「ロンは偉いな、行動力があるよ」

「クンだって忙しそうじゃないか、世界を相手に商売してるって感じだぜ」

「で、ロンの事だ次の一手を考えているんだろう」

「鋭いな、実は本格的なチャイニーズレストランを計画しているのだが」

「そんなものはバンコクにだって何一〇軒もあるだろう」

「違うんだ、今流行のファーストフード化しようと思ってさ」

「成る程」

「しかし、中華の食材はこれ又華人の問屋グループに握られていて、頗る高い」

「今度はそこに風穴を空けるつもりか」

「流石に飲み込みが早い。そこでクンに頼みたいんだが、先程も行った特別な食材、例えばフカの鰭や燕の巣などは特に独占状態で、一部の華人グループに莫大な利益を貯め込ませているんだ」

「聞いた事があるよ」

「その関連会社の或る貿易会社を通じて、それらの食材を輸入しても値段は下がらず、到底ファーストフードの食材には成らない。そこで頼みというのは、クンの会社で調達先を調べて食材の輸入をして欲しいんだ。

例えばフカのヒレは日本が有名だし、燕の巣はインドネシアが集積地だがボルネオ辺りからやって来るらしい」

ボルネオはマレーシアとインドネシアと石油王で有名なブルネイに三分割されている。

マレーシア領サラワク州やサバ州は一五〇万の人口の内五〇万人が華人であり、その七割が既述の客家である。

「客家のネットワークを使えば何とか成りそうだ」

「日本のチャイナタウンにも客家は多いらしいね。客家の持つ世界的なネットワークを利用すれば、クンの好きな、いや尊敬している老大の言葉通り俺達でも世界へ翔くことが可能になる」

クンは『老大』の一言で更にやる気を増した。

「クンは世界のネットワーク、俺はタイ国内のネットワークと言う事でどうだろう」

「面白そうだな。ロンに従いていけるかどうかわからないが、兎も角やってみよう」

「俺も近い内に日本へ行ってみようと思っている。マハティール首相じゃないが、ルックイースト、日本に学べさ」

「日本なら力になる人物を知っているから紹介するよ。若いけど遣り手なんだ」 「もう、世界のネットワークを作っているじゃないか」

「まだまださ」

ロンは友の発展振りを知り満足気であった。

「昼飯でも喰いに行くか」

どちらから言うともなく、二人は昼食を食べに外へ出た。ロンはその序でに建築中の二番目の仕入れセンターへとクンを誘った。

一番目のそれは急を要した為に組合内に作った小さい物であったが、今回は時間を掛け大がかりな物を建てていた。

その上彼は先を見越し、バンコク中心の交通渋滞を避けチャオプラヤ河の畔を選んでいた。

「将来は各所に小さな仕入れセンターを作り、ここを拠点として水上交通で支所に配達する計画なんだ」

クンは先の先を考えているロンの発想には感心するばかりであった。

「ここだ。入ってくれ、足元に気を付けてな」

何処にでもある工事現場と同じく、足元には大小様々な木っ端や金属片が転がっている。

「珍しい奴がいるな」

クンは懐かしそうに一人の男の元へ近づいた。

「ソンポーンだろ、クンだよ。中学以来だな」

「そうなんだ、俺が屋台を引き始めた頃偶然に出会ってね、それ以来片腕として働いて貰っている」

「俺は高校、大学と建築をやっててさ、お前らみたいにいい大学じゃなかったけどね、職が無くてロンに拾われたのさ」

「拾ったなんて、そんなことはないよ。今じゃ俺にとっては無くては成らない存在だよ」

「何れにしても懐かしい」

クンは古い友人との再会を心より喜んでいた。

「積もる話は後にして現場を見てくれ」

ロンはクンの背中を押すようにその場を去った。

 

工事現場には数多くの出稼ぎ労働者が入っている。

経済発展の中、富はバンコクへ集中し、タイ政府は先進諸国へ地方の投資を盛んに促したが、所詮はインフラストラクチャー(社会資本の整備)で劣る地方への投資はその優遇税制にも拘わらず伸びてはいなかった。

賃金格差に目を付けたタイ各地の労働者が、一気にバンコクへと流れ込んでいた。現在の中国ではこの様な現象を読んで字の如く『盲流』と呼んでいる。

又しても余談で数行を割くが、この読んで字の如しという事が漢字の命である。 古来、漢字の国へ西方ペルシャや南のインドから、夥しい言葉が珍しい文物や宗教と共に流れ込んだが、この漢字を操る人々は難なく造語し漢訳した。

明治維新後の日本へも新しい思想やら考え方、システムが入り込んだが、福沢諭吉等の日本人も大いに多くの言葉を造った。『平和』『友情』『自由』等がそれであり、佐賀藩士江藤新平が『経世済民』即ち世を直し人民を救済する意味の中国の古い言葉から、英語のエコノミーを『経済』と訳したのは有名である。

これら新しい漢字表記の言葉は、中国本土からの留学生が中国大陸へと持ち帰ったり、植民地化されていた台湾や朝鮮へも伝わり、各国で現在でも自国語として使用されている。

テレフォンが電話、オートモービルが自動車と、ありとあらゆる新しい物を自国語に難なく訳せるのが漢字を使用する人々の利点である。

アルファベットやそれに類する表音文字を使用する国では、オリジナルの言語に近い言葉になりがちである。例えばインドの三輪タクシーは『リキシャ』と呼ばれるが、日本の人力車が上海や香港に渡り、そこで事業をするインド人ビジネスマンである印僑の手を経てインドへ伝わったことが推察され、表音文字文化圏へ入った言葉はその源と足跡が辿り易いと云う利点がある。

話を本筋へ戻す。

この盲流の中にチェンライ出身の一人の若者がいた。

スパポン、一九歳。ノイの許婚者であった。

あの夜、偶然ノイがクンの寝所から出てくるところを見てしまった彼は、彼女を問い詰め、事情を知るやノイの父を詰ったが、時は既に遅かった。

その上ノイがクンに好意を持っているらしいと感じた彼は直情的に頭に血が昇った。

バンコクの建設現場に職を求め、チャンスを窺っているところに彼の標的が現れた。クンの顔は知っている。翌朝ノイの家に向かう途中擦れ違った都会風の青年、チェンライでは滅多に見る事のない服装である。忘れる事は出来ない。

スパポンは首からぶら下げた仏像のペンダントを握りしめ標的が近づくのを待った。

勿論ロンとクンとの関係を知っていてこの建設現場へ潜り込んだ訳ではない。

談笑し乍ら眼前を通り過ぎる二人を見るや傍らに会った手斧を取り、

「クン、死ね!」

と、叫び躍りかかった。

「クン、危ない!」

ロンに突き飛ばされた形になったクンは床へ転げ込んだ。

第一撃を外したスパポンは体勢を立ち直すと更にクンを目掛けて手斧を振り下ろした。

気丈なロンも思わず目を覆ったが、クンの手はスパポンの右手を掴んでいた。

二人は抱き合うように床の上を転がり廻っていたが、「うっ」と言う呻き声と共に二人の体が止まり、数秒の間隔をおいて辺りを構わず血飛沫が上がった。

「クン」

ロンの悲鳴にも似た叫びが中空を裂いた。

「警察を呼んでくれ」

立ち上がったのはクンだった。

揉み合っている間に手斧がスパポンの頸動脈を切ったらしい。

工具や材料の散乱する工事現場は、一面の血の海と化している。

「無事か。真逆こいつが」

ソンポーンも駈け寄って来て信じられないという表情を見せている。

「仕事も出来たし、仲間との折り合いも良かったんだが」

「大丈夫だ。しかし大変な事をしてしまった」

「正当防衛さ。証人も多くいる。心配するには及ばない」

ロンはクンに何かを話し変けようとするソンポーンを制して、肩で息をしているクンを抱きかかえて事務所へ向かった。

「警察が来るまでここで待っていてくれ」

クンは自分がしてしまった事を思い出しては顔から血の引いていくのを覚えていた。

 

 「出血多量で即死だ」

 「そうですか・・・・・」

「今日は遅いから泊まって貰うよ」

三日程経って本格的な取り調べが始まる迄、クンにとって眠れない拘置所の日々が続いていた。

「ノイって知ってるね。彼女の許婚者だったらしい。動機は明らかだ。君に彼女を寝取られた恨みだよ」

「寝取るなんて、そんな」

「君はそう思っていないだろうが、スパポンに取って耐え難い苦痛だったに違いない」

「ノイはここに来ているのですか」

「ああ、死体を取りに来てもう帰ったよ」

「誰か迎えに来ているみたいだから君も帰っていいよ」

タイにしてはスピーディな取り調べにクンは驚いたが、その実はロンが裏から手を廻していた。

客家の子弟は実業家だけでなく、軍や警察関係にも深く入り込んでいる。ロンはタイの客属総会のひとつに相談をし警察のトップヘとコネをつけていた。

警察を出ると、三日程の事であったが太陽の陽射しが眩しく感じられる。

「ロン、来てくれたのか」

「大変だったな。取り調べに暴力や金品を恐喝られる事はなかったか」

「ああ。それはなかった」

「やはり客家の力は大きいよ。こんな所に客家のネットワークを使いたくはなかったんだが」

「そうだったのか。全てがスムーズ過ぎると思ったよ」

「まぁ、一杯飲みに行くか」

「そんな気分には成れないよ。知り合いの婚約者を殺してしまったんだ。取り敢えず会社へ行ってチャムロンさんに報告しなくては」

クンはロンの用意した車には乗らず、タクシーを止めると一目散に立ち去った。

 

 

 「経緯はロンから聞いている。ショックだったろう。結果は無実なんだから気にするな」

「ありがとうございます」

社内の他のスタッフの何か怯えている視線が気になったが、クンはそれには気が付いていない振りをした。

「今迄通りパートナーとして頑張ってくれ」

クンは頷くより他になかった。

「早速なんだが、例のロスのロジャーから注文が入っている。サンプルには満足しているらしい」

「そうですか」

「そうか、君には無理かな。厭な事を思い出してしまうからな」

「大丈夫です。私の担当ですから最後までやります」

「無理しないでな、いつでも他のスタッフに代わってやってもいいから」

クンはチャムロンの心遣いが嬉しかったが、自分の仕事は自分でやり遂げようと決心していた。

FAXによる注文書に目を通すと、いつもの自分に戻って来る気がして安堵した。

そのオーダーシートには支払い方法が明記されていなかったが、ロジャーからの支払いは通常TTと呼ばれる電信送金(テレグラム・トランスファー)であった。

ロスへ問い合わせのFAXを流し、翌日の返事を見てクンはG・B・Tを退職する原因になった状況を思い起こした。

『新店のオープンで資金繰りがつかない。商品は早急にいる。一ヶ月の猶予を欲しい』

FAXにはそう書かれていた。

「チャムロンさんどうしましょう」

「君も副社長なんだから、自分で判断してくれ」

『G・B・Tの時と同じだ』とクンは思ったが、チャムロンの言う通り自分で判断し、自分で結果に責任を取るべきだと思った。

ロジャーとはバンコクで幾度となく会い、アメリカ国籍を保つとは言え、中国

系タイ人であり親愛の情は深い。

『同じ華人同士だ裏切る事は無いだろう』

異国に住む華人同士の約束は絶対である。

ムラ社会に住む人々が他を裏切った場合、その裏切り者は村八分を受け残りの二分、つまり火事と葬祭以外のつき合いを拒否される事を考えて頂ければ、この華人社会の約束の重大さが理解してもらえると思う。

クンも右の如く判断した。

更にこの判断の根拠になったのは高い利益率であった。今回は手数料だけの商売ではなく、ワールドエキスプレスの提示するFOB価格であり、十分な利益が含まれている。

ー好事魔多しー現在のビジネス用語に置き換えればハイリスク、ハイリターンとなり、危険の無い所に高い利益は無いと言えるのであるが、ローリスクで着実に収益を積み重ねていく考え方は二五歳のクンにはなかった。

翌日からクンは精力的に集荷を始めた。

勿論、山岳民族の住む地域に電話は無く、若いスタッフ数人を車で派遣し納期を忠実に守るよう説いて廻らせた。

彼等の生業は農業であり、農閑期に自分達が使用する分だけの布しか織らない農家が大半である。近年、観光客用に多少は多めに織ってはいるが、輸出用のロットを満足させるにはほど遠い生産量であった。

「アメリカではエスニックブームらしいが、ブームに乗るほどの生産確保は無理なんだ。先進国の奴等は我々を怠け者扱いするが、工場で作る商品とは違う」

納期が遅れていると説明するスタッフに、クンは愚痴にもとれる科白を吐いた。

「しかし約束した納期は守らなければならない。君達悪いが農家の連中の家を一軒々廻ってくれ」

事情が有るとは雖も、ワールドエキスプレスは仕事の正確さで売っている、言い訳はしたくない。

この頃からクンは憂鬱な気分になる事が多かった。チェンライとの仕事が長引くに連れ、例の事件を忘れる事が出来なくなっている。

先進諸国の様に時間に追われ仕事をして、経済的にもゆとりが出来、物品が身の周りに増えていっても何か豊かさが実感できない。

「クン何か悩んでいるの」

マスタード色のスーツに身を包み、胸元にはフリルをあしらった白いブラウスを巧みに着こなしたランは訝しげに尋ねた。

「未だあの事が尾を引いているの」

「それもある。いやそれが原因かもしれない。何か毎日々仕事に追われている自分が本来の自分ではないような気がしてね」

ミニスカートから長く伸びた脚を組み替えるとランは続けた。

「私達の結婚の事も遠因になっているの」

「それはないさ。時が来れば君とは結婚する。一族の反対は無視するつもりだ。しかし、正当防衛とは言え、人を一人殺してしまったんだ。償いはしなくてはならないと最近思い始めてね」

「だって、あれはクンのせいじゃないわ。それに償いってどうするの、ノイとか云う女の子に何かしてあげるとでも言うの」

いかに男の浮気は自由気儘なこの時代のタイとはいえ、ランは嫉妬心を隠せなかった。

「そうじゃないんだ。自分自身の気持ちの問題なのさ。

ランは仕事をしていて楽しいかい。欧米じゃ君の様な女の人をキャリァウーマンとか言うらしいが」

ランは自分の服装に目を遣ると軽く頷いた。

「私だってクタクタに疲れて部屋へ戻ると『一体何してるんだろう』と、思う事はあるわ。でも、それって当たり前じゃない。皆そうやって生きているのよ」「君は強いよ。ロンに訊いてもそう言うだろう」

「クン、しっかりしてよ。以前のあなたの様に眼を輝かせて『世界へ翔くんだ』って言ってよ」

「疲れているんだ」

二人の間に長い沈黙の時が流れ、カフェの窓外では廃車寸前のバイクがけたたましい騒音を撒き散らし走り去って行った。

それを目で追っていたクンが口を開いた。

「俺、今の仕事が片付いたら仏門へ入ろうかと思っているんだ」

「仏門」

「そうさ、タイの男子なら一度は夢見る話さ」

一族の中から一人を仏門へ入れる事に依って、その一族の他の構成員にも仏の加護があると云う思想は日本にもあった。

但し、貧しさから抜け出すために一人では自活出来そうにない者を選んで寺へ預けるケースも多かった。俗に言う口減らしである。

タイでは仏教に対する信仰心は日本のそれに比べて格段に厚く、殆どの男子が一生に一度は仏門に入ろうと思っているし、又実行に移す者も少なくない。

「あなたがそこ迄思っているのなら、私は止めないわ。修行はどれくらい掛かるの。いいえ、幾ら掛かってもいいのよ。私は待っているから」

「一年かも知れないし、一〇年かも知れない。自分の気持ちに素直に従う事が出来る迄には一生と云う時間が必要かも知れない」

「分かったわ」

 

 数週間を待ってクンは集荷された注文の品々をロスへ送り出すと仏門へと入った。

 

 

第六章 臥龍

 

 タイの仏教は良く知られているとおり『小乗仏教』である。

これに対してチベット経由で入った中国や朝鮮、日本等の仏教を『大乗仏教』と呼ぶ。

『乗』とは乗り物であり、サンスクリット語ではヤーナと言う。

大乗仏教では他者を救済する事が目的であるが、小乗仏教は自己を幸せにする事が目的であり、よって前者の乗り物は多くの人々を彼岸へ運ぶため大きくなくてはならないが、後者のそれは一人が乗れればよいのである。

『小乗』とは『大乗』の仏教徒が彼等を蔑んで作った呼称であり、小乗の人々は自分達の事を『小乗仏教』とは呼ばない。

又、小乗仏教の方が釈迦本来の教えに近い古い仏教の形を残している。

釈迦の影響が色濃く残る時代の仏教徒達は、いくら修行を積んで悟りを開いても精々己一人を救済するのが精一杯であり、釈迦の様に悟りを開いて多くの人々を救済する事は不可能だと考えたのである。

当然の帰結として小乗仏教の修行の方が厳しくならざるを得ない。

これに対して大乗仏教は在家のまま布施や精進する事によって悟りを開かせる、一般大衆向けの仏教であると言える。

この自己に厳しい釈迦の教えに忠実な小乗仏教は、現在タイだけではなくビルマやセイロンに流布され、インドネシアのボリブドールにある仏教遺跡は有名である。

 

クンは釈迦の弟子になった。

修行僧の朝は読経から始まる。

仏教は釈迦の生存中よりパーリー語で説かれていた。やがてセイロンやビルマを経てタイへ伝わった仏教もパーリー語であったが、それは文字を持たない言語であった為タイの文字即ちシャム文字によって大蔵経と呼ばれる聖典が編まれる事になる。

朝の読経を終えると彼等は托鉢に出る。

黄色の僧衣を纏った一行がバンコク市内を巡っては米飯やその他の食物を求めるのである。

信心深いタイの国民は朝早くから各自の家の前に食物を用意し、これらの僧の一行を待つ。

僧達の身の回りの必需品は全てこの信者による喜捨によって賄われている。

筆者もタイの友人の葬儀に友人代表として参列した経験があるが、その家族並の待遇であった為葬儀の中心に坐らせられた。

僧による読経が終わると僧の前に正座をし、予めセットされた供物を手渡すのであるが、この詰め合わせの様なセットにはタオルや石鹸、歯ブラシ等の生活用品が揃えられてあり、透明なラップがなされまるでどこかのデパートの進物売場で売られている物と何ら変わりはなかった。

やがて僧達へ食事が運ばれると、私達親族代表者が僧の皿へと米飯そしておかずやスープを盛りつける役割を果たす。

僧達は鷹揚に胸元で手を合わせ、軽く点頭し供物を受け取るのである。

 私はこの親友の葬列の中で悲しみを持ちつつも、僧達のタイに於ける地位の高さに驚くばかりであった。

 

小乗仏教では悟りを開いた者を『羅漢』と呼ぶ。

クンが羅漢になって俗界へ戻って来たのは一九八四年八月の事で、既に三年が経っていた。

 「還俗したわね」

暁蘭二六歳が迎えに来ていた。

「痩せたみたいね。御苦労様でした」

「待っていてくれたのか」

「約束だもの」

「ランは変わっていないね」

「もう小母さんよ」

「すまない」

「そういう意味じゃないわ。それより何を食べてもいいんでしょ、今日からは」

「ああ、特に制限はないが、粗食に慣れてしまったから、食べられるかな」

ランは思い出のチャオプラヤ河畔の水上レストランへ誘った。

「ここで君と会ったんだね」

クンは肉の類は受け付けられないらしく、ピーナッツの揚げたものをゆっくり口へ運んでいた。

「あなたが居ない間に俗世界は色んな事があったわ」

「だろうね。俺も二八歳になった。一日も早く会社へ戻ってペースを取り戻さなくては」

「その会社なんだけど」

「どうかしたの」

「潰れちゃったの」

「なんだって、どうしたんだ」

「ロサンゼルスの会社からお金が入らないってチャムロンさんこぼしていたわ」

クンは極楽浄土から一気に地獄へ堕ちた気がした。

 

クンは納期にはやや遅れたが全量ロスへ向けて船積みをした。

勿論山岳民族の農家一軒々にも現金を支払ってやり、仕事の終了した事をチャムロンへ伝え一ヶ月後にロジャーから送金がある旨を報告し仏門へ入ったのである。

しかし二ヶ月が過ぎても三ヶ月が過ぎても送金はない。無論催促の電話やFAXは入れてはいたが『もう少し待ってくれ』の一点張りであった。

出家中のクンに事情を話す訳にもいかず、業を煮やしたチャムロンは渡米する決心をしたが、ロジャーからのFAXで『我が社は倒産した。誠に済まないが私個人が払う義務はない』と、言われ、為す術を失った。

以後全ての資金繰りが悪循環に陥り、やがて不渡りの手形を切った。

「チャムロンさんはどうしているんだ」

「行方不明よ。奥さんも子供も連れていったらしいわ」

クンはどうしていいか分からなくなった。

「あなた一人の食い扶持ぐらい当分私が面倒見るから心配しなくていいのよ」

「そうじゃないんだ」

クンは手短に事情を説明した。

「そうだったの。でもあなたの責任とばかりは言えないわ。あなたが休職してから海外の注文が激減したって他のスタッフから聞いたことがあるし、クンさんの信用力がこんなに会社を支えていたのかとも聞いたわ」

「けどさ」

「それにパートナーのあなたがいなくなって箍が外れたのかしらね、彼毎晩パッポンで飲んでは新しい女に子を連れ廻していたって」

「パッポンって、ラン真逆又パッポンで働いているのじゃないだろうね」

「ちょっと用があって前のカラオケのオーナーの所へ言った説き聞いたのよ」

「会った時から、君の服装が気になってたんだ。以前のようなオフィスワーカーとは違って何かケバケバしさを感じるのだが」

「そうかしら」

ランも狼狽気味にビールを口へ運んだ。

 「前のオーナーに用事って何だったんだ」

クンはチャムロンの件も気掛かりではあったが、それ以上に彼女の様子が気になった。

その上三年ぶりに飲むビールは酔いを早めている。

詰問調の大きな声は船上の酔客をも驚かせた。

「クン、静かに話してよ。どうせ分かる事だから言うわ。私もっとお金が欲しくてオーナーに相談に行ったのよ」

「売春させてくれってか」

「馬鹿な事は言わないで。私にはあなたが居るのよ。何かいい商売はないかという相談よ」

クンは安堵したかのように辺りを見回した。

 先程まで此方を注目していた酔客達も素知らぬ風で談笑している。

「怒らないでね。そのオーナーの経営するマッサージハウスの雇われママさんを任されたのよ」

「ママさん」

「そうよ。歩合制なの、だからその建物の中に一部屋貰って女の子達の寝起きまで監視しているわけよ」

「あのマンションは」

「人に貸してるわ。あなたが帰ってきたら一緒に住もうと思っていたんだけど、チャムロンさんの件があったでしょ。

帰ってくるあなたの事を考えると、お金を貯めておかなくてはと思ったのよ。本当よ」

拝むような仕草で懇願するランを見ると、クンも沈黙せざるを得なかった。

 

ランが経営を任されているマッサージハウスは『ハッピーバンコク』といい東方のスクムビット通りから一本裏へ入った所に位置していた。

入り口を入ると壁際にソファが並べられ、そのソファの正面にはガラスで仕切られた大きな部屋がある。照明を落とした店内とは対称的にその部屋の中は皓々と灯りが点っていた。

ソファに腰を下ろした客達は眼前のガラスの部屋の中で媚びを売っている少女達の品定めをして、やがて気に入った女の子見つけるとマネージャーを呼び、彼女の胸元に付いている番号札を読み上げる。客は女の子に連れられて別室でマッサージを受けるか、又幾許かのチップをマネージャーに握らせて外へ連れ出して行く。

ハッピーバンコクは外国人専用であって、タイ人は入れない。

又、外国人と言ってもインドやアラブ、アフリカ系は入れないようにしている。

ランの説明によると、彼等は飲酒によるトラブルや事後の金銭上のトラブルが絶えず、ほとんどの同業者が同様な取り決めをしているらしい。

従って勢い彼等の客は黄色系のアジア人となるが、その中でも上客中の上客は日本人、とりわけ若者であると言う。

「日本の男の子って大人しくて金払いがいいのよね。言葉が出来ないせいもあるけど、その上日本に帰ってからも女の子にお金や品物を送ってくる子もいるわ」

クンは毎日する事もなく最上階の大部屋で漫然と寝転んでいた。

周りでは仕事前の女の子達が水を浴びたり、化粧をしたり、遅い昼食を摂っている。

『羅漢からヒモに成った気分だだな』

「パパ退いてよ。邪魔なんだから」

時折上半身裸のままの女の子がクンの頭上を跨いで行く。

又、彼女達から屈辱的な声が掛かる事さえある。

「パパ、閑そうね。タバコを買って来てくれないかな」とか、

「今日ママさん居ないから、パパの相手をしてあげようか。偶にわさ、若いピチピチした体もいいんじゃない」

彼女達のからかいには慣れてはいるが、毎日のように浴びせかけられる下世話な話題には辟易していた。

「パパにはお金が無いから君とは遊べないよ」

「パパならタダ乗りでもいいわ。私ってタイ人には処女なのよ。お小遣いなら私があげるわよ」

「そうか、君の方がパパより金持ちなんだな」

「無いわよ。パパも知っているでしょ。お客さんの払った金額の半分は案内してきたタクシーの運ちゃんや、ガイドの連中が持っていっちゃうでしょ。

残りの半分の三ー五割はお店の取り分で、私達はお客さんからのチップだけが頼りなのよ」

「酷いな、パパも知らなかった」

『ランはその内どれくらいをピンハネしているのだろう。そのピンハネした金で俺は喰わして貰っている』

クンは自分が情けなく、益々滅入っていくのがわかる。

「嫌な客の言う事を聞いてチップを貰っても、掃除の小母ちゃんや警備の男の子にも少しは分けてあげないと意地悪されるし、本当に手元に残るのは僅かなモンよ。その僅かなお金の殆どを故郷の家へ送金してるのよ。毎日ゴロゴロしているパパには解らない世界なのよ」

『俺だって好きでゴロゴロしているわけじゃない』と、怒鳴ってやりたかったが、自分が悪いのは自明の理であるし、日頃ランからは『女の子達は商品よ、決して手を出したり、意味なく怒ったりしちゃ駄目よ。彼女達の評判が悪くなったら女衒の連中もウチには女の子を連れて来なくなっちゃうから』と、言われている。クンは屈辱感を笑いで糊塗せざるを得なかった。

「君達も苦労してるんだ。パパも見習わなければいけないね」

大概の女の子達はそこまで遜るクンを見て、哀れみと蔑みの感情を入り交えて引き下がっていく。

彼女達が去っていくとクンはどっと疲れを覚え、更に気だるさが体中を支配していく容子がわかり、所在なげに今一度寝転んだ。

「 クンさん、何をしてるの。こんなとこで」

その流暢な英語に振り返ると、果たしてそこに見覚えのある日本人男性が居た。

「ワタル、ミスターエモトじゃ・・・」

クンは恐る恐る訊いた。

「そうだよ。ワタルだよ。何年振りかな。あのレストラン以来だから六ー七年は経つかな」

老大に紹介された江本渡海であった。

「こちらはオン、昨夜ここで知り合ってね。彼女が着替えを取りに行くというので一緒に来たわけですよ」

クンにも次第に記憶が甦ってきた。

「クンさんも好きだね。昼間からこんなとこでぶらぶらして、仕事はいいの」

クンは老大以来の経緯を簡単に説明し、何故自分がここにいるのかを話した。

「そうだったんですか。凄い人生を送ってますね。でも久しぶりだ。オン、ビールでも貰ってきてくれ」

オンと呼ばれた女の子はクンも見覚えがなかった、何しろここだけで一五〇名の女の子が働いている。

「ワタル、いいよ。私が貰って来るから」

クンは近くの子を呼んだ。

「パパお金もってんの」

「済まんが貸してくれないか、ママさんが来たら返すから」

ママさんと訊いてその子は素早く階下へ走っていった。

「タイ語でも『ママさん』って言うの」

「ママさんはこういう業界の共通語みたいだよ。白人でも『ママさん』って英語で言うしね」

「フィリピンでもそう言うのだから、日本人が教えたんだろうな」

渡海は複雑な心境であった。

「訊きたい事があるんだけど。下のガラスの部屋なんだけど、内側はマジックミラーだから女の子側からは客が見えないってマネージャーが言ってたけど、本当かい。だって日本人らしい客が入ってくると女の子の視線が一斉に動くよ。他の外人客だとそうでもないんだけど」

「ワタルは鋭いね。全部がマジックミラーだと高くつく。だから一部からは客が見えているんだ」

「それから、このオンが言うには、俺が昨夜払った金の半分をここへ案内してきた奴が取るって、それも本当かい」

「ああ、私も今それを聞いたところさ。ここに長くいるが、恥ずかしい事に女の子の稼ぎのシステムなんて全く知らなかった。その残りの半分もこのハウスのオーナーがほとんど取って、その上彼女達の取り分が支払われるのは一ヶ月も先の事なんだ。だから勢い彼女達は客からチップを多く貰おうと客の強要する嫌なサービスまで無理してやるのさ」

「エゲツないシステムだな」

「そのエゲツないシステムの掠りで私は生活しているんだから、全く嫌になっちゃうよ」

クンは改めて自嘲的な笑いを浮かべた。

「あっ、そうか。クンさんご免な」

「いいよ。ワタルの想像通りの生活さ」

「そうだ、大変なことを忘れていた。香港の老大は覚えているだろう。彼が今入院中でクンさんに会いたがっている」

「老大、勿論良く覚えているさ。何度も取引であっているが、仏門には入っている間は御無沙汰していた」

 「手術はしたが、医者の話だと二、三ヶ月の寿命らしい」

 「病名は」

「英語で言われたからよくは解らないが、漢字を見ると内臓疾患だと思う。何度もチャムロンへFAXを入れたが返事もないし、手紙も帰ってくるし、老大はクンさんの事を心配しているよ」

「そう言うことなら、ランから金を借りてでも香港へ行く」

「私も明後日、日本へ帰る予定だから一緒に言ってもいいよ」

「助かるよ、是非そうしてくれないか」

二日後クンは江本と香港行きのキャセイ航空に乗った。

出発の朝、ランから幾許かのドル紙幣を渡されクンは一時拒んだが、

「あなたが、外国で恥を掻かない程度のお金は持っていって頂戴。将来成功したら返して貰うから」

彼女の心情を思うと、無碍に断るわけにもいかず受け取った。

 

香港の空港は相変わらず混んでいて、タクシーを待つ乗客の列はいつ終わると無く続いている。数分間隔で、香港名物の頭上すれすれを飛行するジャンボ機を見ていると老大の病状が気になってしかたがない。

九龍半島側のホテルへ投宿すると、スターフェリーに乗り香港島側の病院へと向かった。

「ミスター郭。御無沙汰しております」

「クンさんか。よく来てくれたね」

「思ったよりお元気そうで何よりです」

「君も元気そうだね。チャムロン氏とのビジネスは巧くいっているのかね。彼には連絡が取れずに心配しておったんじゃが」

クンは江本に話したとおりこの数年の経緯について手短に話した。

「そうじゃったか。チャムロン氏共々大変だったね。それで君はこれからどうするつもりなんじゃ」

「色々考えてはいるのですが、私の犯した大罪のことを思い出すと、何もやる気が起きては来ないのです。経済的にはどうにかなっているので、このままズルズルといってしまいそうで自分でも怖いのです」

その言葉を聞くや、老大の表情が険しくなったのがクンにも解った。

「君は確か客家だったな」

「はい、そうですが」

「実は私も客家なんじゃ」

香港と澳門併せて百五十万人の客家がいるが、最近ではイギリスへと移住していく者も多く、老大もその事は嘆いていた。

「客家の血が騒がんのかね。客家は君も知っての通り選ばれた民族じゃ。客家の若者が売春宿の一部屋で毎日寝転んでいる状況は私は想像だにしたくない。  老朽の私でさえこうしてベッドの中で闘っている。君のような若者が日々することなくブラブラしてるなんて恥ずかしくはないのか」

老大こと郭の語気は次第に荒くなってきている。

「老大、落ち着いて下さい。クンさんも遊んでいるわけではなく、色々と将来の展望を練っている途中なんですから」

江本も思わず郭の体に障ると思い口を出した。

「湖の淵で雲の湧くのを待っている臥龍だと言うんじゃな」

「そうそう、そうなんですよ、クンさんは」

臥龍と聞いてクンは自らを恥じた。

「そんな大層な者ではありませんが、考えてはおります」

若し、『それは何か』と尋ねられたら、彼には答える術は持っていなかった。 「クン、若い内は冒険を畏れるな。若いときの失敗は必ず取り返せる。君も色々と短い期間で体験したようじゃが、そんなことはこれからの長い人生双六のひとこまに過ぎん。それくらいの失敗を取り戻す時間は君の人生の中に無限に残って居る。

繰り返すが、失った物を取り戻す時間は若い君にはある。例えもう一度失敗してもじゃ」

「解りました。この過去数ヶ月の自分が恥ずかしく思えてきました」

「そんなことは恥ずべき事ではない。湖の淵に臥せっている龍が一々恥じていては折角の雲にも乗り切れ無いぞ。大事なことは、風を得て雲を呼び込み、それに乗ってからのことじゃ。客家の先輩として言わして貰うが、客家の血はそんな

柔な物ではない。

我々の大先輩や祖先が脈々として営んできた客家の誇りを君も受け継いで、次の世代へと渡してやってくれ」

「私は臥龍と言われるほどの人物ではありませんが、自分の本当にやりたいことが解らなくなっているのです。貿易を通して世界へ翔く事が本当に自分にとってしたい事なのか、又何かに夢中になっている時でも、それが本来自分が欲している事ではないのではないかと思うことが多々あります」

「儂も若い頃はよくそう考えた。仕事が巧くいっていない時や、好きな仕事のある部分に自分の不満なことが入っている時など、特に思ったモンじゃ」

「老大でもそうなんですか」

「しかし、人生を終えようとしている時、今一度そのことを考えてみると、やはり自分の一番したいことを人間はし続けてきたのだと言える気がする」

「じゃあ老大は自分の一生に満足し続けてきたと仰有るのですね」

「その時々には不満があったが、今、結果として最高の人生だったと確信して居る」

「それは老大に限らず、全ての人が人生の落日を迎え、同じ感慨を持つと思われますか、つまり先生が人生の成功者だからそう思われるのとは違いますか」

クンは興奮の余り『先生』と呼んでいる自分には気が付いていなかった。

「私は殆ど全ての人が、人生の最後に自分のそれに満足感を持って、死に臨んでいると信じている」

「解りました。老大のお言葉は一生忘れません」

江本の目にも光るものがあった。

「クンさん、老大もお疲れだろう。今日のところは一先ず失礼しよう」

「老大、色々と失礼な話題を持ち出しまして、お気に障られましたら申し訳ございません。私も頑張って生きていきます。先生もお体を大切にして下さい。立ち直った私の姿を見届けて戴ける日を楽しみにしております」

老大は疲れたのであろう、クンの最後の言葉は眼を閉じて聞いていた。

病室の窓外には、先程まで勢いよく燃えていた太陽が、今将に落ちようとしているのが見えた。

 

第七章 同床異夢

 

「老大にお会いする事はもう無いかもね」

二人は交わす言葉も少なく香港の雑踏の中を歩いていた。

「辛いけど、私も頑張らなくては本当に老大に会えなくなりそうだ」

陽も落ち、港のあちらこちらから蝦や蟹を焼く臭いがしてくる。

料理人が手早く海鮮物を捌く側から、客席係の小母さんが客を引いている。

「さっき上がったばかりの蝦はどうだい。ちょっと食べていかないか」

「そうか、今日は俺達バンコクからの飛行機の中以外何も食べていなかったね」 二人はどちらから言うともなく、客引きの小母さんに案内されるがままに汚い椅子へ腰を下ろしていた。

「お兄さん達、香港人じゃないね。今日は上海蟹の太ったのが入っているから試してみてよ」

二人はメニューの選定を小母さんに任せるとビールを急いで口へ運んだ。

「相変わらず香港人は逞しいね。見ている方迄元気が出てくるよ」

「彼等は一旗揚げるつもりで香港に居るのだし、クンさんみたいに仕事を哲学的には考える事もないんじゃないかな」

「哲学的ね・・・」

「難しく考えないで、単純に生活の為の金儲けと割り切っていいんじゃない」 「まぁね。しかし今は全くノーアイデアさ」

「そこで思いついたんだが、二人でワールドエキスプレスを再興しようよ」

「ワールドエキスプレス・・・」

「名前は変えた方がいい。老大の言う通りクンさんの本当にしたい事は貿易なんだってことさ」

「・・・・・」

「臥龍先生、何時までも湖の底に眠っていると、そのまま水苔が生えて終いには魚の餌になっちゃうぜ」

「けど具体的にはどうするんだ。三年のブランクは大きいよ」

テーブルの上には、手足を藁で縛られたまま蒸された上海蟹が湯気を上げ並んでいる。

「小母ちゃん、ヤケに多く持って来たな。流石に香港人だ。実はフィリピンの縫製業者と納期の件でトラブって、現在はタイで細々と衣料品を作っているんだが」

江本は蟹を捌き乍ら話を始めた。

「私が輸出をするわけじゃないので、手数料も少なく利益の大半は縫製業者と輸出業者に入ってしまう」

クンの眼に光が戻って来たと見ると、江本は更に一段と強い調子で続けた。

「クンさんも知っての如く、タイ政府は輸出を奨励するために、戻し税を払っているじゃないか」

その事はクンもよく知っている。商品によってその率は違うが、輸出額の三%から十数%の報奨金が出る。

「我々はボーナスと呼んでいるよ」

「それなんだよ、会社を作るメリットは。例え原価で輸出しても、政府からのボーナスが利益として出るじゃないか。クンさんの信用力を生かせば客も業者も戻ってくるし、私が日本から客を引っ張ってくるのも今まで通りさ」

「出来そうな話だな」

「クンさんが五一%、私が四九%のタイの法律に則った正規の会社を創ろう。お互い給料は同額だ。一年後の決算時に利益を五一対四九で分配してくれれば私の方はオーケーだ」

「やってみるか」

「やっと龍が雲に乗る気になったか、タマサーク大学の秀才が置屋の天井部屋で寝転んで居ちゃ駄目だよ」

クンは目の前が開けていく気がして、大きくマールボロを吸った。

だがしかし夢に浸っているほど今のクンは幼くはなかった。

「クンさんの問題は資本金の調達だろう。私が持っていれば貸すのだが、自分の分を集めるのに精一杯だしね。それより資本金額を幾らにしよう」

「株式会社にするなら百万バーツは欲しいね。FAXやら電話、コピー機と色々必要だしね」

「ワンミリオンか。そうだ社名をミリオネックスとしよう、ミリオンエキスプレスさ。毎年百万バーツを稼ぐ事を目標にする為にもさ」

「それはいいけど」

「金なんて何とかなるさ。俺も日本へ帰って出来るだけ早く送金するよ」

クンはランにはこれ以上甘えられないのでロンに相談しようと思っていた。

 

相変わらず濁ったチャオプラヤ河の水面を煩雑にボートが波繁吹を上げて滑っていく。上流から下流へ、下流から上流へとタイ経済の発展振りがこの波繁吹のひとつひとつに象徴されている。

その河畔に一際目立つ真っ白なビルが、ロンの発送センターの完成した姿であった。

クンは玄関前から最上階を見上げると、幼馴染みに投資とはいえ無心にいく自分が惨めに思えてきた。

『ロンにとっても悪い話ではない』

自分に言い聞かせるように呟くと、小さく胸を張って受付へ向かった。

「社長は先程からお待ちしております」

『社長か、凄い出世だ』

ロンは最上階の社長室で待っていた。

「少し太ったみたいだな」

「元気かい。ここに来るのは初めてだろう。まぁ窓から外でも見てくれ」

河岸に作られた船着き場には大小様々なボートが接岸している。

「大きな奴が生産地からで、小さいのが各配送支部やレストランへ向かう配送船なんだ。このセンターで各配送先の一日の必要量毎に小分けして分配するのさ」 「ちょっと会わない内に凄いことになったモンだ。直営のレストランもオープンしたそうじゃないか」

「ああ、屋台の組織は別会社にして、今は飲茶レストランのチェーン化に全力を注いでいる。前にも話したが、食材は全て自前だから安くサービスが出来て大好評さ」

「雑誌にも取り上げられているらしいね。次は何をするつもりなんだ。ロンのことだ、当然考えているんだろう」

「ちょっとしたアイデアがあって、名物レストランみたいな物を作りたいんだ。ショーなんか見ながら食事をする、レストランのディズニーランド版てところかな。これから益々食材の調達が厳しくなってくる。そこで以前にも話した、客家のネットワークを利用した食材輸入の会社を創ろうとも思っているんだ」

クンは自分の話題の出番が来たと感じた。

「それなんだ、今日の話は」

クンは、ロンから切り出してくれたお陰で堂々と新会社の話が出来ると思い、老大の事や江本との経緯について丁寧に話し始めた。

「渡りに船というか、クンの信用と実力はよく知っているが、そのワタルとか云う日本人は少し引っ掛かる物があるな」

ロンの事業に対する天性の勘が働いたように見えた。

「彼とは長いつき合いだ。老大も信用しているから問題はない」

「又マイペンライか、まぁ、クンが言うのなら信用してもいいか。それにお前と俺で五一%のシェアを持つんだから」

「ワタルにも会って貰うよ」

「シェアは任すけど、クンの分は俺が貸すと云うことだな」

「済まない」

「いいよ。お前の再出発だ返さなくてもいいさ」

「それは駄目だ。必ず返す」

「それも任せるよ」

「あのソンポーンにも話してみるか」

クンはホッとしたのか、嘗て事件が起きた工事現場で再会した古い友人を思い出した。

「あいつは駄目だ」

「ロンの片腕じゃないのか」

「だった。と、言うのが正しいな。二人で屋台を引いているときは頼りになったんだが」

「どう言うことだ」

「それはいい。何れ話す時もあるだろう。それより、来年はお互い三〇歳になる。頑張って俺もお前も人生の基盤を作らなくては」

ロンの何か奥歯に物の挟まった言い方に不自然さを感じたが、目の当たりに友の成功した姿を見せつけられ、胸の底から力が湧いてくる感じを覚え、ソンポーンの件は深く詮索せずに、ロンの会社を辞した。

ランはクンの眼に輝きが戻った事を喜び、自分も一〇%程度出資をすると言い出した。

「ランにはこれ以上迷惑を掛けたくない」

「これは私の投資よ。クンにお金を上げるのじゃないわ。ロンが取引先なら堅い投資といえるわ」

「なんだ、俺に投資をするんじゃなくて、ロンにするわけか」

華僑の投資方法にはリスクを分配する方法が良く見受けられる。

新しい事業を起こす時、多くの友人や親類が互いに出資し合い、社長本人のリスクを出来るだけ少なくする。出資者の誰かが別の新しい事業に手を出すと、今度は前回の事業者も幾分かの出資をする。

従って一人で多くの事業に出資しながらも、自分の事業にも多数の出資者が存在し、互いにリスクと利益を分配し合う。

例えて言うと、ルーレットの数多くの数字に賭けるようなもので、ひとつが外れても何処かでその損失を埋め、結果として華僑のグループの資本力は蓄えられていく。

凡そ一国の経済を発展させる為には、右の如く或る一定の個人やグループに如何なる形にせよ、資金が集められることが大前提である。

大きな新事業には大きな資金が要る。株式市場や金融市場が発達していない後進国では、広く国民全般が平均的に資金を持っていては大きな事業は始められない。大きな事業には大きな雇用が生まれ、その雇用者は所得を消費し、その消費を吸い込むために更なる事業が生まれる。

この新事業と新雇用が一国の経済を発展させ続ける車の両輪なのである。

トウショウヘイが唱えた『豊かになれる物から先に豊かになるがよい』は将に資本主義経済の本質を言い表している。現在の中国でも沿海部の富裕層が消費を爆発させ、それを狙って海外から資本が流入し更に経済が発展するという、資本主義経済のお手本のような発展が続いているのである。

翻ってキューバでは、一部経済を開放したところニューリッチと言われる金持ち層が出現しだしたが、それを知った政府の対応は『怪しからん、彼等から税金を取れ』で、あった。

キューバの場当たり的なこの政策は、折角一部に資本が貯まり始め、経済発展の兆しが見え始めたその芽を摘むに等しいと言わざるを得ない。

結果、『野球選手を日本に貸すから援助を呉れ』と、言う経済政策とは凡そかけ離れた外交をせざるを得なくなるのであり、一国の繁栄は、信長の『楽市楽座』の制度を持ち出すまでもなく、その指導者の政策と国家体制に依ることが多い。

 中国人は古代より資本主義の権化と言われ、本能的に金儲けの術を知っている民族なのである。

「私だけじゃなく、母の名義でも少し出資するわ」

クンは又ランに教えられた気がした。これは自分個人への貸し金ではなく、ミリオネックスへの投資なんだと、割り切って他の友人、知人へも積極的にシェアを分配することにした。

大学時代の友人嘉誠も新会社へ投資した一人であった。

クンの信用力に積極性が加わって資本は瞬く間に集まり、早速江本に『準備オーケー』と、FAXを流した。

一週間が過ぎたが江本からの返事はなく、心配になったクンは電話を入れてみた。

「クンさんか、済まない。なかなか思うように金が集まらなくて、しかし流石に華人のネットワークは凄いね。あっと言う間に金が集まっちゃうのだから」

華人ネットワークではなく、クンと江本の信用力の差が出ているとは彼は考えていない。

「で、どうですか。可能性の方は」

「若しクンさんが良ければ、私のシェアを減らしたいと思うんだけど。今現在手元にあるのは二〇万バーツくらいなんだ。後の二九万バーツを其方側で引き受けて貰えるとありがたいな。当然利益の分配も八〇対二〇になることは解っている」

「オーケー、マイペンライ。取り敢えず二〇万バーツを送金してくれ。そして出来るだけ早くバンコクへ来てくれないかな」

珍しくクンが主導権を握っているのをクン自身も気が付いていなかった。

「クンさんに任すから、準備を進めてくれないか。私もお客を連れていくことからスタートしたいので」

 事務所はシンの父親が使っていないビルを丸ごと一棟貸してくれることになった。勿論彼も、残りの二九万バーツの一部を出資する権利を持つことを条件としてであった。

六階建てのビルの一階をショールームとして、二、三、四階はオフィスと荷捌き場にあて、クンは五階の一室を自分の住居用として使うことにした。

クンのビジネスの基本である『職住接近』を実行したのである。

事務机や通信機器が入ると会社らしくなり、貿易商としての自覚が次第に増してくる。同時にスタッフも募集しなくてはならず、クンは多忙であった。

 金銭を扱う経理は出資者の親類筋に当たる女子を入れ、営業としては英語力を買って短大卒のジュディを入社させた。その他作業室のマネージャーやら運転手を入れると総勢七名のオープニングスタッフとなった。

もう少しこじんまりとしたかったが、ロンの仕事だけでも相当の人数が要ることを考えると適当な人員とも思えた。

クンは全ての準備が整うと、嘗ての顧客へ会社設立の案内状と業務内容の説明を送った。無論その中に直樹が入っていたのは言うまでもなく、彼からは直ぐにでも訪タイする趣旨の返事が来てクンを喜ばせた。

やがてバンコクへ着いた江本と会社設立の登記をし、銀行の口座もミリオネックスで開いた。

「ミリオンとは凄い名前ですな。精々儲けて下さいよ。ウチもクンさんなら積極的に融資もするし、L/Cも引き受けますよ」

銀行家も心底彼の復活を喜んでくれているらしく上機嫌であった。

「ワタルに会って貰いたい日本人がいる」

クンは銀行からの帰路こう切り出した。

「今日の夕方のフライトで東京から来るんだが名前はナオキという。

彼は私の古い友人でもあり重要な顧客でもあるんだ。元ヒッピーらしく世界中を廻っているため、その体験に基づく知識はワタルのビジネスにも役に立つと思うんだが」

「面白そうだな」

「それともう一人、新会社の出資者で私の幼な馴染みでもあり、これ又有望な大実業家でもある」

「その人にも興味があるな」

「ナオキを空港でピックアップして、ロンのレストランへ行くことになっているんだが」

「私にとっても重要なお客様になる方々だ。クンさんに従うよ」

バンコク着のJALは一五時半に着く、二人は空港へと急いだ。

江本は車中、内心『そんなに重要な人物二人を紹介するとは、クンも俺を最も近いパートナーと考えているらしい』と、思っていたが、反面クンは『ワタルの人物を二人に見て貰い評価の程を聞いてみたい』と、思っていた。

クンは出資の条件変更の件といい、フィリピンでのトラブルといい、今一つ江本のビジネスマンとしての生き方に釈然としないところを感じていた。

このままの心境では、目的は同じだが将来の会社の方針に差異が生じる、所謂

『同床異夢』に成りかねない。が、しかし既にこの車中で同床異夢は始まっていた事をこの二人は知らなかった。

 

 

第八章 蟻の一穴

 

三人が招待されたロンのレストランはシャム広場の一角にあった。

 この広場はバンコクの中心に有り、周りには有名な日系のデパートも店を構え又、若者文化の発信地であるブティックや飲食店が軒を連ねていて、二四時間、最先端を自負する若者で賑わっている。東西各一カ所ずつに車の出入り口が有り、広場内の路上が有料駐車場というユニークな構造になっている。

多くの老舗レストランがこの地域を占めており新規物件は少なく、有ったとしてもかなり高額な条件で取り引きされている。ここにロンが進出したこと自体、彼の発展振りがよく分かる。

「ロンさんって大した人なんだな」

江本と直樹はどちらともなく呟いた。

既に二人は空港からの車中で自己紹介を済ませ、クンの「私に気を使わないで、二人で日本語で話してよ」の言葉で十分すぎるくらい話し合っていたみたいであったが、クンには二人が打ち解け合ったとは思えなかった。

「社長は今参ります」

よく訓練されている風のマネージャーであった。

「サービスもいいみたいだね」

直樹は英語で言うと、江本もそれに続けて英語で話し出した。

「これを見ただけでも彼のビジネスマンとしての力量が計れるね」

「メニューを見ても、これだけの高級レストランとは思えない値段の安さだ」

「それが彼の成功の秘訣らしいよ」

二人の日本人が友人を誉めてくれる。クンも自分の事の様に鼻高々であった。

「お待たせしました。お呼びしておいて皆様をお待たせした失礼をお許し下さい」

江本と直樹は息を呑んだ。

『クンさんの同級生と言うから我々寄り年下の筈なのに、この風格は何処から来るんだ。その上謙虚で偉ぶったところがない』

「クン、皆さんに注文はしてくれたのか」

「未だだよ。お前の方が注文が上手だからな」

ロンはマネージャーを呼ぶと、いつものようにてきぱきと注文をし全員のグラスへビールを注がせた。

タイではビールなどを注いだり受ける場合には片手にもう一方の手を添えるのが礼儀である。日本も嘗てそうであったし、隣国韓国では今現在も同じ仕草をするが、これは昔着物の袖が邪魔をしないよう気を付ける仕草から来ているが、これも中華圏の共通文化のひとつであろう。

更に、タイと韓国の数の数え方は非常に似通っているが、中国で発生した文明が周辺へと押し出されていった事の例は右の二つ以外にも無数に発見される。

 中国で発生した文明に限らず、 西方から伝わった文明も中華と言う篩に掛けられ、そのエキスが周辺へと伝わって行った。

その華文明の中心の出身だというプライドを持った男が座っている。

「お話はクンさんから伺っております」

江本の流暢な英語も語尾に震えが感じられる。

「ロン、お前貫禄付いちゃったな」

「ちょっと太ったからな。でも日本や欧米先進国と違って、我々後進国では太った男性の方が持てるのですよ」

『笑うとやはり若さが出るな』

直樹はロンの本質を見た気がした。

「ワタル、大人しいな。今日はミリオネックスの大株主と最高幹部と最大顧客の親睦会なんだよ」

グラスを重ねるに従ってクンは饒舌になってゆく。

江本はグラスを一気に飲み干すと、決心したようにロンに向かって訊いた。

「ロンさんはミリオネックスの役員に入るのですか」

「私は入りません。クンの仕事の能力は知っているし、経営のことで古くからの友人と言い争いをしたくないですし」

「貿易は解るが、経営者としては私は余り自信がない。ロンにはこれからも色々助けて貰うことになると思うよ」

「私に解ることなら助言は出来ると思うが、経営者は飽くまでクンとこちらのワタルさんだ」

江本は内心ホッとすると、気を取り直したのか新しいビールをグラスへ注いだ。 『こんなやり手の奴に役員に成られては堪らない。新会社は俺とクンのモノだ。クンだけなら俺が後ろで糸を引くことは可能だ』

これが江本の本心であった。

「江本さん、何だか元気が出てきたみたいですね」

直樹は何かを感じ取ったみたいで皮肉めいたジャブを出した。

「いやぁ、ビールが廻ってきたみたいでね」

江本はその言葉とは裏腹で眼は笑っていなかった。

ロンは場の雰囲気を察したのか、クンに向かって一際大きな声で言った。

「新会社の施政方針演説でもしろよ。お前が社長なんだから」

ロンも『クンが社長だ』と、念を押したのであろう。

「そうだな、何だか照れ臭いが、私が社長でワタルが副社長。業務の柱はこのナオさんを筆頭とする海外バイヤーの輸出代行とする。又、ロンの食材調達先の開拓及びその輸入代行、こちらの方が将来性が大きいかな」

 クンはロンの方を向いて笑った。

「スタッフは揃ったのか」

「経理と営業と発送のマネージャーは既に訓練を開始している。後は日本語の出来る営業が一人欲しいな。ワタルが日本からアパレル関係のお客様を連れてくる手筈になっているからね」

今度は江本の方を向いて笑った。

「しかし、日本人や日本語の出来るスタッフの給料は高いぞ」

「そうらしいが、日本人の多くはナオさんやワタルのように英語は巧くない。俺の経験から言うと、外国人とのトラブルの殆どが言葉が通じない誤解から始まっている」

クンはここだけタイ語で話した。

「クンさん、それは俺に任せてよ。心当たりがあるから」

ロンは一瞬嫌な予感がしたが表情には出さず黙っていた。

「それは有り難い。俺には、本当に今の七名のスタッフでやっていけるか少し不安が有るんだ」

「初めから多くの人員を抱え込まない方がいい。小回りが利かなくなるぞ。

儲かってから増員しても遅くない。又人選には呉々も注意しろよ」

「不正行為だろう。それは前の会社でもよく見たから解っている。日本人と違ってタイ人スタッフには会社に対する忠誠心は少ないからね」

「ウチでも仕事を覚えると、給与に釣られて直ぐ他社へ移っていくケースが後を絶たないよ。特に盆明けが多いんだ。故郷へ帰って友人らと他社の情報交換するのが原因らしい」

「想像はしていたけれど、タイの経営者も大変なんだ」

やや赤味を帯びた顔の直樹が、親指と中指の二本で口髭を左右に分けながら呟いた。

「油断をするとネコババやらバックマージンで会社は食い物にされてしまう」 「儲かっているときは経営者もある程度は黙認しているのだけど」

「そのネコババ分だけ給与を少な目にしてあると言うことか」

右の会話に出てくる事柄は日本を除くアジア全域の共通の問題であり、華人経営者が会社の重要ポストを家族で構成し、他人を入れないのもこの事由による。 アジア地域で唯一日本のみが世界に冠たる大会社を作り得たのは、幕藩体制が長く続き『お家に対する忠誠心』から発生した、組織の中での腐敗が極めて少ないという歴史的土壌から説明が出来る。

「クンさん、早速なんだけど明日東京からお客が来るんだ」

「最初のお客様だ、私も空港まで迎えに行こう」

「じゃあ明日と言うことにして、私はそろそろお暇しよう」

「私も失礼しよう。私の買付は明後日という事にして」

クンは江本と直樹を玄関まで送るとロンの元へ戻り、 ホッとしたようにマールボロに火を点けると、やや呂律の廻らなくなった口で切りだした。

「どうだった、感想は」

「ナオキは出資者じゃないから別段どうと言うことはないが、鋭そうな奴だ。味方にすればクンのブレーンになるが、敵に回すと手強い相手だな」

「俺もそう思っている」

「問題はワタルだ。彼が副社長になると将来に禍根を残す可能性がある」

「どう言うことだ」

「よく判らないが、ミリオネックスを舞台にして何かを企んでいる気配がするんだ」

「それは何だ」

「判らない。俺の商売人としての勘としか言いようがない。何にせよ、彼が何かを提案してきたら一歩下がってよく考えた方がいい。今はそれしか言えない」 「そうか・・・」

クンは不安を残しつつ帰路に就いた。

 

翌日約束の時間を一時間ほど過ぎた頃江本はミリオネックスへ現れた。

「遅れて済まない。彼女を迎えにホテルまで行ってたので」

そこには清楚な雰囲気の漂う若い女性が恥ずかしそうに立っていた。

 「こちらはミヤコ。お金持ちのお嬢さんさ」

江本が紹介するにはミヤコこと貴家洛子は由緒正しい家柄の娘であり、英語の勉強のためシンガポールへ留学し、そのまま現地企業に勤めていたらしい。

「この娘なら英語も問題ないし、シンガポールで揉まれているからビジネスも一人前だ」

クンの見た目でもかなりの美人である。

日本女性にしては背も高く色白で、長く伸びた脚線は蠱惑的でもあり、何処か幼さの残る顔立ちからも育ちの良さが感じられる。

「シンガポールへは私も仕事でよく行きましたよ。綺麗な街ですね」

「厳しすぎるぐらい清潔にすることに気を払います。ガーデンシティを標榜していますから」

「私もタバコを棄てて罰金を払ったことがありますよ」

「まぁ、お気の毒に」

品のある微笑みがクンを魅了した。

「バンコクはどちらかと言えば汚い街ですが、大丈夫ですか」

「でも天使が住んでいると聞いております」

「クルンテプを御存知ですか」

クンは満足した。話し込んでみると英語力に実践力としてやや不満が残るが、頭の回転は速そうだと思えた。

「給料の・・・・・」

「彼女もタイの給料がシンガポールより安いことは知っている。それはいいんだが、条件としてこのビルの一室に住まわせてやってくれないかな」

「簡単なことさ。けれど夜はこのビルには私一人になってしまうんだが」

「クンさんなら信用できるし、又彼女にとっても下手なマンションに住むより安全だと思う」

「お願いします」

 か細くはあったが、凛とした声であった。

クンは一瞬ロンの『一歩退って』ということばが頭を過ぎったが、この程度の提案なら問題はないと結論した。 否、彼女の美しさに圧倒されたという方が正しかった。

「早速これから来るお客を紹介して担当させよう。いいだろうクンさん」

洛子は翌日早朝から荷物を運び込むと、早々と日本人バイヤーを迎えにホテルへ向かった。

「日本人はやることが早い。評判通りだ」

クンは貴重な戦力を得て満足気味であった。

日本人バイヤーの工場への案内は洛子と江本にそして営業のジュディを向かわせ、自分は直樹の買付を担当した。

「大丈夫かい、新しい女の子と江本さんで」

「工場での打ち合わせはアパレルの専門知識が要る。私が行くよりワタルの方が適切だ。それにジュディにアパレルの知識を教える好い機会にもなるし」

「そうだな、以前のようにタイの民芸品を輸出しているだけじゃ高が知れてるからな。アパレル業界を相手にすれば売上も伸びるし、そうなると専門知識も必要になると言うことだ」

ミリオネックスの滑り出しは誰の目にも絶好調に見えた。

江本の連れてくるアパレル関係者は大小様々であったが、日本国内の高いコストを避ける風潮に乗って一様に海外生産に積極的であり、一九八六年は忙しさの中で瞬時に過ぎた。

明けて一九八七年、薫華は三一歳になっている。

この三月の決算は全株主が驚くほどの好決算で、全てがクンと江本の経営者としての手腕を認めた。

初年度の売上は五〇〇〇万バーツ、当時のレートで二億五〇〇〇万円くらいとなった。一九七〇年頃の一バーツは一八円ぐらいであったが、タイバーツは一米ドル二〇バーツと米ドルにリンクされていたのが、後に一ドル二四・五バーツと切り下げを行い、対円レートでは一方的に安くなり続け、一九九五年現在では既に五円を切っている。

このバーツを常に円貨に対して切り下げていく政策が日本企業のタイ進出を促し、現在のタイ経済発展の要因の一つになっている。

発展し続ける自国の通貨を切り下げることは、国際社会の容認と輸入品価格の高騰という二つの壁を乗り越えなければならないが、タイ経済は大まかに言えばこれを乗り切った。

売上五〇〇〇万バーツに対する報奨金は約四〇〇万バーツであり、輸出代行の手数料は六五〇万バーツに達している。

クンと江本の二万バーツの給与額を最高とする全従業員の給料の粗利に占める割合は僅かなものであり、その他の経費を差し引いても、株主への利益分配は彼等を十分に満足させた。

ロンやランを始めとする株主の多くは利益の内部留保を勧めたが、一人江本だけが当初の約束通り全ての利益を分配することを強く主張した。

ここにも現地に根を下ろしている華人ビジネスマンと、飽く迄利益を本国へ持って帰ろうとする浮き草の日本人ビジネスマンの違いが浮き彫りになってくる。 江本の主張は通り、彼は出資分のほぼ全額を一年で取り返すことになる。彼は対円で安くなる一方のバーツを内部留保するより、円貨で保有する方がよく、又ミリオネックスに対する考え方は所詮投資の対象であって、本業ではなかった。 従ってクンの会社への思い入れとは対称的に投資の回収を急ぐという考え方が支配的である。

『金は取り戻した。後は適当に客を連れてくれば毎月給料が入る』

これが江本の偽らざる心境であった。

が、しかしミリオネックスの業績は江本の想像を遥かに超えた驚異的な伸びを見せていた。

クンの仕事の正確さと誠実さは海外バイヤーを安心させ、国内業者への信用も益々堅固になり、客が客を呼んでいた。

そんな状況の中で江本のバンコクでの滞在日数は、毎回査証無しで滞在できる最長限度の九〇日に迫っていた。

クンは増加する一方の日本人バイヤーを捌ききれず、その担当にもう一人スタッフを入れ洛子の部下とし、ジュディにも部下を二人付けヨーロッパ、アフリカ担当と南北アメリカ担当を命じた。

経理も繁雑を極め、その不満が絶頂に達したのを見て経理課を設け、銀行員であるアキアットをヘッドハンティングして課長とした。

各営業担当者には、顧客接待用に法人用クレジットカードを持たすことにして経理を助けた。

組織の末端が自己増殖を始め、トップであるクンには把握しきれない部分が出始めていたが、彼は人生の絶頂期を感じ、結婚のことが頭を過ぎりだしていた。 けれどもミリオネックスの繁忙振りは、彼がプライベートな時間を持つことを許すには余りにも凄まじいものがあった。

この日もクンはナイジェリアのバイヤーを連れてパッポンを飲み歩いていた。 アラブ圏のバイヤーは本国では厳しい戒律のため飲酒は儘にならず、海外へ出ると羽目を外して一気に飲酒へ走ることが多い。

クンも飲酒は好きであったが、アラブ人接待は宗教上のタブーも多く気が滅入るものであった。

彼はバイヤーを強かに酔わせ、いつもの手であったがランのマッサージハウスへ連れ込み、アラブ専用の女の子を宛てがうと帰宅を急いだ。

時間は一〇時を少し廻った頃で、いつもよりは早めの帰宅であった。

アルコールで朦朧とする眼でビルを見上げると、三階の作業室に薄明かりが点いている。

『今日も残業か皆に悪いな』

クンは近くの屋台で夜食を買い求め、電気の点いている三階へと向かったが、いつもの様子とは違う雰囲気に気が付いて、扉の前で足を止めた。

中から何やら喘ぎ声にも似た声が洩れてくる。

「クンさんはこの時間には帰ってこないわ」

洛子の声である。

「お前バンコクに来てから大胆になったのと違うか」

「江本さんのせいよ。日本にいる時は奥さんの手前あまり会えなかったのに、こちらへ来てもこんな所へ閉じこめて会えなくしちゃって」

「シンガポールにいるときは一ヶ月に一度は会いに行ったじゃないか。もう少し辛抱してくれ、ミリオネックスのお陰で俺も成功者になる可能性が出てきた」 「もう少しって一体何時までなの、何時奥さんと別れてくれるのよ。私も今年二四歳になるのよ」

「十分過ぎるくらい若いさ。さぁ、その若い蕾を俺のために開いてくれ」

洛子の声は次第に聞き取れなくなり、呻き声へと変わっていった。

『ワタルもやるな』

クンはあまりこの事件には気を留めずに自室へ戻った。

翌日江本が社長室へ顔を出した。

「偶には会社へ来なくちゃね。客との工場とパッポンの往復にも飽きが来たしね」

『昨夜来たばかりじゃないか、いやあのままミヤコの部屋に泊まったのかな

クンは内心そう思ったが、素知らぬ態度で臨んだ。

「ちょっと来ない内に社長室が出来たらしいね。ウチも大きくなったモンだ」 クンはその皮肉を意に介さず話しかけた。

「ワタルも元気そうだな。連日の日本人バイヤーの接待でもっと疲れていると思っていたんだが」

「日本人は二、三泊しかしないので目一杯遊んで行く、こちらに住んでいる俺達はたまったモンじゃない」

「私もそうさ、マァ会社は儲かっているのだし、お互い愚痴を言わずに頑張ろうよ」

江本も接待用のカードで毎晩のようにパッポンを飲み歩いているらしかった。 日本人バイヤーの一回の取引額は三万から五万ドルくらいであり、仮に十五%の手数料を貰うとすれば、一晩や二晩の飲み代は高が知れている。彼も酔ったバイヤー達をマッサージハウスへ案内し女の子を宛てがいホテルへ連れて行かすと、自分は一人馴染みのクラブへ直行することが屡々あった。

「接待だからと言ってもあまり金を掛けないで呉れよ。アキアットの報告によるとワタルの交際費が群を抜いて多いらしい」

「解っているよ。しかし日本人を安いところへ連れて行くわけにもいかないだろう。彼等の取引額が当社の七十%を占めているのだから」

「ミヤコの分もワタルが使っていると思えばいいか」

洛子の名前が出て江本は一瞬後退いだが、平静を装って続けた。

「そこでだ、クンさん。チャオプラヤ河の畔に小さい土地を買ってゲストハウスを建てるというのはどうだろう」

「ゲストハウス」

「そうさ、プール付きのね。客の接待はここでやる。ランのハウスから女の子を出張させれば彼女も潤うわけさ」

「成る程」

「客はそのままそこへ泊まればホテル代も浮くし、奴等には会社用に偽の領収書を切ってやれば更に喜ぶぜ」

「悪知恵は働くね」

クンもにやりと笑った。

「その客が他社へ流れることも阻止できる。どうだ、一挙三得にも四得にもなる話だ」

バイヤーがバンコク滞在中に接触できるのはミリオネックスだけというのは悪くないアイディアに思えた。

「アイディアはいいが、一応株主のロンにも相談してみないと」

「ロンか。社長と副社長が二人賛成でも株主には勝てないと言う訳か、まぁ、いいさ」

「今夜、久々に彼が来ることになっているから話してみるよ。ワタルも一緒に食事でもしないか」

「俺は今夜は珍しく接待のない日なんでね帰らして貰うよ。ロンの説得はクンさんの方がいい。彼は俺の事そんなに好きじゃないみたいだから」

「そんな事はないさ」

クンは以前よりワタルが変わってきていると思った。

未だ暑さの残るバンコクの夕暮れ時にロンは一人でやってきた。

「一人なのか、秘書とかが一緒じゃないのか」

「そんな贅沢はしない。ナオキから聞いたんだが、日本には『実るほど頭を下げる稲穂かな』と言う諺があるらしい。

「いい言葉だ。タイも米の一大産地だし俺も覚えておくよ」

クンは機先を制され、本題を切り出せなくなっていた。

「どうだ、儲かっているか」

「売上の伸びも順調で、昨年の倍近くは行きそうだ」

「そいつは凄い。ウチの食材輸入も増えているし、ミリオネックスは益々発展しそうだな」

「結婚も考えているが時間がなくてね」

「俺も同じだ。今、レストランビジネスの集大成とも言える事を考えていて、

とても結婚に没頭する時間がない」

「相変わらず積極経営だな」

「儲かった金は再投資してこそ意味がある。遊ばせておいたり、無駄なことに使っては株主や従業員に申し訳が立たないんだ」

クンはロンが今日の本題を事前に知っていたのではないかとさえ思った。

「しかし人間にはオアシスが要る。俺も仕事が好きだけど、毎日白飯とスープでは飽きも来れば味気もない。時にはお前の店でフルコースも食ってみたいと思うのは人間として許される行為と思わないか」

「異論はないが、そんなことは年を経ってからでも遅くはないじゃないか」

「年を経って金が出来てもやれないことがある。功なり名を遂げた年寄りの言葉に『この金の全てを使っても若さを取り戻したい』と、言うのが多いのも事実だ」

「その通りさ、しかし金を失くして若さを取り戻しても、これ又味気ないものだ」

「結局は人生観の問題だな」

クンはこの話題に深入りしては得策ではないと判断し話題を変えた。

「アキアットが愚痴しているぞ、交際費が鰻登りだって。業務の性格上ウチより交際費を使うのはよく分かるが、彼の話によると営業の連中は個人や家族との飲み食いにも会社のカードを使っているらしい。知っているのか」

「知っている、それも前にも言ったが、給与の一部だと割り切っている」

「社長がそれで経営していける自信があるのなら俺は敢えて何も言わないが、お前が一生懸命煉瓦を積み上げているのに、その横で一段ずつその煉瓦を外している奴が居ることを頭に入れておいた方がいいのじゃないかな」

「ワタルのことを言っているのか」

「彼だけじゃない。発送のマネージャーでも段ボール箱を幾らで買っているのか知っているのか、悪いと思ったが、アキアットに納品書を見せて貰った。これは明らかに相場より高い」

「彼が差額を懐に入れていると言うのか」

「そうとしか考えられない、よくあるケースだ。それに」

「未だあるのか」

「運転手のガソリン代の領収書も要チェックだな。一旦入れたガソリンを他へ転売している可能性もある」

「そこまで・・・・」

「それにワタルが時々日本人バイヤーとチェンマイへ出張しているが、ホテルへ電話して裏をとった方がいいかも知れない。案外あのミヤコとか云う女と行っている場合もあるしな」

「社長とはそこまでやる必要があるのか、従業員を信じちゃいけないのか」

温和なクンも矢継ぎ早に盲点を指摘されやや気色ばんできた。

「クン落ち着け、今言った経験は俺も一通りしてきた、実に嫌な気分だ。自分の人格を疑ったこともあった。しかし、このアジアで会社を経営するにはこれくらいやらなければいけないんだ」

「従業員の一人々を疑うのか」

クンは肩を落として訊いた。

「自分の家族以外はな、これは華僑ビジネスマンの宿命さ」

クンは確かに華人の血が流れているが、自分ではタイ人だと思っている。すんなりとロンの意見に従うわけにはいかない。

「クンの性格はよく知っている、辛いだろうがやるしかない。真剣にミリオネックスを成功させる気があるのなら。俺は小さい頃から親父の商売を見てきたから慣れてはいたが・・・」

「俺は教師の子だからな」

「いいか、頑丈そうに見える堤防でも蟻の一穴から壊れ始めるんだ。蟻を踏み潰すことに躊躇していては手遅れになる」

クンは先程の江本と洛子の一件をロンが知っているかのような発言にも驚かされたが、ロンの恐ろしいまでの経営者としての成長振りや、その経営姿勢に背筋に冷たいものが走った。

『ロンは俺の知らない部分までも知っている、これが社長業というものか』

とても江本の提案を言い出せる状況ではなかった。

ロンはこれから会議があるらしく足早に出ていったが、外で彼を待ち受けている人影があった。ランである。

「どうだった」

「ちょっと言い過ぎたかも知れないね」

「そろそろクンもワタルも有頂天になってくる頃だから、それくらいで良かったのじゃない」

勿論二人は江本の提案の中身を知る由もなかったが、共に経営者としてはクンより長い経験を持っている。共に独特の鋭い嗅覚を働かせ、彼に釘を刺し来たのであった。

クンはロンの出ていった部屋で一人マールボロをくわえたまま、天井の一隅を見つめ何時までも何かを考えていた。

 

 

第9章 起死回生

 

「ナオさん、仕事の方はどうだい」

直樹は三ヶ月振りにバンコクへ戻っていた。

二人はミリオネックスのショールームで冷たいタイ茶を飲んでいる。時折ガイドらしき人物が外国人バイヤーを連れて入って来て、バイヤーが興味を示すとジュディを始めとする営業スタッフが商談室へと彼を招き入れる。

細かく区切られた商談室は直樹の見るところ常に埋まっているように見えた。

「クンさんほどには急激な伸びはないが、日本はちょっとしたエスニックブームでね、エスニックレストランが火付け役なんだけど、お陰様で好調だよ」

「実は私もエスニックの店をやろうと思ってね、欧米でもブームらしいし、タイにもやがてそのブームがやって来るんじゃないかと考えているんだ」

「ちょっと早い気もするが・・・」

「早いって」

「言いにくい話なんだが」

直樹はそう前置きをして話を続けた。

「エスニックブームというのは、物質文明に飽き始めた先進国独特の現象だと思うんだ。エスニックグッズとは、手作りだったり、伝統的な素材だったり、宗教的な意味合いを持ってたりするだろう。日本や欧米が経済発展のために疾の昔に棄てたものを今懐かしがっている現象なんだよ」

「タイは未だ経済発展していない後進国だというのか」

クンは少しむっとした様子だった。

「だから余り言いたくなかったんだ」

「済まない、続けてくれ」

「今クンさんが言ったとおりさ。タイは必死で経済発展を求めている。経済発展とは効率の問題であって、手作りよりは機械化なんだよ。

理不尽な宗教的謂れを重んじるより、近代的な理論を優先させなければこれは達成できないんだ」

「成る程、発展のために猛烈に走っている我々にはエスニックグッズを楽しむ余裕はないと言いたいんだな」

クンは既に冷静になっていた。

「ナオさんの言うこともよく分かったが、ロンの言う通り儲けた資金は再投資しないと意味がないと云うのも正しいと思える」

ショールームは相変わらずバイヤー達が数多く出入りしている。直樹はそれを見つめていたが、ゆっくりとクンの方を向くと言った。

「クンさんも商売人になったんだな。しかし、折角儲けた金なんだからもっと効率のいい事業に振り向けた方がいいのじゃないのかな」

「民芸品のチェーンじゃ儲からないと言うのかい」

「そうだ、この商売は半分が趣味だ。効率一辺倒の社会に辟易した連中が尤もらしい理屈を付けて始める商売さ。人によっては全部が趣味と言ってもいい。

日本円が強いので我々には粗利は大きいが、売上は決して多くはない。資金も寝るし、折角の粗利も経費として消えてしまうんだ」

「しかし趣味として捉えるより、皆に夢を売っていると考えたらどうだろう」 「それがさっき言った尤もらしい理屈の始まりさ、自分を納得させる以外の何物でもない」

「日本にも趣味から出発して、今や一大産業になっている会社が幾つもあると聞いているが」

「ファミコンとかグリーティングカードの会社のことを言っているのかな。けれど、そこには民芸品とは違う世の中のニーズ、つまり潜在的なマーケットの大きさがあったんだ」

「ミリオネックスは輸出で稼いでいる。俺達も必死で働いている。ロンにも言ったんだが、人間にはオアシスも必要なんだ」

「それがエスニックのチェーン店というわけか、其処までクンさんが思い詰めているのなら私にそれを止める権限はないよ」

商談室の賑わいとは対称的に、二人の間に長い沈黙の時間が流れた。

クンは意を決したかの如く切り出した。

「ナオさんが今度南米へ行くとき一緒に連れていってくれないか。タイには南米の商品は全くと言っていいほど入っていない。粗利がとれると思うんだが」

直樹は彼の決心が固いと見、又本業の利益が出ている内に新しいことをやっておいてもいいと踏んだ。

 

数ヶ月後クンは初めて東京の土を踏んだ。

「凄い電飾だな、日本はオイルを使い過ぎじゃないか」

彼の第一声であった。

その唇は日本の寒さに慣れずに紫に変色している。

直樹は、日本の繁栄はアジアに廻る筈のオイルを独り占めして成り立っているのかなと思ったが、クンの第一声にはそれほど深い意味はなく、単に驚きのそれであった。

翌日二人はロサンジェルス経由でメキシコシティへと向かった。

ロスでもそうであったが、クンが直樹の後に通関すると、『日本人じゃないのか、それじゃあちょっと来てくれ』と必ず入念なチェックを受けた。タイの麻薬を警戒しての処置である。

クンには決して愉快なことではなかったであろう、日本のオイル状況、タイ人への入念なチェック、直樹は国際社会に於けるタイの立場を慮らざるを得なかった。

その彼も、メキシコシティの中心よりやや外れたところにタイ料理の店を見つけた時は童心に帰った如く喜んだ。

「ナオさんタイ料理は有名なんだ」

彼はタイの誇れるものを外国で見つけ心底喜んでいるように見え、直樹も救われた感じがした。

メキシコでは直樹の買い付けるものを見習って少しずつ仕入れをしていたが、グァテマラへ入ると度胸も出てきたらしく、買付量は増えだしていた。

当時のグァテマラはシティからインディオの部落へ行く途中にゲリラが出没したが、軍事クーデターに慣れっこのタイ人クンはさほど気にしている容子はなかった。

インディオの部落チチカステナンゴの市場は火曜日と木曜日だけ開かれる。二人は前日の夜部落の中心地のホテルへ投宿していた。

「メキシコとここの街での買付量では店一軒分にはならないよ。足らない分をこの部落で買い足さなくては」

「初めての仕入れなんだから、余り飛ばさない方がいい」

クンは張り切っていた。しかし直樹が心配するほどミリオネックスの資金力は柔なものではなく、彼の買付にはそれ相当の予算の裏付けがあった。

グァテマラの買付だけでは不足らしく、彼は帰国する直樹と別れてペルーまで足を伸ばすと言いだした。

ペルーでは商工会議所で業者を紹介して貰い、グァテマラにも増して買付に拍車をかけた。

クンは帰国するとシンの紹介でシャム広場のショッピングセンター内に六坪ほどの店を開き、店名を『インカ』と名付けた。

 

或る日の午後ワタルはクンに再度例の話を持って来ていた。

「クンさんのインカはどうだい」

ワタルはインカはミリオネックスで経営しているにも拘わらず、クンさんのと言った。

「売上はいまひとつだが、粗利があるから利益は出ているよ」

「クンさんも自分のしたいことをやっているのだから、どうだろう例のゲストハウスの件を再考してくれないか」

「ロンがオーケーを出さない」

「土地を買うことは諦めたよ、せめてこの裏庭を改造してプールぐらい作るってのはどうかな」

クンも他人が見れば半分道楽に見える商売を始めた以上、江本の提案を無碍に断るのは難しく思えた。

「もうひとつ頼みが有るんだが、知っての通り俺のバンコクの滞在は毎回長くなっている。そこで一軒家を会社の経費で借りてくれないかな。クンさんだって会社の部屋を使っているのだからいいだろう」

「ミヤコと住むのか」

江本は一瞬顔色を変えたが、自分を落ち着かせると言った。

「何だ、知ってたのなら話は早い」

江本には恥じている様子はなく、寧ろ居直っている風にも見えた。

クンは不承々ながらこれも受けた。

如何にミリオネックスに資金力があるとはいえ、クンの道楽と江本の申し入れはボディブローのようにその資金繰りを圧迫し始めた。

けれども相変わらず輸出は絶好調である。そんな或る日ペルーよりFAXが入った。ミリオネックスの名前をペルー貿易局の輸出先リストより見つけたらしい売り込みである。

クンは早速カタログを取り寄せると注文を出し、L/Cの条件を提示した。価格はFOB(現地港渡し値段)だが運賃は元払いにして欲しい、この運賃もL/Cの範囲内で決済する旨を告げた。

先方から了解のFAXが入りクンはL/Cをオープンした。

二週間が経った頃、その輸出者から又FAXが入り文面には以下の事が書かれていた。

「貴社の注文のFOBの合計は三万ドルであり、運賃を含めたL/Cの額は三万五〇〇〇ドルになっているが、品物が陶器なので梱包代も高く、又嵩張るため運賃が五〇〇〇ドルでは到底払えきれない。その上港までの国内運賃や通関費用が含まれていないのはどう言うことだ、善処して欲しい」

彼は直樹に尋ねた。

「南米との商売にはよくあるケースだ。商品の値決めが終わった後、運賃だ、手数料だ、梱包代だと私も交渉にうんざりした経験があるよ」

「だって、FOBと言うのは港渡し価格だろう、タイまでの運賃は別として、それらの国内経費は全てFOBに含まれている筈じゃないか」

「彼等にはFOBの概念がよく解っていないケースが多いんだ。そこまで払って合わないのならキャンセルした方がいいな」

「しかしL/Cはオープンされてしまっているし、その額の分だけでも変なものを送ってこられたら後が面倒になる」

「そうだな、L/Cは輸出側を護る意味合いが濃いからな」

クンは諦めて諸経費の額を尋ねた。

「既述の通り嵩張る品物なので、国内運賃が千二〇〇ドル、梱包料が業者の見積もりによると千三〇〇ドル、通関手数料及び輸出税が九六〇〇ドル、タイまでの船賃が七二〇〇ドルの総計二万三〇〇ドルである」

各項目毎に業者の見積書が添付されて、通関業者名とその振込先が明示されていた。

『FOBに対して七〇%弱の経費は痛いが、珍しい物だから仕方がないか』

クンは決心すると指定の口座へ電信送金を行った。

 

タイの衣料は欧米や日本にとっては春夏物が中心となり、通常出荷は十一月くらいから翌年の六月くらいまでがピークとなる。

七月も後半となりミリオネックスの集荷も落ち着いてきた。クンはランを久々に食事に誘った。

最近オープンしたばかりの日系の大衆焼き肉の店『南大門』である。この店はタイに上陸するや忽ちの内に七店舗を出店し、日本外食チェーンの資本の凄まじさをロンにも見せつけていた。

「あなたの会社も大丈夫そうね」

二人の間にあるガス焜炉は、都市ガスが普及していないためプロパンである。 ランは甲斐甲斐しく肉を裏返しては、焼けた物からクンの小皿へと運んでやっている。

「これからはちょっと暇になるんだよ。この六月から一〇月までの仕事を増やせば年間を通じて利益が安定するのだけれど、今は仕事が少なくても従業員をキープしておかなければならず、冬の利益の一部を吐き出してしまうんだ」

「夏と冬が反対のオーストラリアでも開拓すれば」

「それは皆考えるんだが、オーストラリアは市場としては余り大きくないから、皆が売り込みに行くと直ぐ飽和状態になってしまうんだ」

「成る程ね」

ランは商売の中身より、クンの経営者としての成長振りに興味があるらしく相槌だけを打った。

「まぁ、冬の間に稼いでおけば夏は乗り切れるから」

「インカは余り手を広げちゃ駄目よ」

「分かっているが、一店舗では直輸入の商品は捌ききれない、だから少しだけチェーン化を考えている」

実際、彼はこの夏の間に三店舗を建て続けにオープンさせていた。

「それより君との約束をそろそろ実行させたいんだけど」

「約束って」

「ひどいな、結婚だよ」

「私は忘れていたわ、だってあなたの家族、つまり客家には入れて貰えないわ。

客家は北の出身でしょ、私の父は南の広東よ」

『南船北馬』が意味するように、中国の南は河が発達し船で移動する海の民族であるのに対し、大雑把に言えば、北は馬で移動する騎馬民族に近い。

又、食文化も北が小麦を中心とする麺が主食であるのに対し、南は米食文化である。

同じ漢民族でも揚子江を挟んだ北と南では別の国家の観がある。

「君がそんなことを言うなんて」

「結婚って恋愛じゃないわ、生活よ」

「だからこそ色々障害を乗り越えてでも、結婚しようと言っているんだ」

クンは自分が多少青臭いことを言っているのかなと感じたが、この場合ランを説得する言葉は見つからなかった。

「私だって二八歳よ、結婚は考えるわ」

この時代のタイにしては晩婚であり、ランにも僅かであるが焦りはあった。

「クンも成功したんだし、もっと若い子でも見つければ」

「何を拗ねてるんだ、君と結婚したいんだ」

「ご免なさい、言ってみたかったの」

クンには彼女が彼の愛を確信した上での甘えであることは分かっている。

「結婚することは予定の行動として、後は時期の問題だ、と言うことでいいだろう」

「珍しく強引ね」

ランは頷かざるを得なかった。

「ここまでお互い待ったんだ、何が何でも今日、明日というわけじゃない」

食べ残した肉が焜炉の縁ですっかり固くなっている。

『柔らかい内が花なのに』

ランはその肉に焦点を当てたまま再び点頭いた。

 

外は南国特有の気怠い空気が澱んでいるが、それを切り裂くようにけたたましいクラクションの音が満ちている。

路上の騒々しさとは無縁のエアコンの効いたミリオネックスの室内でクンは久しぶりにのんびりしていた。

『そうだ、ペルーの件はどうなっているのだろう』

クンはアキアットを呼んだ。

「送金をしたのはいつだっけ」

「3週間前です」

「確か通関業者へしたんだよね」

「そうです、輸出者より安心だと言うことでした」

「その業者へFAXを流して状況を聞いてくれ」

「はい、わかりました」

今日は直樹がネパールの帰路バンコクへ立ち寄る日であった。カトマンズ発TG三一二便は定刻通り五時半に着陸した。

「流石にTG(タイ航空)は正確だ。私はバンコク経由の時はTGしか使わないんだ」

直樹は機内で既に飲んできたらしく上機嫌である。

「私も買付にカトマンズへ行ってみたいな」

「しかしバンコクにはネパール人やインド人が自国の商品をかなり持ち込んでいるよ」

「そうなんだけど、釈尊の生誕の地だからね、一度は行ってみたい」

「そうか、クンさんは熱心な仏教徒だったね」

二人はパトナムマーケット近くの日本料理屋にいた。

「カトマンズには日本料理屋はないのか」

「ある事はあるんだけど、日本人のオーナーが帰国してから味が落ちてね」

「相変わらず世界の事情に詳しいね」

『直樹みたいに世界中を旅してみたい』クンの眼はそう物語っている。

直樹はそれに気が付いたのか、話題を変え訊いた。

「インカはどう、余り儲からないだろう」

「もう四店舗になってしまったけど、まぁまぁさ」

「四店舗ね、民芸品屋は好きな人には楽しいけれど、所詮は喰ってお仕舞いさ。

まぁ、世界中へ仕事と称して行けるのがメリットかな」

クンは本業が利益を出している以上インカは趣味と言われても言いと思っていた。

「自前の店舗も資金がいるので、デパートのコーナーにでも展開しようかと思っているんだ」

「デパート側もエスニックは自分達では調達しにくい商材だから、飛びついては来るんだけれど」

「だけれど」

「集客力はあるが、所詮は人寄せパンダであって、デパート側が期待する程売上げは作れなくて」

「どうなるんだ」

「リニューアルと称して退店勧告さ」

直樹は自嘲気味に笑った。

「厳しいな」

「だから、この商売には力を入れない方がいい。私も三三歳だし、そろそろ別の仕事も始めようかと思っている」

「そうか・・・・・」

クンはそれでも納得しかねている容子であった。

「実はナオさんに以前相談したペルーの件なんだけれど、あれ以来音沙汰無しなんだ」

クンは手短にその間の事情を説明した。

「それは怪態い、幾ら南米の仕事が遅いと言っても、それはペルー大使館にでも問い合わせた方がいいよ」

「やっぱりそうか、やってみると貿易って難しいモンだね」

「見たことも会ったこともない奴と商売するんだから、それでも東南アジアの場合は日本人と共通する価値観があるから或る程度はわかるが、南米やアラブ圏となると慎重にならざるを得ないよ」

「ナオさんでもそうなんだ」

「そんな暗い顔をするなよ、パッポンでも繰り出そうよ、私も久しぶりに都

会の夜で遊んでみたいからね」

「最近金詰まりで、余り高いとこへは行けないよ」

直樹はその言葉に不吉な感じを覚えたが、おくびにも出さず続けた。

「いいよ、いつもクンさんに奢って貰ってるから、今日は私に払わせてよ」

二人はタクシーを捕まえると、一路南下してパッポンへと向かった。

翌朝クンは宿酔い気味の頭でペルー大使館へ電話を入れた。

「こちらのリストには載っておりませんので本国へ照会いたします」

クンは仕方なく待つことにした。

午後になって江本が社長室へ現れた。気のせいか顔が紅潮している。

「ビッグビジネスだよ」

「どうしたんだ、そんなに慌てて、まぁ坐れよ」

「ミヤコも呼んでくれ」

いつもは積極的な洛子であったが、江本とのことが既に知られていると思うとクンに会うのは何か気恥ずかしく、最近は営業部の部屋から滅多に出て来なかった。

「どうだい、新しい家は」

洛子は顔を赤らめると口を噤んだ。色白の頬が赤く染まっていく様は、こちらが罪悪感を覚えるほどに典雅な印象を残した。

「そんな事じゃないよ、彼女がシンガポール時代に知り合った大手スーパーがタイで生産を始めたいと言うんだ」

「ええ、突然日本から電話が入りまして、シンガポール時代の友人がそこの企画室へ配属されたらしいのです」

「彼女が言うにはコンペらしい」

「コンペティション」

江本は心持ち胸を張って説明を始めた。

「つまり、一〇数社を選んで価格や品質などを競争させて、その中から数社を指定業者に選ぶと云うことなんだ」

「クンさんウチなら勝てますね」

洛子に積極さが戻ってきている。

「これが成功したら安定した輸出先が確保できる、そしたら洛子に特別ボーナスを出してやって欲しいんだ」

クンはやや顔を歪めて唸るように言った。

「考えておこう」

「約束してやってくれ、彼女の励みにもなる」

「わかった、成功したらね」

ロンならここできっぱりと断るのだろうとクンは思った。

「社長、ありがとうございます、私頑張ります」

「ワタルも知っていると思うが、我が社の資金繰りは以前よりタイトになっている」

「インカのせいじゃないのか」

「それだけじゃない、経費が多過ぎるんだ」

「俺達が、と言うのか」

「誰と言うんじゃなくて、これからは今までみたいに気前良く経費を使えないと言っているんだ」

「だからこそ、この仕事を成功させなくてはいけないのだよ。クンさん、もっと前向きにビジネスを考えようよ」

「分かっている、ミヤコその件は全力で進めてくれ」

部屋を出ていく二人の背中を見つめ乍ら、いつかこの二人とは別れるときが来る予感がした。

江本と洛子が準備のため日本へ帰った後、クンはインカに力を注ぐことにした。 そんな矢先ペルー大使館より『照会先に該当する企業名はありません』と、言うFAXが入った。

クンは驚いて受話器を取ると、事情に詳しい担当者を電話口へ呼んで貰った。

「恥ずかしい話ですが、この様なケースはよくあることなんです。貿易に詳しいアメリカ人グループがペルーを舞台にして暗躍しているらしいのですが」

「捜査は出来ないのですか」

「ペルー政府も相手がアメリカ人では弱腰にならざるを得ません。この他にもサンプルを世界中から騙し取って、アメリカの業者へ安く叩き売ってしまう奴等もいます。この時の舞台は如何にも大量買付をしそうな日本やヨーロッパを選ぶらしいです」

「そんなに簡単に引っかかる物ですか」

「最も単純な手口は一、二度の少量注文には送金を行うのですが、大量注文になると、銀行の融資とかL/Cの手続きに時間が掛かるとか色々理由を付けて送金を遅らすのです」

クンも銀行を理由にする手口は以前に経験している。

「その間に商品は出来上がってしまうでしょ、そこらを見計らって送金の書類に偽造した銀行の印を押してFAXしてくる。商品は揃っているし、業者は初めての取引先じゃないからと、船積みをしてしまうらしいですよ。貴社の場合は今回は輸入で逆ですが」

「そうですか、わかりました」

世界を舞台にする国際詐欺グループなら諦めるより他はなく、直樹の言う通り、見たこともない相手と商売する貿易の仕事の恐ろしさを実感せざるを得なかった。 しかし机の上のFAX一つで、世界中のビジネスマンと同時にありとあらゆる種類の商売が出来る、これも貿易の醍醐味であると直樹も言っていた。クンもこの意見には賛成である。

結局は電話回線の先の顔は見えずに大金が動く、この醍醐味と危うさが貿易の表裏を成す性格を表しているのだろう。

兎に角もって、現在のミリオネックスにとって送金額の五〇万バーツ強は痛い、クンの二五ヶ月分の給与額に匹敵する。

クンは又ひとつボディブローを喰っていた。

 

一〇月にはいると日本を始めとする海外バイヤーが続々とミリオネックスを訪れてくる。江本と洛子のサンプル出荷も順調に進んでいるようで、ジュディも今やアパレルの知識を豊富に持ち十分に仕事をこなしている。

『又、忙しい季節がやってきた、夏の浪費を取り戻さなくては』

クンも体中に気力が漲ってくるのがよく解る。

しかしその間にもインカの売り上げは落ちる一方であったが、彼は忙しさにかまけてその事は忘れようと努めていた。

世間に噂に拠るとロンは又大きな事を仕掛けるらしい、クンは益々仕事に没頭した。

「コンペは進んでいるか」

「報告が遅れたが、サンプル二〇型の内四型が通った」

「サンプル代金は向こう持ちか」

「そんなことは出来ないよ、ウチで負担したさ。担当者の気分を害したくなかったのでね」

「そうか」

「でもこの四型が受注できれば相当な利益が見込めるよ」

「しかしコンペなんだから利益は宛に出来ないんだろう、ミヤコ」

「価格は抑えますが、適正利潤は確保しますからご安心下さい」

「日本の納期の厳しいのは知っているが、布の手配や工場のラインの確保も抜かりはないだろうね」

クンも少し興奮気味に質問を浴びせかけている。

「工場はいつも使っているところを押さえてありますし、布や付属品はジュディが担当しています」

「万全だな」

「大丈夫だよ、クンさんも心配性だから。明後日には相手先のパタンナーもバンコクへ入り、最終のサンプルチェックが始まることだし、全てがオーケーさ、マイペンライよ、クンさん」

江本も上機嫌で笑った。

クンは江本の笑い顔を見ていると、不安と期待が入り混じってはいるが、やるしかないと確信した。

「クンさん、起死回生だよ、来年は」

江本はまたもや大きく笑った。

 

 

第一〇章 画龍点睛

 

クンは新年の祝いをロンの家で行っていた。ランも一緒である。

東南アジアの華人系の正月は旧暦で祝うので、日本や欧米に比べると拍子抜けするほど質素である。

旧暦とはルナカレンダーと呼ばれる太陰暦のことで、太陰とは英訳のルナの通り月の異名である。よって毎年正月の日にちは一定していない。

この旧暦の正月に当たる時は、東南アジアの華人たちが一斉に移動するので、飛行機の予約を取るのが難しくなることが多い。

旧正月には長い休暇を取る華人達も、この太陽暦の正月には大晦日と朔日しか休みを取らないのが普通である。

「ロン、何か又大きな事業を考えているんだって」

「前にも話した俺のレストラン事業の集大成さ」

「何だかすごそうね」

「大小様々な各国の民家風の建物を造り、その全てを池に浮かべて回廊で結ぶんだ」

「敷地は」

「約三〇〇〇坪さ」

ロンは事無げに言うが、クンもランも息を呑むしかなかった。

「広すぎて運んでいるウチに料理が冷めてしまうから考えたんだ、ウェイター達にローラースケートを履かせるのさ、その上各国の民族衣装を着せてね」

クン達が唖然とする内にもロンは続ける。

「池の中央には浮き舞台があって、各国の民俗芸能やらその他のショーをやる、ウェイトレスをロープウェイで吊って、メインのレストランへと飛ばすんだ。まぁ、天女が料理を運ぶような物さ。趣向を変えてピーターパンでもいいし、スーパーマンでもいい。

別棟には中国風の五重に塔を建てVIPルームを作る」

ロンのアイディアは涸れることのない泉の如く湧き出てくる。

「託児所もあれば、酔客の運転代行サービスもある。

入り口には山海の珍味を並べ、お客様に選んで貰って好みに合わせて料理もする。 退屈した子供達の遊園地もあれば、土産品のブースも作るつもりだ」

「将に食のディズニーランドね」

「その通りだ、ラン。将来は隣地にアミューズメントパークとホテルを併設する予定なんだ」

「皆が噂しているより壮大な計画だな。新年早々の大ボラとしても楽しい話だ」 クンは友の成功を心より喜んでいるようである。

「お前はいい奴だな、心が綺麗だ」

「何を突然言うんだ、それより名前は」

クンは照れ臭そうに訊いた。

「俺の名前の龍を取って『ロイヤルドラゴン』だ」

「ロイヤルドラゴン、集大成を飾る大きな名前だ、お前のセンスとアイディアが羨ましいよ」

今度はロンが照れ臭そうに笑う番であった。

「じゃあ、ソンポーンも今回のこのプロジェクトに大張り切りというわけか」 「・・・・・・」

「彼は反対なのか」

「そうじゃなくて、辞めて貰ったのさ」

「どうして又、片腕じゃなかったのか」

クンは以前にも同じ質問をして、ロンの答えの歯切れが悪かったのを思い出した。

「奴は従いてこれなくなったんだ」

「喧嘩別れか」

「いや、クンも知っての通り」

ロンは沈痛な面もちで話し出した。

「ウチも大きくなった。部門も増えていく、必然担当部長やら役員が必要になった。銀行や大手企業からヘッドハンティングで人材を集めたんだが」

「当然だろう、ウチでもやっている」

クンは未だ納得がいかず、訝しげな顔をしている。

「スパポーンも古参幹部の一人だ、幹部には幹部の仕事がある。システムを作成したり、それによって組織を運営するというね、つまり、手足じゃなくて我が社の頭脳になって貰わないと困るんだ」

『お前らみたいにいい大学じゃなかったけどね。職が無くてロンに拾われたのさ』クンは工事現場でのスパポーンの言葉をはっきりと思い出した。

『あの時既にロンとの確執が始まっていたのか』

「始めた当初は二人ともレベルが低くても大差なく仕事が出来たのが、事業が複雑になるに連れて本来の能力の差が出てきたというのか」

「言い辛いことだが、彼が古株の幹部で居ると、他の新しく入った有能な幹部が仕事がやり辛いんだ、つまり彼等幹部のレベルがスパポーンのレベルまで落ちてしまうんだ」

「切ったのか」

「泣いて馬謖を斬る、それしかなかったんだ、我が社の成長発展の為にはね」

ロンの目に涙が浮かんでいる。ロンの涙を見たのは初めてであった、クンも沈黙した。

『友人ながら恐ろしい奴だ、そこまで徹底するのか』

  「 狡兎死して走狗追われる、兎狩りが終わったら狩猟犬はお払い箱とは言われたくない」

ロンは声を出して嗚咽した。

「ウチの女の子でも、古株のくせにいつまで経っても客相手の仕事しかできない子もいれば、新顔なのに他の女の子を仕切っている子もいるわ、それはロンが悪いんじゃないわ。天性よ、適正と言ってもいいわ」

「スパポーンも現場で汗を流している方が楽しいんじゃないか、彼にはエアコンの効いた部屋でネクタイを締めているのは似合わないよ」

「華人の経営者は非情でなくてはならないと、あなた言ってたじゃない。しっかりしてよ」

ロンは頭を上げると刮と目を開いた。その眼にはもう既に涙は消え、いつものロンに戻っていた。

「それでこそ我らがビッグボスだ。さぁ、タイ国とタイ国王に乾杯だ」

「俺はいい友人を持って幸せだ、社長は孤独な職業と言うが、俺は違う。クンとランの婚約にも乾杯しよう」

ランは俯き加減にはにかんでいたが、その笑顔は嬉しそうだった。

 

「クンさん、例のスーパーの企画課長が来週バンコクへ来るらしい、正月早々にくるということは発注の確度は高いよ」

「そうか、いよいよだな。今度は私も会うから一席設けてくれないか」

「勿論さ、ミヤコとジュディも連れていく」

「彼は英語は殆ど話せないから、仕事の話は別の時に改めてしよう。今回はミリオネックスの社長として挨拶してくれ」

クンは快諾した。

その日はクンも最高のレストランを予約した。

「初めまして、私が野中といいます」

これが彼の英語の限界であったが、差し出された名刺には『スーパーCHUBU』と、ある。東海地方に本社を置き、全国制覇を目指す中堅スーパーでクンもその名前は知っていた。

「このたびは江本さんのお陰で日本側の輸入商社を使う必要が無く、その分コストが下がるので当社の社長も乗り気です」

洛子が通訳をしている。

「型数は四型ですか、一型何枚ぐらいになるのですか」

「クンさん、具体的なことは言わないって事になってたじゃないか」

江本はそれを通訳することなく遮った。

野本は「フォースタイルズ」と聞いて、少し訝る態度を見せたが、クンはそれには気が付かなかった。

「さぁ、仕事の話は明日以降として、今夜はタイ料理をお楽しみ下さい」

「タイの女も味わってみたいな」

洛子には訳せない男達の会話であったが、二人が大声で笑うのを見てクンは上手く行きそうだと安心していた。

宴も酣になった頃、酔眼朦朧となった江本が言った。

「大切なお客様だ、私がパッポンに連れて行くから後は頼むよ。それと、今夜の接待費は大盤振る舞いになっても大目に見てくれよ」

「分かった、羽目を外して失敗するんじゃないよ」

江本は野本の肩を抱きながら急ぎ足で出ていった。

「ワタルったら、私心配だわ」

「まぁ、今夜は仕事なんだから許してやれよ、日本の女性はこんな時我慢するって聞いてるよ」

「クンさん、何年前の日本を御存知なんですか」

「いいじゃないか、ワタルはミヤコを裏切らないさ」

彼は既に妻と子供を裏切っている、今更洛子に何の義理立てをする必要があるのか、クンの言葉は慰めとしては不適当であった。

野本の帰国後二週間ほどが経った頃、江本が駆け込んできた。

「やったよクンさん、一型二万枚ずつで合計八万枚の注文だ。大手の注文は桁が違う」

「いくらになるんだ」

「一枚が約一二ドルだから一〇〇万ドル弱になる、将にミリオネックスだよ」

「生地代は」

「約半分だ、心配しなくても手形で払うと工場には伝えてある。しかしデポジットとして二五%はキャッシュが必要になる」

「二五%か、五〇〇万バーツほど要るな」

クンは暗い顔をした。

「わかっているよ、金がないんだろう。でも政府の報奨金も入れると四〇〇万バーツ近くの利益だぜ、ペルーの損失なんて取り返して余りある」

「知ってたのか」

「当たり前さ、ミリオネックスは私の会社でもあるんだよ」

「済まない、言い出しにくくってね」

「済んだことはいい、今回の取引で一気に起死回生さ」

「わかった、なんとかしよう」

「しかしだな、問題があるんだ。野本さんも言ってたが、今回は商社を使わない、従ってCHUBU自信がL/Cをオープンするため銀行の審査に時間が掛かると言うんだ」

クンは当てが外れた。

彼は開設されたL/Cを担保にして銀行から融資を受けるつもりでいたのだ。

通常なら会社の信用力にも依るが、L/C額の五〇%は借り入れが出来た。

「船積みは何時なんだ」

「彼等は三月の末と言っている」

「出来るのか」

「クンさんのオーケーが出れば今日にでも生地は手当する。既にミヤコとジュディがスタンバイしている」

「手早いね、日本人だ」

「で、どうする。諦めるのか」

クンは天を仰いで、大きな溜息を吐いた。

資金繰りに関与していない江本は、ここが正念場とばかりに説得に力を入れる。

「クンさん、わかっているのか、この注文はミリオネックスの年商の四分の一だぜ。たった一回の取引でだよ。それにこれに成功すれば、彼等もコンスタントに注文を出してくるに違いない。

インカだって後何軒かはオープンしたって言いさ、俺は文句を言う気はない」

クンの頭の中にロンと老大と直樹の姿が交互にフラッシュバックしている。

『老大が生きていたら何というのだろう、客家の誇りを持って突き進めと言うのだろうか、分相応のビジネスをしろというのだろうか、又、ロンや直樹なら・・・・確かに利益は大きいが、L/Cが来なかったり不良品が出たら立ち直れない』

「クンさん、しっかりしてくれよ、社長に必要なのは決断力だ。社長の決断で会社が右へ行くのか左へ行くのかが決定されるんだ」

「だから迷っている」

「俺が言うべき事ではないが、ランのマンションを担保に入れて融資を受けよう。幸いにウチには信用がある、いやクンさん自身の信用力だ」

「ランには迷惑を掛けたくない」

「迷惑だって、我が社が儲ければ、株主である彼女だって潤うんだよ。それに結婚するんだろう、女房が主人に尽くすのは日本でもタイでも一緒じゃないのか」 『女房、ワタルに女房を語る資格があるのか』クンは叫びたかったが、一息入れるために大きくマールボロを吸った。

『ワタルのこの積極さはなんだ、何か他意でもあるのか』

冷静になったクンは思考の焦点を江本に移してみた。

「俺が余りにも熱心なのが不思議なのか、説明するよ。俺はフィリピンで失敗している、タイでは成功者になりたいんだよ、これは俺の人生の賭でもあるんだ」 クンは内心を覗かれた気がしたが、依然として沈黙を保っている。

長い会話の空白が続いた。

「クンさんが駄目なら仕方がない。あんたが社長なんだから」

何本目かのマールボロを灰皿に押しつけると、クンは決心したようだった。

「わかった、ランに話してみる」

江本は今にも泣き出さんばかりにクンの手を取ると頭を下げた。

クンにとって最初で最後のビッグビジネスがこの瞬間動き出した。

いつもならジュディと洛子に工場の方は任せるのだが、今回はクンも精力的にあらゆる行程をチェックしていた。

二月の初旬には生地もそろい、染めが終わると直ぐ裁断に入っていく。

「日本人の管理システムは学ぶところが多いね」

「後は大丈夫だから、クンさんはどっしりと構えていてくれ」

カレンダーが 三月に変わって、商品の殆どが最終工程へ入る頃になってもL/Cは開設されない。

「CHUBUへは何度も催促のFAXを入れてるし、昨日も野本さんへ電話をしたんだが、もう少し待ってくれと言うんだ。最悪の場合でも送金ベースでやると言っているのだから支払いに問題はないよ」

クンはペルーとの一件が脳裏をかすめたが、直ぐさまそれを打ち消すと、 『日本の中堅スーパーが支払いをしないはずはない』、それには確信を持っていた。

「ワタルに後を任して悪いんだけど、私はインカの仕入れにバリへ行こうと思っている。勿論船積の前には戻ってくるから」

「いいとも、クンさんも少し疲れているようだから、休養も兼ねて行って来るがいいさ。

ミヤコもジュディも張り切っているし、何も心配は要らないよ」

「いや、一週間ぐらいで帰ってくるよ、皆に全てをやらす訳にはいかないしね」 「相変わらず心配性だね」

 

ミリオネックスが江本と洛子の為に借りた一軒家は郊外の閑静な住宅地にあった。 華僑や外国人ビジネスマンが数多く住む、バンコクでも有数の高級住宅地である。

「クンは一週間だと言っていた。全てを急がなくては」

「こちらの準備は完了よ」

「でもゆっくりしているとロンが居るから、ランも鋭い勘を働かすことがあるからな」

「私ロンって嫌いだわ、一緒に食事をしたことがあったでしょ、口の周りを油だらけにして、がさつに鶏なんかを貪り食っていると嫌悪感が増してくるの。

その上皿に顔を浸けるようにして食べながら、こちらの方をちらっと睨み付ける時なんか、嫌悪感を通り越して背筋に冷たい物が走るのよ」

「俺もロンの視線には不気味な物を感じることがあるよ」

何不自由なく大学まで出して貰った洛子は、叩き上げのロンとは肌が合わないらしい。

「ご主人様、お食事の用意が出来ました」

微笑みの国タイに相応しく、彼女達二人のメイドの表情には常に微笑が漂っている」

「この子達だって顔は笑っているけれど、お腹の中では何を考えているのかわからないし」

「洛子、今日はご機嫌斜めだな」

「前だってそうよ、私達がチェンマイへ出張してた時、彼女達どうやら友達か親戚をこの家に泊めたみたいよ」

「考えられるな」

「帰ってみると、冷蔵庫の中身は変わっているし、ラジカセの位置も違っているし、私達のベッドに明らかに私達のとは違う毛髪があったわ」

「外国人駐在員共通の悩みらしいね。自分達が居ないときの方が電気代が高くなっているケースもあるらしい」

「と、言って全ての部屋に鍵を掛けて外出するわけにも行かないし、でも少なくとも冷蔵庫には鍵を掛けることにするわ。それに私達の部屋だけは一々鍵を掛けた方がいいんじゃないかしら」

「こっちの奴等は自分の物と他人の物の区別を付けないからな。ま、その都度注意して直していくしかないんじゃないかな」

「だけどキリがないわ、机の上も食卓も埃だらけなのに私が注意しないと拭きもしないし、この前もトイレのタオルを洗って布巾替わりに使っているのよ、私卒倒しそうになったわ。

汚いのよ、不潔なのよ、もう我慢できないのよ」

洛子は形のいい唇を震わせて吼えた。

「まぁ、もうすぐお終いだ、もう少しの辛抱だよ」

「もうあの不快なロンの眼を見ることも、この不潔な女の子達ともバイバイか。クンさんには少し悪い気がするけれど・・・・。

でも彼のような人が社長になっちゃいけないのよね、自業自得ってとこかな」 「クンだけならやり易かったけれど、ロンが入ってきて我々の計画もスムーズにいかなくなったからな。このままでは、儲けた金を自由に使おうと云う当初の目論見は窮屈になるばかりだ」

洛子も長く伸びた髪を掻き上げると大きく頷いた。

クンが出発したその日から、二人の行動は以前にも増して慌ただしくなった。

 

四月になったばかりの東京は未だ肌寒さが残り、散り落ちた桜の花びらがピンクの絨毯を敷き詰めている。

直樹は珍しく早い内にマンションへ戻り、一人で晩酌を楽しんでいた。

窓の外には気の早い桜が若草色の葉桜を付け始め、気温は思うようには上がらないが、夕暮れの陽射しも春の表情を見せている。

『電話かな』

直樹が受話器を取ると、そこにはクンの明るい声が飛び出してきた。

「どうしたんだ、自宅に電話をくれるなんて珍しいね」

「ナオさんの店へ電話をしたら、もう帰ったというのでね」

「偶には早く帰って一杯やりたくってね、何か急ぎの用かい」

「いや、大きな仕事が終わって、ナオさんの声が聞きたくなったんだ」

「何だか嬉しそうじゃないか、余程好いことでもあったんだな」

「そうじゃなくて、肩から大きな荷物を降ろして淡々とした心境なんだ」

「勿体ぶるなぁ」

「本当に大したことじゃないんだ、それより一仕事終えたから、念願のネパールへ行きたくてね」

「ネパールはいいところさ、疲れた体をヒマラヤの山々が温かく包んで呉れる。そうだ私の友人を紹介しようか、どうせ買付に行くんだろう」

「買付、ああそうなんだ。紹介して貰えると有り難いね」

 

「出発の日がわかっているのなら、わたしからFAXをいれておこう。

チャンドラって云うのだが、いい奴だ。直ぐに友達になれるのじゃないかな」

「ナオさんの友達ならそうだろう。ワタルとは違う」

「ワタル、彼と何かあったのか」

「いやなんでもない、彼は今日本に居るんだろう」

「バンコクじゃないのか、彼とは日本で会った事がないのでわからないが、

探しているのか。やっぱり何かあったんじゃないのか」

直樹には閃く物があった。あの江本ならしそうなことだ。

「本当になんでもない。出発は明後日なんだ。ナオさんの好きなTG三一一便さ、到着時間はナオさんの方がよく知っているだろう」

「オーケーそうFAXを流しておく」

「ナオさんには色々教えて貰って感謝しているよ。私は日本人と親友に成れるなんて思ってもいなかった。

メキシコシティのタイレストランにはもう一度行ってみたいな、又南米に連れていって呉れよ」

「やはり何かおかしいな、本当にネパールへは行くんだろう」

「勿論さ」

「気を付けていってくれ、カトマンズは未だ寒いと思うから風邪なんか引くなよ」

「マイペンライ、マイペンライ」

受話器を置いた直樹は何か引っかかる物があり、ネパールへFAXを入れると共にランにもFAXをした。

「クンさんの様子が変だ。出発まで出来るだけ多く一緒の時間を過ごして欲しい。私も早い内にそちらへゆく」

クンの乗ったTG三一一便は四月の最初の土曜日、一〇時半にバンコクを飛び立った。

 

 

終章 天使の棲む街

 

土曜の夜は直樹は自宅で飲むことにしている。

少しは暖かくなったとは雖も、四月の始めである、直樹は好物の湯豆腐を前にしてテレビを見ながら一杯やっていた。

突如、テレビ画面にニュース速報が入った。

直樹は一瞬息を呑んだが、自分自身に湧き上がった予測を直ぐさま否定した。 だがしかし、二度目に同じテロップが表れたときには、明らかに疑いの心境になっていた。

「バンコク発カトマンズ行きタイ航空三一一便が消息を絶ちました」

直樹は俄には信じることは出来ず、更にテレビの画面を見入っていた。

一時間ほどが過ぎ、同じニュース速報のテロップが流れた。

「TG三一一便はカルカッタのレーダーから消えた後、消息不明」

二度目のテロップも同じだった。

直樹は自分を落ち着けさせようと更にビールを注いだ。

その時だった。電話のベルがけたたましく鳴り、チャンドラの絶叫が耳に入ってきた。

「クンさんが来ない、TGが消えた」

「落ち着け、現地の状況はどうなんだ」

「空港は大騒ぎだ、軍隊がインドとの国境へ向かっている」

「国境ってルンピニの方か」

「そうだ、ルンピニ近辺で目撃者が居るらしい」

直樹はルンピニ、釈迦の生誕地と聞いて体が凍りつきそうになった。

「ルンピニか」

「ナオキどうしたらいい」

「バンコクへ電話してみる。クンさんが確かに乗っているのか確認してみないと、悪いが一時間ほどたったら又電話を掛けてくれ」

「解った、こちらも出来るだけ多く情報を集めておく」

ナオキは受話器を取り直すとミリオネックスへ電話を入れた。果たして半狂乱のランが居た。

「ナオさん、クンが、クンが」

「わかっている、こちらでニュースを見て電話を入れたんだ。しっかりしろ、クンさんは乗っていたんだな」

「勿論よ、私が空港まで送っていったのよ」

「そうか」

ナオキは一縷の望みが切れた、と感じた。

「未だ墜落したとは限らない、ネパールの情報はチャンドラから刻々入ることになっているから安心しろ」

「私はどうしたらいいのか」

「江本は居ないのか」

「ワタルは居ないの、ミヤコもジュディも丁度クンがバリへ行っている間から会社へ来なくなったらしいの、アキアットがそう言ってるわ」

ナオキには色々なことが見えてきて、或る予感が頭を擡げ始めた。

「もう少し情報を集めよう、俺は自宅にいるからランも会社にいてくれ」

ナオキはタイ航空の東京支店へ電話を入れたが、回線は容易には繋がらない。ネパールへの日本人観光客は多く、この便にも相当数の日本人が乗っていることが予想された。

更に時間が過ぎている。

すっかり暗くなった部屋の中はナオキの吐き出す煙草の煙が充満し、テーブルの上には空になったビール瓶が所狭しと並んでいる。

全く汁気の無くなった鍋の中では、堅くなった豆腐が小刻みに踊っている。

直樹がそれに気が付き火を止めようとした時、テレビの画面に再びテロップが流れ始めた。

「消息を絶っていたTG三一一便らしき機体の一部を、ネパール国境付近にて発見」

 『死んだわけじゃない』

直樹はチャンネルを変えた、NHKでは深夜の特別報道番組を流していた。

「今夕、ネパール空軍の発表に依りますと、バンコク発カトマンズ行きのTG三一一便はインドとネパールの国境付近にて突然消息を絶ち、現在機体の一部を回収している模様です」

直樹は大きく息を吸って新しい煙草に火を点けた。灰皿は既に吸殻がはみ出している。

「只今新しい情報が入りました。機体の本体部分を発見し、近辺には遺体らしき物が散乱しているとのことです。尚、当機に乗って居られた日本人搭乗者のリストは・・・・・・」

直樹はランへ電話を入れた。

「駄目だわ、駄目なのよ。ナオさんお終いよ」

ランは泣き叫んでいた。

「落ち着け、アキアットに替わってくれ」

「ランは今ちょっと手が付けられる状態ではありません。先程タイ航空から電話があって、明朝家族を連れてカトマンズへ行くから、身元確認が出来る人を用意して欲しいと言ってます」

「絶望的か、アキアット、しっかりしろよ。で、誰が行くんだ」

「ランが行くと言っています」

「わかった、二、三日以内に私もバンコクへ行く。君が皆をまとめて元気づけておいてくれ」

直樹は混乱する頭を鎮めようと更にビールを注ぎ、気が付いた時には窓の外に弱々しい太陽が昇りだしていた。

 

バンコク空港へは冷静さを取り戻したランが迎えに来ていたが、足取りの不確かな彼女をアキアットが後ろから支えている様子であった。

「これしか無かったわ」

涙声に戻るランが見せた物は、びしょ濡れになったパスポート一冊だった。

そのパスポートの縁は焦げ跡が残り、インクは滲み出してはいたが、そこには生真面目なクンの顔があった。

直樹が顔を近づけると焦げ臭い匂いがまだ残っている。直樹は天を仰ぎ嗚咽した。

アキアットも泣き、ランも泣きじゃくった。

 

タイの葬儀に就いては既に述べた。

葬儀の席上直樹と龍華は親族並に扱われ最前列に座らされた。

壇上を彩る数多くの供物は日本のそれとは全く違う華やかさを持ち、その中央に薄汚れたパスポートが、写真のあるページを開いて置かれている。

「クンはナオキさんを本当の親友だとよく言っていた」

直樹は頷くばかりであった。

「私はクンとは永い付き合いだったが、ナオさんとの間柄には勝てないと思っていた。

日本人は仕事に関してはきついことを言うが、後で考えるとそれが正しい方法だとわかったとも言っていた」

直樹は黙り続けている。声を発すると涙声になりそうで辛かった。

僧侶達の何度目か読経が終わると、その場で食事となる。

親族と僧侶達は堂内で摂るが、他の弔問客は境内に設えられた座席で野外の宴となる。

クンの生前の徳を表すように、境内の人波は大きなうねりを見せ、新しく訃報を聞いて駆けつけてくる人は後を絶たない。

一様に参列する女達は涙を拭い、男達も俯いて黙々と食事を口へ運んでいる。

直樹が壇上を見上げると、そこにはいつもの微笑みを湛えたクンが今にも話しかけてくるように見えた。

『ナオさん、何だよそんな顔をして、早く飯でも喰ってパッポンへ行こうぜ』 直樹は確かにその声を聞いた。

 

 

葬儀が終わり、ホテルのロビーに直樹はランといた。

「実はこんな手紙が私のポストへ届いていました。差し出し日はあの事故のあった日です」

「何だ、これは私はタイ語は読めないので」

「クンの遺書です」

「遺書だって、そんな馬鹿な」

「飛行機事故は偶然で、彼はネパールで死ぬつもりだったのです」

「何だって」

 直樹は咄嗟にクンから電話があった時のことを思い出した。

その遺書には次のような文章が綴られていた。

「愛するランへ

今日、私は空港で君と最後のお別れをしなくてはならない。勿論君にはそんなことを気づかれないように。

私は今これを書きながら、出会いの夜の事を想い出している。

父に会って貰った日のことも昨日のように思える。 あの時は君には辛い思いをさせた。

私が不祥事を起こし、仏門に入っている間も君は待っていてくれた。

その後の不甲斐ない生活も君が支えてくれた。

君には感謝のしようもないのに、今回の日本の大手スーパーとの取引でまたもや取り返しのつかない迷惑を掛けてしまった。

愛する人に、これほどひどい仕打ちをする私を私は許すことは出来ない。

私はこれからネパールへ行くが、バンコクへ戻ることは二度とないだろう。しかし君に最後の不祥事について説明する義務があると思い、これを書くことにした。

日本のスーパーCHUBUからの注文は上手くいっていた。

船積みの前に私が疲れた体を癒しにバリへ行ったことは君も知っているが、これが今から思うと私の甘さを表していた。

帰国するとワタルとミヤコとジュディの姿は消えていて、生産された筈の商品もない。

工場へ問い合わすと既に出荷されているという。私は慌ててCHUBUの野本氏へ電話を入れた、すると、コンペには確かに参加されたが、ミリオネックスへ注文を出したことはないと言う。

CHUUBUのブランドの入ったラベルやタッグはワタルによって偽造されていた。

つまりこの話は始めから無かったのだ。

ワタル達はCHUBUの注文と見せかけ、全ての商品をミリオネックスに作らせ、私の居ない間に何処かへ売り捌いてしまったのだ。

今更ワタル達を責める気はない。総ては私の仕事に対する甘さから起きたのだ。 ワタルに、湖の淵に潜む龍が再び天に昇ったなぞと煽てられたのだが、その龍には眼が入っていなかった、つまり『画龍点睛を欠く』と、言うことなんだ。

睛のない龍はその大きな図体を持て余し、君も知ってのとおり数多くの判断の過ちを犯した。

否、私は龍と呼ばれるほどの人物ではなかった。

老大やロンの才能やあの気力が私には羨ましいが、所詮私はその器ではなかったのだ。

自分を龍に例えるのは烏滸がましいが、行き場を失った龍は再び湖の底へ戻らねばならない。

私はネパールのルンピニへ行くことにした。ルンピニは釈尊の生誕地であり、仏に仕える私の死に場所に相応しいと思ったからだ。

釈尊に許して貰えるまで断食をして、やがて即身仏になるつもりだ。この手紙を読んで私を捜しに来ないで欲しい。私はルンピニの山中奥深く、土中で読経をしているから無駄だと思う。

こんな我が儘な人生を送った私を釈尊が導いてくれるとは思えないが、許して貰えるまで頑張るつもりであり、今度は自分を甘えさせない気力はある。

もし仮に慈悲溢れる釈尊の許しを得ても、君や従業員から無責任の誹りは免れないことも承知の上だ。

君とはとうとう結婚することは叶わなかった。

君がもっと人生をしっかりと踏みしめている男と出会うのを心の底から祈っている。

天使の棲む街、バンコクに生まれ、あの騒々しい中華街で育った私は本当に幸せだった。

異邦人の私をタイの人は快く迎え、温かくつき合ってくれた。

今度生まれ変わったら私も天使の一員となって、その羽を翔かせ世界中を飛び廻ってみたい。

そして君ともう一度出会うことを願って止まない。

 

最後に私の全財産である貯金通帳とミリオネックスの株券を同封しておく。

君のマンションを担保にした借入金の一部に宛てて欲しい、又君が望むならこの会社を継いで欲しいとも思っている。

ロンも直樹も助けてくれるだろうし、君ならこの会社を立派に再建してくれる筈だ。

君は私に人を愛することの素晴らしさを教えてくれた。

私は君の愛に応えることなくこの天使の街を去って行くが、いつまでもいつまでも君を愛している。

暁蘭そしてプミポン国王に幸あれ

 

宋 薫華

 

 

「最後まで君とタイを愛してたんだ」

「私に一言相談してくれれば良かったのに、それが愛じゃないの」

「クンさんを責めるな、彼も辛かったんだろう。悩んだ末のことなんだ」

「あんな優しい心を持った人は事業なんかやっちゃ駄目なのよ。私のように多少は心に翳りがあった方がいいのよ」

二人の重苦しい雰囲気とは対称的にホテルのロビーは華やいでいた。

今しがた結婚式を終えたカップルの周りを友人達が取り囲み、楽しげに談笑しているのが否応なく目に入ってくる。

ランが長い髪を束ねているヘアクリップを外して大きく首を振ると、その髪が左右に波打って揺れた。

ランは左の指先で髪の先端を掴むと、涙の残る目の前にそれを持ってきて呟いた。 「マールボロの匂いが染み付いているの。この残り香が消えるまでクンを忘れないわ、でもいつまでも残っているのでしょうね」

直樹はそれには答えず、彼女の背中を優しく抱き車を呼び寄せた。

「ナオキさんもお元気で」

ランの立ち去った車寄せに一人立ち尽くす直樹は、確かにマールボロの匂いを嗅いだ。

 

 

あとがき

 

 この小説を書き終えた頃の東南アジアの経済発展は目を見張る物があった。

 しかし、日本のバブルが弾けた影響はこの経済圏にボディブローの如く効き始め、九七年末にはロシアの危機に端を発し、タイや韓国をIMFの管理下に置かざるを得ない状況まで追いやった。そしてそれはインドネシアのスハルト大統領を退陣させ、マレーシアの為替管理の強化を余儀なくさせた。

 現在紆余曲折はあるが、東南アジアの景気も底を打ったのではないかという観測が聞かれ始めている。アジアは嘗ての植民地時代のそれではなく、今や十分な底力を持つ国々であると信じてやまない。

 とりわけタイは欧米列強に植民地化されることなく独立を保ってきた東南アジアの中で唯一の国である。

ベトナムの共産国化で、東南アジア各国は倒れるドミノの牌の如く次々と共産圏に組み込まれてしまうのではないかと言われた時期があった。

やがてベルリンの壁が崩れ落ちると、世界の社会主義国家は自由経済の正当性に目覚め、経済発展の為のレールを敷くのに血眼を上げた。

アジアでも中国、ベトナム、ラオス、カンボジア、ビルマと次々と市場経済を採り入れ始めたが、元来独立を保っていたタイは一歩も二歩リードしていた。

嘗て、タイはインドシナ半島の中で唯一政治が安定している国であった時期が続いた、先進西側各国はタイへと雪崩をうって投資をし、経済を発展させることによってこの砦を共産化から護ろうとした。

タイ経済は投資額でこそ倍々ゲームを楽しんできたが、その貿易赤字は未だ解消されていない。西側の活発な投資がこの様な現象を招いたのも事実であるが、それによってタイがインドシナ半島の中で経済発展の常にトップを走ってきたのも事実である。

私はこの経済発展を続ける東南アジア各国に非常に興味を持ち、前回のインドネシアに続きタイを今回の題材として選んだ。

  前著「バリの宴」と同様一国の経済発展は、指導者の選んだ国家体制によってその大半が決まると私は思っている。

戦国時代、信長は『楽市楽座』の制によって商人達の自由闊達な市場経済に任せた。 中世の『座』とは一種の排他的な組合である、競争の自由が無い経済には、発展が無いことを信長は知っていたのである。信長の新しい城下町が賑わいを見せたのも当然の帰結であった。

住民の自治によって運営された堺の繁栄振りや、現在のフリーポート香港やシンガポールの発展振りを見ても、規制のない自由なる市場が如何に人心にやる気を起こさせるのかを歴史が証明している。中国の経済特区しかりである。

しかし東南アジアの発展を支えているのは、右の環境を与えられた華僑に負うところが多い。

アセアンの中でも、経済の発展の立ち後れが目立つフィリピンのその原因の一つは、国民性にも依るが、総人口に占める華僑の割合の少なさにも起因していると私は思っている。

私は職業柄多くの華僑ビジネスマンを友人に持つが、彼等のビジネスに対する積極性は貪欲さを通り越して驚異的である。

発展が始まったばかりの国家では、明治維新後の日本思い出せば解るが如く、何を始めても一番手であって、その殆どが成功する。彼等に言わせると、無人の地を駈ける抜ける虎の如く、面白いほどに儲かるらしい。

文中の龍華のような人物が、次々と成功を収めていくのは決して夢物語ではない。

  「バリの宴」でも、次々と新事業を展開していく華僑ビジネスマンを登場させたが、彼等にとっては儲かって当たり前であって、この環境内で失敗する奴は余程能力のない奴に見えるのである。

そんな華人社会の中で、仕事は正確であるが、心の優しさが故にビジネスマンに成り切れなかった主人公を設定してみた。

彼は私にとっても海外で初めて持った親友であった。彼の名誉のために言っておくが、文中の彼の行動は総てフィクションであるが、カトマンズ行きのタイ航空の事故でこの世を去ったことは真実である。

確かに彼は他の華人に比べて商売上の脇の甘さが目立ち、私もよく「クンさんは、優し過ぎるよ」とか「簡単に人を信用しちゃ駄目だよ」と、言った物であるが、逆に「梶浦は自分だけを信じているからね」と、皮肉を言われたこともあった。

事実は、彼には奥さんと幼い女の子が居た。私は今持って彼等や彼の兄弟とも交際しているが、クンさんの話題になると辛い物がある。

若くしてこの世を去ったクンさんを、私は幸福者だったと今でも思っている。

しかし、事半ばでこの世を去った友に、私はこの小説を捧げ彼の冥福を祈りたい。

 

  梶浦康一

 

             

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